山陰本線(さんいんほんせん)は、京都府京都市下京区の京都駅から、中国地方の日本海沿岸(山陰地方)を経由し山口県下関市の幡生駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。このほか、仙崎支線あるいは仙崎線と呼ばれる長門市駅 - 仙崎駅間の支線をもつ。京都市から西方向へ延び、福知山市・豊岡市・鳥取市・倉吉市・米子市・松江市・出雲市・益田市・長門市などの丹波・但馬・山陰地方の各都市を経て下関市に至る。路線の終点は幡生駅だが、幡生側の列車は下関駅まで運転されている。竹野駅から幡生駅までは線路が日本海沿いを通っている区間が多い。支線をのぞく営業キロは673.8kmで、新幹線をのぞくJR線(在来線)としては日本最長である。2002年までは東北本線 (739.2 km) の方が長かったが、東北新幹線延伸に伴い同線の一部が第三セクターのIGRいわて銀河鉄道および青い森鉄道へ転換されたことにより山陰本線の営業キロを下回った。京都駅 - 園部駅間は旅客営業規則が定める大都市近郊区間のうち、大阪近郊区間に含まれている。この区間には嵯峨野線という愛称があり、IC乗車カード「ICOCA」の近畿圏エリアに含まれている。嵯峨野線区間を含めた京都駅 - 城崎温泉駅間は、E の路線記号と、紫()のラインカラーが設定されている。これに加え、鳥取県を中心とした城崎温泉駅 - 米子駅間には、A の路線記号と、鳥取二十世紀梨をイメージした黄緑()のラインカラーが、島根県を中心とした米子駅 - 益田駅間には、D の路線記号と、日本海と宍道湖の夕日をイメージした朱色()のラインカラーが、それぞれ2016年2月より導入されている(両区間の境界は米子駅となる)。近畿エリアの路線記号の適用対象でありながら、2015年3月14日ダイヤ改正時点での構内の旅客案内への反映は嵯峨野線内の各駅にとどまっていたが、2016年3月26日ダイヤ改正より前述の米子支社ともども、福知山支社管内の各駅における旅客案内や一部の所属車両の方向幕でも、米子支社制定分を含めたラインカラーや路線記号の本格使用を開始した。これに際し、上川口駅 - 城崎温泉駅についても紫色にEの路線記号に包含され、該当各駅でもこの路線記号を使用するようになり、同年4月頃には公式サイトの路線図にも反映された。一方、広島支社管内の戸田小浜駅 - 幡生駅間には路線記号はないが、広島エリアの路線図や当該各駅の駅掲示時刻表のシンボルとして、オリーブ色()が使用されている。なお、支社および鉄道部の管轄は以下のように分かれている。在来線としての営業キロは日本最長の路線であるが、起点から終点までを通して走る優等列車の設定が史上一度もない本線の一つとなっている。区間によって乗客の流動に大きな偏りがあり、東西方向の交流が必ずしも盛んでないことや、かつての日本国有鉄道(国鉄)や現在のJR西日本が、山陽新幹線開業以降、山陰本線沿いの各都市から直接山陽新幹線に至る路線(陰陽連絡路線)を強化してきた結果である。山陰と瀬戸内側を結ぶ線には福知山線・伯備線などの電化された路線や智頭急行線のような高速新線があるが、山陰の横同士の連絡は最近まであまり考慮されず、電化もそれらの延長的存在でつぎはぎ状態で行われた。後年の高速化工事も同様で、高速化された区間とそうでない区間がつぎはぎ状態になっている。それでも民営化後は鳥取駅 - 倉吉駅 - 米子駅 - 松江駅 - 出雲市駅の都市間輸送に力を入れるなど、以前に比べれば改善がみられる。幹線扱いの長大路線でありながら近代化が遅れたことや、ローカル色あふれる風光明媚な車窓風景とあいまって、鉄道ファンであった作家の宮脇俊三は「偉大なるローカル線」と山陰本線を評した。この表現は山陰本線の実情をよく表したものとして、大方の鉄道ファンから賛同を得ている。特に出雲市駅以西の区間の輸送実態は地方交通線とほとんど変わらないといっても良いほどである。このほか、2010年に鉄橋からコンクリート橋に架け替えられた余部橋梁や、日本で3か所に現存するラチス式桁を持つ竹野川橋梁、浜坂駅手前にはラチス桁が残る田君川橋梁があるほか、須佐駅 - 宇田郷駅間にかかる惣郷川橋梁は日本海に注ぐ白須川河口にあるため、鉄道の撮影ポイントとしても有名である。また、沿線には温泉地が多く、城崎温泉や温泉津温泉など古くから知られた温泉が数多く湧出している。以前は、京都・大阪あるいは東京方面と鳥取地区とを結ぶ列車は山陰本線の和田山駅 - 鳥取駅間を経由するか、東京方面の場合新幹線連絡で津山線・因美線を経由した岡山駅経由がメインルートであったが、智頭急行が開業してからは智頭急行線を使うルートに取って代わられた。また、対米子地区についても山陽新幹線開業以降は山陰本線経由から伯備線経由にメインルートが移っている。現在、京都・大阪からの特急はほとんどが電車であり城崎温泉駅までの運転である。京都駅 - 鳥取駅間には下記の列車が走っている。そのうち福知山駅は北近畿ビッグXネットワークの中心部分にあたる(定期列車・山陰本線経由分のみ記載。夜行列車は後述)。鳥取駅 - 益田駅間は近年の高速化工事などにより、新型車両の特急を登場させるまでに至ったが、その一方で益田駅 - 幡生駅間は「いそかぜ」廃止以降、優等列車はなくなった。鳥取駅以西については、鳥取駅・米子駅・益田駅などを結ぶ都市間連絡特急として下記の列車が運転されている。鳥取駅 - 出雲市駅間で120km/h、出雲市駅 - 益田駅間で110km/h運転を行っている。また、陰陽連絡特急として、下記の列車が運転されている。これらの列車は、京都駅・新大阪駅で東海道新幹線、姫路駅・岡山駅で山陽新幹線と接続している。このほか、夜行列車として下記の列車が運転されている。大阪駅からの急行「だいせん」(大阪駅 - 米子駅間)が2004年10月16日に、また東京駅からの寝台特急「出雲」(東京駅 - 出雲市駅間)が2006年3月18日のダイヤ改正で廃止されてからは、伯備線経由の列車のみの運転となっている。運転区間は過去最長のもの。詳細は各列車の記事参照。国鉄時代は、ほぼ全線を通して運転されるような長距離列車が多く見られ、京都発の普通客車列車の行先だけでも園部駅や福知山駅のみならず、豊岡駅・浜坂駅・鳥取駅・米子駅・出雲市駅・浜田駅などもあったが、現在はおおむね下記の区間に細かく運転系統が分かれている。京都駅 - 園部駅間と鳥取駅 - 益田駅間では中距離・都市間の速達輸送を担う快速列車が運転されている。一方、園部駅 - 浜坂駅間でも2013年から一部の定期普通列車が快速列車に変更されているが、こちらは利用者の少ない駅を通過運転するものである。快速列車へ変更となった列車も引き続き他の普通列車と一体的な運行がなされている。なお、京都駅 - 園部駅間をのぞきほとんどの区間の普通や快速列車でワンマン運転を行っている。嵯峨野線の愛称がある。アーバンネットワーク圏内のため旅客数・列車本数とも多く、朝ラッシュ時の輸送力は飽和状態に近い。2010年3月7日に京都駅 - 園部駅間の複線化(京都駅構内は単線)が完成した。電化および高速化工事が行われ、特急の所要時間は短縮された。しかし、普通列車は行き違いや追い抜きのための停車時間が長くなり、また、区間内ではカーブが多く、速度制限があるため、所要時間はあまり短縮されていない。普通列車は1時間あたり1 - 2本程度が運転されており、一部をのぞきワンマン運転が実施されている。京都駅と直通している朝夕の一部列車をのぞいて園部駅 - 福知山駅間のみの運行を行っており、園部駅で嵯峨野線列車との接続は良好である。嵯峨野線およびこの区間においては特急優先度が高く、途中駅で追い抜かれることが多い(一例として胡麻駅では、日中の下り列車を中心に特急待避が行われている)。ただ上り列車の場合、日中を中心に福知山駅を特急の約10分後に出発し、かつ園部駅で嵯峨野線快速との接続がある列車に関しては、京都駅まで先行する(反対方向に対しても、京都駅を朝夕に出発する列車を中心に、福知山駅まで先行する)。単線部の複線化については、京都府は2022年度を目標とする奈良線複線化事業後の着手を考えたいとしている。綾部駅 - 福知山駅間は舞鶴線と直通する列車も乗り入れて列車本数が多くなり、この区間は複線となっている。また、当路線の特急「きのさき」・福知山線の特急「こうのとり」と接続する舞鶴線直通の普通は「リレー号」として運転されている。福知山線の延長的存在として京都駅 - 園部駅間よりも早く電化されて、大阪・京都方面からの特急が多く運行されているが、高速化工事はされておらず、おもに福知山駅 - 上夜久野駅間では急曲線も連続することから特急も速度を落として運転している。この区間には対向列車待ち合わせのための宿南信号場がある。1996年3月15日までは大阪駅から福知山線経由で直通していた長距離普通列車も運転されていた。和田山駅 - 城崎温泉駅間では播但線の特急も乗り入れている関係や、観光シーズンになると臨時列車の運行や乗降に時間を要し、遅延が発生することが多い。1時間あたり1 - 2本程度が運行されている。普通列車は一部をのぞきワンマン運転を実施している。朝5時台に豊岡駅 - 城崎温泉駅間の区間列車がある。城崎温泉駅から先は非電化となり、本数も1 - 2時間に1本程度とローカル色がより濃くなる。この区間には対向列車待ち合わせのための相谷信号場があった。普通列車は一部をのぞきワンマン運転を実施している。この区間の普通列車は基本的に豊岡駅発着となる。この区間では2002年度の上半期に月一回の保守運休(代替バスなし)を行っていた。かつてはこの区間にも特急「北近畿」との接続を目的として快速列車が運行されていた時期もあった。2011年4月からは、臨時快速として、豊岡駅 - 鳥取駅間に「山陰海岸ジオライナー」が土休日などに運行されている。2012年春のダイヤ改正で、一部の駅を通過する普通列車が設定された。また、2013年春のダイヤ改正で、それらの列車を快速列車としている。県境を挟むこともあり、特急「はまかぜ」(1往復)をのぞけば、1・2両編成の普通列車が走るのみである。キハ47形気動車・キハ121系気動車が走る。普通列車は一部をのぞきワンマン運転を実施している。この区間にはスイッチバック式停車場となっている滝山信号場があるが、現在では対向列車待ち合わせの用途には使用されていない。この区間は再び幹線鉄道の様相を呈する。高速化工事により所要時間が短縮された海沿いのなだらかな区間(末恒駅 - 倉吉駅間以外にはトンネルが存在しない)を、鳥取県内・山陰両県の都市間輸送を担う特急やこれを補完する快速「とっとりライナー」が運行されている。また京阪神発着の特急も智頭急行経由で乗り入れることから、特に鳥取駅 - 倉吉駅間で列車本数が多く、普通列車は行き違いや追い抜きのための停車時間が長い。普通列車は倉吉駅で乗り換えとなるものもある。途中の伯耆大山駅から電化区間となり、伯備線の電車列車も乗り入れている。伯備線と同時に山陰本線で最も早く電化された区間であるが、普通列車の半数近くは気動車で運転されており、1時間あたり1本程度運行されている。一部の電車列車は伯備線に直通し、特急「やくも」も乗り入れる。平日は上りのみ快速「通勤ライナー」も運転されている。それ以外にも快速列車(「アクアライナー」と「とっとりライナー」)が運転されているが、この区間は各駅に停車する。宍道駅 - 松江駅間には木次線からの直通列車がある。この区間は再びローカル色が強くなるが、2001年7月7日に高速化工事が完成し、島根県内の都市間輸送を特急とともに行う目的で快速「アクアライナー」が運行されている。普通列車は浜田駅・江津駅で乗り換えとなるものが多く、浜田駅 - 益田駅間は運行本数が少なくなる。2006年7月18日から2007年6月15日まで三江線が不通になっていた関係で、1往復の列車が運休していたが運行再開に伴い該当列車も運行を再開した。再開と同時に三江線直通の普通列車も浜田行きが2本、浜原行きが1本を新設した(国鉄時代にこのような運転を行う列車が存在したため、正確には「復活」したことになる)。島根県と山口県の県境を挟むこの区間は山陰本線の中でもとりわけ乗客・本数ともに少なく、2時間に1本程度で、日中は4 - 5時間以上運転がない時間帯がある。多くの列車が益田駅 - 長門市駅間の運転となるが、益田駅 - 下関駅間を直通する列車や益田駅 - 東萩駅間および木与駅・東萩駅 - 長門市駅間、登校日の長門三隅発長門市行きの区間列車も設定されている。2005年2月末に特急「いそかぜ」が廃止されて以降、益田駅 - 下関駅間は特急列車はなく、1 - 2両のワンマン運転となっている。JR西日本管内の地方交通線で見られるような20 - 30 km/h程度に速度を落として通過する曲線箇所が存在する(飯浦駅 - 江崎駅など)。山陰本線は幡生駅までだが、列車は下関駅まで運転される。この区間は輸送力が低いとされ、かつては急行「あきよし」「さんべ」などのように長門市駅で分割し、美祢線経由で運転されるものもあった。日中を中心にワンマン運転を実施しているが、奈古駅・長門市駅・滝部駅 - 下関駅間を直通する列車の場合、奈古駅・長門市駅・滝部駅 - 小串駅間までがワンマン運転で、小串駅 - 下関駅間は車掌が乗務する列車もある。ただ、下関市域、特に小串駅 - 下関駅間は、関門都市圏の都市圏輸送を担っていることもあって、1時間あたり1 - 2本程度は運行されている。輸送力調整のため、小串駅で乗り換えとなる列車も多く、小串駅 - 下関駅間では4両編成になることもある。2005年9月30日までは、関門トンネルを抜けて、JR西日本管内小串・長門市方面と、門司駅・小倉駅などJR九州北九州市内の駅を結ぶ直通列車が運転されていたが、2005年10月1日のダイヤ改正以後は、全列車が下関駅折り返しとなっている。2007年7月1日から、観光列車「みすゞ潮彩」が運転されている(土日祝日のみ快速運転。ただし運行上、2回通る幡生駅を1回通過するのみで、あとは各駅停車である)。1日6往復のみの運行となっている。観光列車「みすゞ潮彩」(下関方面直通)をのぞく全列車がワンマン運転で、一部の線内折り返し列車をのぞき美祢線と直通運転する系統が基本である。これは仙崎支線がもともと美祢線の貨物支線として開業した経緯によるものである。日本貨物鉄道(JR貨物)による貨物列車は2014年3月改正時点で、伯備線の延長のような形で伯耆大山駅 - 米子駅間で高速貨物列車が3往復運行されていた が、2015年3月14日のダイヤ改正にて、伯耆大山駅のコンテナホームが供用を開始し、同駅に米子駅の機能を統合したため、これらの列車はすべて伯備線内折返しとなった。このため、山陰本線を走行する定期の貨物列車は全廃された。なお、日本貨物鉄道における山陰本線の第二種鉄道事業免許についても、2015年4月1日付で廃止された。かつて、山陰本線・山陽本線の門司駅 - 福知山駅間には日本一の走行距離を有する普通列車が運行されていた。鉄道ファンはその列車番号で824列車と呼んでいた。そもそも昭和30年代まで、日本国有鉄道(国鉄)においては特急・急行列車の本数が少なかった半面で、長距離の普通列車が設定されていた。1956年11月のダイヤ改正当時では、東海道本線・山陽本線では東京駅 - 門司駅間運転の111・112列車(東海道本線区間で夜行運転、運転区間の営業キロは1102.8 km。「ムーンライトながら」の項目も参照)、日本海縦貫線では大阪駅 - 青森駅間には羽越線を夜行で走る511・512列車、北陸線と奥羽線で2夜行になる513・514列車(運転区間の当時の営業キロは1055.6 km)が存在するといった具合である。しかし、1961年10月に実施された「サンロクトオ」と呼ばれるダイヤ改正以降、国鉄では普通列車の乗客を新設ないしは増発した特急・急行列車に振り向けるため、これら長距離運転をする普通列車を削減するようになっていった。そして、その普通列車削減の流れが進んだ昭和50年代に、日本一の運行距離を有する普通列車となったのが、この824列車である。1972年(昭和47年)年3月15日ダイヤ改正以前には全線を直通する夜行列車826列車、829列車もあったが、夜行区間が急行に格上げ(「しまね」を経て夜行「さんべ」)されたり、夜行区間と昼行区間とが別列車に分断(夜行区間はのちの「山陰」)されて、この列車が残った。このため、本列車のスジ自体は山陰本線全通時にまでさかのぼる(戦時中は分断)が、日本最長となったのは、それまで最長だった大阪発新潟行きの普通列車が廃止された1972年10月のダイヤ改正 であった。この列車は門司駅を朝5時30分ごろに発車し、福知山駅にはその日が終わるころに到着するもので、途中駅で特急・急行の待避や荷物輸送のための長時間停車をしていたこともあって、所要時間は約18時間半にもなり、表定速度は30km/hを若干上回る程度であった。また、客車はオハ35系・スハ43系・61系など手動扉の旧型のものが最後まで使用された。その旧形客車の旅愁と運転区間が相まって、「乗り鉄」とも通称された鉄道旅行派のファンなどから注目される存在となり、宮脇俊三・種村直樹といった紀行作家による乗車記も書かれた。なお、上越新幹線開業に伴うダイヤ改正直前の1982年10月における、国鉄の長距離運行普通列車上位5位は以下のとおりである。しかし客車の老朽化が進んだことと、国鉄合理化政策の一環として客車列車を気動車・電車化した上で運行距離を短縮する施策が取られるようになったことから、824列車は1984年2月のダイヤ改正で下関駅 - 出雲市駅間運行の824列車と、出雲市駅 - 福知山駅間運行の548列車に系統が分割された。その後、さらに列車の運行区間が細分化され、2006年現在では824列車が運行していた時間帯に該当する列車が存在しない区間もある。各年度の平均通過人員、旅客運輸収入は以下の通り。明治の鳥取では、明治中期に県内の道路整備が行われたものの、県外との交通は海運が主流だった。1890(明治23)年頃は、鳥取から大阪へは徒歩で約1週間、航路では瀬戸内海を経由して2週間ほどを要した。その航路も春は荒天で欠航が多かった。その頃までに、東京・神戸間や東京・仙台間に鉄道が開通していた。また1887(明治20)年の私設鐵道條例によって全国で私鉄ブームとなった。山陰では、鳥取県と島根県の議員が合同で山陰地方への鉄道建設を目指すようになり、鳥取新報などの地元紙も山陰の鉄道に関する連載を行って地元世論を喚起した。1887(明治20)年には早くも山陰と岡山を結ぶ路線が提唱された。1890(明治23)から1891(明治24)年にかけて鳥取・岡山の県議約250名らが請願した「境港-米子-倉吉-津山-岡山」ルートの請願を出した。この頃の倉吉は木綿や農機具(千歯扱き)生産で栄えていて、これらを境港へ輸送する手段を求めていたのである。これに対し、日野郡出身で鉄を扱う商工業者らは中国鉄道株式会社を興し、鉄の輸送に便利な「境港-米子-根雨-津山-岡山」ルートを主張した。さらに倉敷方面と米子方面の有力者たちが「境港-米子-新見-倉敷-玉島」ルートを目指す期成会を結成した。鳥取市では「姫路-津山-鳥取」ルートを目指して市会の議決を行ったが、税負担を不服とする住民がこれに反対し、県へ問題を持ち込んだ。県、鳥取市長、鳥取市会の意見の隔たりが大きくなり、提訴や行政裁判が繰り返され、遂に市長と市議全員が総辞職する騒動になった。これらの様々なルートで競争が行われたが、1892(明治25)年の鉄道敷設法では、舞鶴から鳥取、松江、浜田を経て山口を繋ぐ日本海側の縦断線や、いくつかの陰陽横断線が盛り込まれた。ただし、具体的なルートや着工の見通しはそれ以後の決定とされた。9種類ものルートが検討の対象となった。結局、1893(明治26)年に官設の「境港-米子-鳥取-智頭-佐用-姫路」ルート、私鉄・中国鉄道の「米子-根雨-津山-岡山」ルートの建設が決まった。翌1894(明治27)年には山陽鉄道が神戸・広島間を全通させ、山陰方面でも大いに期待が高まった。ところがその翌月、日清戦争が勃発し、山陰方面の鉄道建設は凍結になった。戦争終結後、山陰方面の鉄道建設が再開されることになったが、より重要な路線を最優先で建設することとなった。再び建設ルートや官民どちらを優先するかで紛糾したが、最終的には「境港-米子-鳥取-智頭-佐用-姫路」ルートが優先されることになった。これには軍部の意向が働いていて、姫路の第10師団と鳥取の歩兵第40連隊、さらに重要港湾の境港の連絡路を優先したのだとみなされている。1900(明治33)年の着工時点では、795万円の国費が予算として充てられた。工事は境港から始まったが、これは建設資材などを境港へ船で運び、そこから順次、先へ伸ばすのが輸送の面から合理的だったからである。建設工事は県内外から大量の人夫を集めたほか、米子方面の建築業者の成長を促した。境港から東へ向かうルートはしばらく平坦路で地盤もよく、工事は順調に進んで1902(明治35)年に境港-御来屋間が開通した。このあと御来屋-八橋間の建設工事中に、帝国議会はルート変更を決めた。変更後のルートは「境港-米子-鳥取-和田山-福知山」となった。日露戦争を見据えた帝国議会が軍事上の最優先路線として、大阪と舞鶴軍港を結ぶルートの建設を急ぐことになり、これと連結することで姫路・大阪・舞鶴・鳥取・境港といった軍事拠点が一挙に連絡できるからである。また、まもなく米子から今市(出雲市駅)までの延長も決まった。さらに鉄道国有法によって、全路線が国有化されることになった。このときから、今市・香住間を「山陰西線」、香住・福知山間を「山陰東線」と称するようになり、「西線」の工事指揮のため米子に出張所がおかれた。この出張所が米子鉄道局に発展した。御来屋から東を目指す建設工事は、日露戦争中に一時的に中断があったものの急ピッチで進められた。このうち倉吉付近のルート選定については諸説ある。建設ルートは、倉吉市中心部を通るわけでもなく、江戸時代からこの地方の水運の拠点だった橋津を通るわけでもなく、両者の中間である上井を通ることになった。これは最短路というわけでもなく、迂回ルートとなっている。『鳥取県史』では、このルートは鉄橋やトンネルの建設が最小限で済む低コストのルートだったと説明している。「東線」に相当する区間では、京都鉄道が1899(明治32)年までに京都・園部間を、園部・綾部間を国が建設した。福知山・綾部間は阪鶴鉄道の路線を延伸する形で舞鶴までを結ぶ阪鶴線の一部として1904年に開業した。京都鉄道・阪鶴鉄道の両社は国有化され、京都駅 - 綾部駅間が京都線として1910年に開通した。建設ルートではにわか景気による様々な悲喜騒動があったものの、米子から鳥取までの工事は比較的順調にすすみ、1907(明治40)年の皇太子(のちの大正天皇)行啓にあわせて「鳥取仮駅」(千代川左岸)まで開業した。さらに翌年に千代川の鉄橋完成により1908(明治41)年に米子・鳥取間の開通となった。しかし鳥取と香住間は険しい山地を通るため難工事で、なかでも桃観トンネル・余部橋梁が最後になった。これらの完成を以って「西線」が開通したが、これは「東線」に比べて5ヶ月遅れてのことだった。こうして1912(明治45)年3月1日に京都駅から出雲今市(出雲市駅)までが全通することになった。鳥取市で行われた開通式典には大隈重信、原敬など2600人が参加した。一番列車が来ると各駅で花火を打ち上げ、小学生の旗行列や大人の提灯行列で出迎えたという。山陰本線の開通は山陰地方を大きく変えた。それまで交通・運輸の中心だった海運は壊滅的に衰退し、多くの港町が荒廃した。村ごとにあった商工業者は京阪神の大手企業に太刀打ちできず、次々と消えていき、地方の小町村は「都会へ安価な労働力を提供する地」へと変わっていった。一方、京阪神地方からの旅行客が激増し、観光地や温泉地が飛躍的に発展した。また、農業・漁業・林業などの一次産業では、地元消費から京阪神へ出荷する商品の生産が大幅に伸びた。肉牛、二十世紀梨、繭などが増産されたほか、第一次世界大戦の好況も相まって、材木、パルプ、綿布、和紙の出荷が大きく増えた。これらにより、産業構造は一次産業偏重に大きく傾いていった。出雲今市駅からは順次西へ延び、1928年に須佐駅まで延伸される。宇田郷駅 - 正明市駅(現在の長門市) - 阿川駅間および正明市駅 - 仙崎駅は美禰線(美祢線)を延伸する形で1930年までに開業した。小串駅 - 幡生駅間は長州鉄道の路線を1925年に国有化したもので、小串線と称していた。1928年に阿川駅まで延伸された。1933年に須佐駅 - 宇田郷駅間が開業し、美禰線の宇田郷駅 - 正明市駅 - 阿川駅間・正明市駅 - 仙崎駅間と小串線を編入して京都駅 - 幡生駅間・正明市駅 - 仙崎駅間となった山陰本線が全通した。なお、長州鉄道の国有化されなかった幡生駅 - 東下関駅(現在の東駅)間は、のちに山陽電気軌道(路面電車線、現在はサンデン交通というバス会社)の路線となった。全区間複線・電化。( )内の数字は営業キロ。京都駅 (0.0 km) - 丹波口駅 - 二条駅 - 円町駅 - 花園駅 - 太秦駅 - 嵯峨嵐山駅 - 保津峡駅 - 馬堀駅 - 亀岡駅 (20.2 km) - 並河駅 - 千代川駅 - 八木駅 - 吉富駅 - 園部駅 (34.2 km)便宜上、幡生側の全列車が乗り入れる山陽本線下関駅も合わせて記載する。なお、仙崎駅は無人駅である。( )内の数字は起点からの営業キロ。( )内の数字は京都駅起点の営業キロ。( )内の数字は京都駅起点の営業キロ。
出典:wikipedia
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