ダニエル・ウィルデンシュタイン(、1917年9月11日 - 2001年10月23日)は、フランス出身の国際的な画商および絵画史研究家。フランス・イギリスを中心とした競馬のオーナーブリーダーとしても知られる。祖父と父が築いたアートとブリーダーのビジネスと莫大な資産を引き継いた。名字は「ウイルデンスタイン」「ヴィルデンシュタイン」などとも表記される。フランスのエソンヌ県の出身で、1917年にドイツ系ユダヤ人のウィルデンシュタイン家の跡取りとして生まれた。ウィルデンシュタイン家はダニエルの祖父に当たるナタン・ウィルデンシュタイン()が1875年に創立した絵画販売会社を運営する一族で、ダニエルは1963年に父ジョージ・ウィルデンシュタイン()から会社と(父の創設した)美術資料館を相続した。ウィルデンシュタインは画商として成功し、その会社の規模を大きく拡大、ロンドンやニューヨーク、東京といった国外の大都市にも画廊を設けている。また父や祖父と同様、絵画史の研究にも取り組み、特に印象派に関する研究が著名であった。作成したカタログ・レゾネ(総作品目録)には、クロード・モネやエドゥアール・マネ、ポール・ゴーギャンなどのものがある。このほか、ウィルデンシュタインは彼らの作品に、「ウィルデンシュタイン作品番号」というクラシック音楽の作品番号に似た分類用番号を用意し、その整理分類に役立てている。また現代美術にも興味を示し、1993年にアーネ・グリムシャーと協力してボストンに現代美術の博物館「ペースウィルデンシュタイン()」を開設した。現在同美術館はニューヨーク市のマンハッタンに移り、また支館を中国の北京に開設している。2001年、ダニエル・ウィルデンシュタインはパリの病院で家族に看取られて死亡した。84歳であった。ウィルデンシュタインはヨーロッパの競馬界においても重要な人物で、数々の大競走勝ち馬を抱え、また多くの名馬を生産してきた。一方で、騎手や調教師との間で大きないざこざをたびたび引き起こしたことでも知られる。勝負服はロイヤルブルーの下地にライトブルーの襷、ライトブルーの帽子を使っていた。当初はフランスのみで競走馬を所有し、そのうちの一頭ドンIIが1969年のプール・デッセ・デ・プーラン(フランス2000ギニー)に優勝すると、以後ウィルデンシュタインの所有馬が各地で活躍するようになっていった。次第にイギリスの競馬場にも所有馬を送り込むようになるが、こちらでは長らく大きな勝ち星が挙げられず、プール・デッセ・デ・プーリッシュ(フランス1000ギニー)を勝ったアレフランスなどを送り込んだが、それでも失敗に終わっている。1975年になってようやくLiangaでジュライカップを優勝、イギリス短距離界の大競走を制覇した。しかし、その翌年1976年はウィルデンシュタインにとって大きな当たり年となった。イギリスクラシック競走のうち3競走をそれぞれフライングウォーター(1000ギニー)、ポウニース(オークス)、クロウ(セントレジャーステークス)とウィルデンシュタインの所有馬が制覇し、同年のリーディングオーナーに輝いた。上述のイギリスクラシックを勝った競走馬らは、フランスシャンティイ競馬場に所属するアルベルト・クリムシャと、その引退に伴って引き継いだアンジェル・ペンナによるもので、つまりフランスで調教された競走馬を引き連れてのものであった。後にペンナはウィルデンシュタインの依頼によりアメリカ合衆国にわたり、代わってパトリック・ビアンコーネがフランスでの調教を担当するようになった。ビアンコーネの厩舎からは、チャンピオンステークスなどに勝ったパレスミュージックなどが出ている。初めてイギリスの調教師に馬を預けたのが1978年のことで、預託を受けたピーター・ウォールウィンは同年コロネーションカップ(クロウ)とカドラン賞(バックスキン)をウィルデンシュタインの馬で制覇している。しかし、バックスキンが2着に敗れたゴールドカップでの鞍上・パット・エデリーの騎乗に強い憤りを示した際に、ウォールウィンがエデリーの立場を弁護したため、その報復としてウォールウィンに預けていた馬を全てヘンリー・セシル厩舎に転厩させている。さらに1985年には実績のあったはずのセシル厩舎からも馬を取り上げ、全てフランスの厩舎へと移送している。ウィルデンシュタインと騎手・調教師との確執はこれ以外にも何度かあり、1983年にはレスター・ピゴットがとある競走で失格処分になったことに憤って、以後スティーブ・コーセンを乗せるように指示したことがある。後にウィルデンシュタイン所有のサガスが1985年の凱旋門賞で、エデリー鞍上のレインボウクエストに降着という形で敗れたのは、イギリスの競馬関係者からすればある意味皮肉であった。一族はもともと家畜商だったが、祖父のナサンが1871年にアルザスからパリに移り、値段の安いフランス絵画と18世紀の家具を扱う美術商に転身した。ウィルデンシュタイン家の財産は溜め込んでいる膨大な蒐集品を基にしているが、秘密主義を貫いている。息子にアレク・ナタン・ウィルデンシュタイン()とガイ・ウィルデンシュタイン()がいる。画商および研究家としての家業は彼らに引き継がれ、また競馬事業もアレクにその多くが引き継がれたが、生前は息子たちが50を過ぎてもダニエルがビジネスを指揮し、遺産もトラストに託し、二人の息子でなくその孫に引き継ぐようにした。また、アレクの最初の結婚相手であったジョセリン・ウィルデンシュタイン()は、アレクとの離婚騒動でマスコミの注目の的となった人物である。後に再三の美容整形手術でさらなる話題を呼び、ゴシップ・クイーンとしての地位を不動のものにしている。この離婚騒動によって、それまで業界内でしか知られていなかった世界的富豪ウィルデンシュタイン家の存在が世に知られることになり、一族の不正な税対策やナチスとの関係が暴かれることとなった(名誉棄損で訴えたが敗訴した)。
出典:wikipedia
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