マイシンザンは日本の競走馬。中央競馬でNHK杯、朝日チャレンジカップなどに優勝した。その後種牡馬を経て乗馬となった。全弟に中央競馬で3勝をあげたマイジェントルマンがいる。主戦騎手は松永幹夫。1992年12月に阪神競馬場の新馬戦でデビュー、2戦目で2着馬に1.4秒の大差をつけて初勝利を飾る。3戦目はシンザン記念に出走、名前と血統から2番人気に推されるも、気性の悪いところを見せ殿負けを喫した。次走ダート1800mの飛梅賞も惨敗したが、連闘で挑んだこぶし賞では京都芝内回り1600mのレコードタイムで勝利を収めた。休養を挟んだ皐月賞では9着だったが、日本ダービーのトライアル競走であるNHK杯では1番人気のガレオンに3馬身半差をつけレースレコードで優勝した。本番の日本ダービーでは、大外から並びかけるも勝ったウイニングチケットから0.6秒差の5着に終わった。秋は京都新聞杯を目指していたが、屈腱炎を発症して戦線離脱。以後、現役生活を通じて故障に苦しむことになる。1年4ヶ月の長期休養を経て、毎日王冠と天皇賞(秋)に挑んだが、共に入れ込みもあって敗退。そして2度目の屈腱炎を発症した。11ヶ月の長期休養の後、朝日チャレンジカップで復帰。直線で先に抜け出したスプリングバンブーを差し切り、自身2度目となるレコードタイムでの優勝。続く毎日王冠では、3番人気に推されるも重馬場で切れ味を発揮できずに5着に終わった。天皇賞(秋)は当初は除外対象も回避馬があって出馬表に名を連ねることができたが、前日に3度目の屈腱炎を発症して出走を取り消した。その後、再び長期休養を経て天皇賞(秋)を目指すも、4度目となる屈腱炎を発症して現役続行を断念した。引退後はCBスタッドにて種牡馬として供用され1998,99年の2年間で19頭、のち2003年にマイティシンザンの計20頭の産駒を残した。2000年以降は名馬のふるさとステーションに移動したが、ステーションが閉鎖され行く末が危ぶまれていた。その後ワイルドブラスターとともに個人に引き取られ、静岡の乗馬クラブEQUINE-HOLICで乗馬として暮らしていた。2011年12月には山梨県のウインズ石和での撮影会の為に当地を来訪したこともある。2013年3月16日に腸捻転で死亡した。現役時代の印象からは気が荒いと思われがちだが、性格はいたっておとなしく気まま。頭はよく、自力で馬栓棒を外してしまうという。CBスタッド時代から一緒だったワイルドブラスターとは仲がよかった。好きなものはバナナ、遠くを眺めること。代表産駒父系は1955年輸入のヒンドスタンに遡り、現存する日本土着の父系としては最も古い。また牝系も古く、種正系(英名Young Man's Fancy 1927年輸入、御料牧場基礎牝馬)に属している。
出典:wikipedia
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