バー・モウ(ラテン文字転写:Ba Maw, バーモウ、バモウ、バモー、バーモーとも、1893年2月8日 - 1977年5月29日)はビルマ(現ミャンマー)の独立運動家、政治家。イギリスの植民地だったビルマの裕福な家庭に生まれた。バー・モウの生家は法律家や学者を多数輩出する名門だった。ラングーンで中等教育を受けた後、フランスのに留学し、仏教に関する博士論文を書き、1924年に博士号を取得した。1926年4月5日にキン・マ・マ・モウと結婚し、生涯で7人の子供をもうけた。大学卒業後、弁護士業を開業する傍らビルマの政治活動に参加するようになり、1931年に反英運動指導者の弁護をと共に担当するが、サヤ・サンは反逆罪で絞首刑となった。1930年代に入ると、バー・モウは自治政府の支持者となり、当初反対していたイギリス領インド帝国からのビルマ分離を支持した。彼はを率いて議会に進出し、1934年にはビルマ州政府(当時はイギリス領インド帝国の一州)の教育大臣に就任し、1937年にビルマがインドから分離して別個の植民地になると初代植民地政府首相に就任し、1939年2月まで務めた。第二次世界大戦が勃発すると、彼はビルマがイギリス軍の一員として参戦することに反対したため、1940年8月6日に民衆扇動の罪で逮捕された。しかし、太平洋戦争開戦後の1941年12月16日に、同志のアウン・サンらは日本軍南機関の支援を得てバンコクに「ビルマ独立義勇軍」を創設。日本軍と共にイギリス軍と戦い、1942年3月にラングーンを陥落させ、同年7月ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功し、ビルマ独立義勇軍をビルマ国防軍に改組した。バー・モウは1942年5月に政治犯収容所から解放され、南機関によって8月1日に中央行政府長官に任命された。日本はバー・モウに対し、戦争終結後にはビルマの完全独立を承認することを約束していた。1943年8月1日、バー・モウを議長とする独立準備委員会は日本の支援を受けてビルマ国の独立を宣言。バー・モウは国家元首に就任し、日本との同盟を締結すると同時に連合国への宣戦布告を行い、1943年11月には東京で開かれた大東亜会議にビルマ国代表として参加した。1944年に日本の敗色が濃くなると、4月25日に南方軍ビルマ方面軍参謀副長・磯村武亮の示唆を受けた参謀部情報班所属の浅井得一に暗殺されそうになるが、ビルマ兵が警戒してことなきを得る。その後、ビルマ国民軍がクーデターを起こしてイギリス側に寝返り、日本軍は1945年5月にイギリス軍やアメリカ軍に放逐され、ラングーン(現ヤンゴン)から撤退し、ビルマ国は崩壊した。1945年8月にタイ王国を経由して日本へ亡命し、新潟県南魚沼郡石打村(現南魚沼市)の薬照寺に陸軍中野学校出身の将校たちの協力により身を潜める。当地では英語を教授する一方、日本語を覚えたという。12月に自ら連合国の占領軍(イギリス軍)に出頭した。翌年に特赦されビルマに帰国するが、1947年にアウンサン暗殺に関与したとして一時拘束された。1948年1月にイギリスからビルマが独立した後に一時政界に復帰するが、1950年代以降のネ・ウィンの軍事政権下では拘禁された。拘禁中はビルマ国時代の回顧録を執筆し、1968年に釈放された。釈放後は政治活動から引退して隠棲し、1977年にラングーンの自宅で死去した。
出典:wikipedia
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