アソチアツィオーネ・カルチョ・ミラン(イタリア語:Associazione Calcio Milan s.p.a)は、イタリア・ミラノをホームタウンとする、イタリアプロサッカーリーグ(レガ・カルチョ)に加盟するプロサッカークラブ。ACミラン(エーシー・ミラン)あるいは単にミランとも呼ばれる。インテルナツィオナーレ・ミラノ(以下本項目ではインテルと略称する)、ユヴェントス、ASローマと並ぶイタリアを代表するプロサッカークラブであり、世界屈指のビッグクラブの一つである。クラブカラーからロッソ・ネロ(Rosso Nero, イタリア語で「赤と黒」、複数形でロッソ・ネリ Rosso Neri)またはディアボロ(diabolo, イタリア語で「悪魔」)の愛称で呼ばれる。サポーターはミラニスタ(Milanista)といわれる。セリエAでは「三階建て」構造と呼ばれる、ユヴェントス、ACミラン、インテルのビッグ3となっている。UEFAチャンピオンズリーグでは過去7回の優勝を経験しており、レアル・マドリードの11回に次ぐ歴代2位の優勝回数を誇る。イタリア国内で同大会を制覇した経験のある他の2チームの優勝回数を大きく引き離しており(インテルは3回、ユヴェントスは2回)、イタリアセリエAで最も成功したクラブの一つであると目されている。同大会で5回の優勝、或いは3連覇を達成したクラブにはビッグイヤー(UEFAチャンピオンズリーグ優勝杯)の永久保持が認められるとともに、ビッグイヤーのロゴと優勝回数が書かれたワッペンをユニフォーム左袖に付けることが許されているが、このワッペンをつけているのはACミランの他はレアル・マドリード、アヤックス・アムステルダム、バイエルン・ミュンヘン、リヴァプールFC、FCバルセロナの5クラブのみである。ホームスタジアムはジュゼッペ・メアッツァ(愛称:サン・シーロ)であり、同じくミラノを本拠地とするビッグクラブであるインテルと共同使用している。インテルとACミランは永遠のライバル関係にあり、両クラブの対戦はミラノダービーと呼ばれ、街を二分する盛り上がりを見せる。長年インテルのファンがブルジョワ層を中心とするのに対し、ACミランのファンは労働者階級を中心とするとされてきたが、現在では世界中にファンが拡大したこともあり、両クラブの支持層の間に特別な隔たりは無く、互いに広い層から支持を集めているとされる。また、「ミラネッロ」と呼ばれる世界でも有数のスポーツセンター、及び、2014年に完成した新オフィス「カーサミラン」を所有しており、ミラネッロについては設備・環境が整っていることから、イタリア代表が合宿先として利用するほどである。2014年1月、世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表したデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2012-13シーズンのクラブ収入は2億6350万ユーロであり、世界のサッカークラブの中で10位、イタリアではユヴェントスに次ぐ2位である。また、イギリスメディアが2012年に公表した調査によると、ACミランの平均年俸は約610万ドルであり、世界で5番目、イタリアで最も平均年俸が高いクラブであることが明らかになった。運営組織の公式な名称は、Associazione Calcio Milan s.p.a (ミランサッカー団株式会社)である。クラブ名のうち「アソチアツィオーネ」(Associazione)は、組合、社団などといった団体を意味する単語であり、"Associazione Calcio Milan"とは、「ミランサッカー団」あるいは「ミランサッカー組合」などが訳語となる。また、イタリア語では、「ミラノ」をMilanoと綴るが、もとはイギリス人を中心に組織された団体である経緯から、現在でもクラブの名称は、英語と同じMilanの語を用いている。1899年12月16日にミラノ在住のイギリス人アルフレッド・エドワーズが中心となって、「ミラン・クリケット・アンド・フットボール・クラブ」("Milan Cricket and Football Club")を創設し、その後上記の通り「ミラン・アッソチャツィオーネ・カルチョ」と名称は変更されたが"Milan"だけは英語のまま残った。Milanが英語であるため、。1907年のスクデット獲得以来目立ったタイトルを得ることができなかったミランであるが、1949年にロンドンオリンピック優勝メンバーであるグンナー・グレン、グンナー・ノルダール、ニルス・リードホルムを獲得。この3人はそれぞれの名前から「グレ・ノ・リ」トリオと称された。1951年にスクデット、ラテン・カップで優勝すると、1955年、1957年、1959年にもリーグ優勝し、1956年には再びラテンカップを獲得した。1961年にネレオ・ロッコが監督に就任すると、初シーズンからスクデットを獲得。ジャンニ・リベラやジョゼ・アルタフィーニらを擁したチームを率いて1963年にはUEFAチャンピオンズカップ初優勝を果たした。しかし、エレニオ・エレーラ率いるインテルの好調などもあって、次にタイトルを獲得するのは1967年のコッパ・イタリア初優勝まで待たなければならなかった。1979-80シーズンのホームでのラツィオ戦が八百長の疑いで調査が行われ、セリエBへ降格処分となった。当時クラブ会長であったフェリーチェ・コロンボは永久追放となった。この処分により1980-81シーズンはセリエBでのシーズンとなったが、優勝して1年でセリエAに復帰した。しかし、セリエAに復帰した翌1981-82シーズンはわずか7勝という成績で再びセリエBへ降格となった。再びセリエBでプレーすることとなったが、1982-83シーズンは優勝してまたも1年でセリエAに復帰した。その後、後にイタリア首相を務めるシルヴィオ・ベルルスコーニが1986年にクラブを買収して会長に就任した。ベルルスコーニは有力選手を大補強して、豊富な資金力で2チーム分の戦力を揃え、国内外のタイトな試合スケジュールを戦うというターンオーバー制を導入した。また、ミラネッロの改修など、低迷していたクラブを立て直した。ベルルスコーニが会長に就任して2シーズン目の1987-88シーズンには、当時はほぼ無名だったが、後にこのチームでサッカーに革命を起こすことになるアリゴ・サッキをパルマから監督として招き入れた。また、ベルルスコーニは当時の史上最高額移籍金でルート・フリットをPSVから獲得、マルコ・ファン・バステンをアヤックスから獲得した。サッキが採用した高い位置でプレッシャーをかけてボールを奪うというプレッシングサッカー戦術と、キャプテンのフランコ・バレージらを中心とした現有戦力と、ルート・フリット、マルコ・ファン・バステンら新戦力の活躍によって、サッキが指揮を執って1シーズン目には僅か2敗という成績でスクデットを獲得した。1988-1989シーズンにはフランク・ライカールトをサラゴサから獲得。フランコ・バレージらとルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトのオランダトリオなどの選手の活躍もあり、1988-1989シーズン、1989-1990シーズンにかけてUEFAチャンピオンズカップを2連覇した。特に、ミランが強さを発揮したのは1988-1989シーズンのUEFAチャンピオンズカップであり、準決勝ではレアル・マドリードに5-0で大勝し、決勝でもステアウア・ブカレストに4-0で大勝している。1990-1991年のUEFAチャンピオンズカップ準々決勝のオリンピック・マルセイユ戦で、マルセイユが1-0でリードしていた88分にスタジアムの照明が消灯し、照明復帰後もACミランが試合の続行を拒否したため没収試合となった。この結果ACミランは1年間ヨーロッパの大会から締め出されることとなった。1991年から監督となったファビオ・カペッロのもとで、バレージの他にもパオロ・マルディーニ、アレッサンドロ・コスタクルタ、デメトリオ・アルベルティーニの3人が中心になり、1991-1992シーズンにはセリエA初の無敗優勝を達成。バレージを含めたこの4人は、ミラン栄光のバンディエラ(イタリア語で「旗印」の意。そのクラブで長くキャリアを送ったシンボル的なプレーヤーを指す)ともいわれる。セリエAでは1993-1994シーズンにかけて3連覇し、UEFAチャンピオンズリーグでは、1年間のヨーロッパ大会出場停止処分後の1992-1993シーズンから1994-1995シーズンにかけて3季連続決勝進出(1993-1994シーズンは優勝)するなどの成績を残し、「グランデ・ミラン」(偉大なミラン)や「リ・インヴィンチービリ」(無敵のミラン)と呼ばれる黄金期を築いた。特に、1994年チャンピオンズリーグ決勝では、バレージとコスタクルタが出場停止だったにも関わらず、同じく黄金期を迎えていたヨハン・クライフ率いるバルセロナ相手に4-0で大勝し、クライフをして「あんな完璧なサッカーをされては勝てない」とまで言わしめた。 1994-1995シーズンは、W杯での疲労による主力選手の怪我や不振によってセリエAでは優勝争いから離脱したが、それでもデヤン・サビチェビッチ、マルコ・シモーネらの活躍によってUEFAチャンピオンズリーグでは3年連続で決勝進出した。1995-1996シーズンは、ロベルト・バッジョ、ジョージ・ウェアらFW陣を獲得。前年不振に陥ったバレージら主力選手が復調したことでスクデットを奪回した。ベルルスコーニが会長に就任して以降導入されたターンオーバー制は、当時の監督だったサッキは当初乗り気ではなかったが、厳格なカペッロの指揮下になると、各国のスタープレーヤーでもベンチを温めるという状況がみられた。当時のターンオーバー制は、選手起用に対する監督との衝突等の問題を抱えていた。その影響で、ルート・フリットに至っては1993-1994シーズンにサンプドリアにレンタル移籍し、1994-1995シーズン途中にサンプドリアへ移籍している。1996-1997シーズンは、ファビオ・カペッロがレアル・マドリードへ去ったことで守備基本からスペクタクル重視へ戦術が切替えられ、また、ボスマン判決によるEU圏内の外国人選手が大量加入したことでチームバランスが崩れ始めた。そこに、主力選手の高齢化、とりわけバレージらベテラン選手の衰えと後述のサッキやカペッロの監督復帰が追い打ちをかける形となった。序盤戦からリーグでは低迷し、UEFAチャンピオンズリーグでもウェアの暴力行為による退場処分と出場停止処分の影響で予選リーグ敗退した。その責任を取るかたちでオスカル・ワシントン・タバレスが解任され、かつて栄光を築いたアリゴ・サッキが監督に復帰したものの、チームの改善には至らなかった。1997-1998シーズンには1年でレアル・マドリードの監督を解任されたカペッロを連れ戻すが、低迷脱却には至らなかった。1998-99シーズンは、監督にウディネーゼで旋風を起こしたアルベルト・ザッケローニを招聘し、1997-98シーズンのセリエA得点王であるオリバー・ビアホフとトーマス・ヘルヴェグをウディネーゼから獲得。序盤こそ苦戦していたが、アルベルティーニ、コスタクルタ、マルディーニ、ボバンら栄光を知る主力選手がチームを牽引して、終盤に勝ち点でSSラツィオを逆転して悲願のスクデットを獲得した。1999-2000シーズンはアンドリー・シェフチェンコの獲得に成功したが、久しぶりに出場したUEFAチャンピオンズリーグでは、リーグ拡大による試合スケジュールの過密化によって、ターンオーバー制の導入が追いつかず、また、ウェアが1996-1997シーズンに受けた出場停止処分を消化しなければならなかったことも影響して一次リーグ敗退。リーグでは3位で終了する。2000-01シーズンは、リーグでは優勝争いから離脱、UEFAチャンピオンズリーグでも2次リーグ敗退によって、シーズン途中でザッケローニは解任された。後任にはチェーザレ・マルディーニが就任し、ミラノダービーでインテル相手に6-0で歴史的大勝したのが唯一の救いであった。2001-02シーズンは、フィリッポ・インザーギ、マヌエル・ルイ・コスタら大型補強を敢行して、ファティ・テリムが監督に就任するも中位に低迷。シーズン途中にカルロ・アンチェロッティが監督に就任してチームを立て直し、セリエAを4位で終了してUEFAチャンピオンズリーグ予備予選出場権を獲得。2002-03シーズンはUEFAチャンピオンズリーグとコッパ・イタリアにて優勝を達成。2003年夏の移籍市場ではカカ、カフーらを獲得。2003-04シーズンはUEFAスーパーカップとセリエAにて優勝を達成した。2004-05シーズンはスーペルコッパ・イタリアーナにて優勝を達成したものの、セリエAでは2位に終わり、UEFAチャンピオンズリーグでは決勝戦でリヴァプールFCと対戦し敗れた。この敗戦はイスタンブールの悲劇とも呼ばれる。2005-06シーズンは4季ぶりの無冠に終わり、シーズン終了後に発覚したカルチョ・スキャンダルによって、「2005-06シーズンのリーグ戦での勝ち点-44」、「2006-07シーズンのセリエAを勝ち点-15からの開始」という処分がイタリアサッカー連盟のスポーツ裁判所によって下された。控訴審では処分が軽減され、最終的に2005-06シーズンの勝ち点は58となり、3位扱いとしてUEFAチャンピオンズリーグ出場が決まったほか、2006-07シーズンのセリエAは勝ち点-8からの開始となった。2007年冬の移籍市場ではロナウドを獲得し、2006-07シーズンはUEFAチャンピオンズリーグにて優勝を果たした。2007-08シーズンはUEFAスーパーカップとFIFAクラブワールドカップにて優勝を達成したが、リーグでは低迷しUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃した。2008-09シーズンは、ロナウジーニョら大型補強を敢行するも無冠に終わり、シーズン終了後にアンチェロッティは監督を辞任した。2009-10シーズンはレオナルドが監督に就任し、長年チームの顔だったマルディーニが前シーズン限りで引退(マッシモ・アンブロジーニが後任の主将に任命された)、カカがレアル・マドリードへ移籍。リーグを3位で終え、UEFAチャンピオンズリーグ予備予選の出場権を獲得した。2010-11シーズンはマッシミリアーノ・アッレグリが監督に就任し、2010年夏の移籍市場ではズラタン・イブラヒモビッチ、ロビーニョらを獲得。2011年冬の移籍市場ではアントニオ・カッサーノ、ファン・ボメルらを獲得し、同シーズンは7季振りとなるセリエA優勝を果たす。2011-12シーズンは優勝したチームにおいて出場機会が減少気味だったアンドレア・ピルロをユヴェントスへ放出し、ステファン・エル・シャーラウィ、アルベルト・アクイラーニ、アントニオ・ノチェリーノ、フィリップ・メクセス、タイエ・タイウォらを獲得した。チームは31節フィオレンティーナ戦で破れ首位から陥落、復活したピルロを中心としたユヴェントスに次ぐ2位に終わりシーズン無冠に終わった。2012-13シーズンは、急激に悪化した財政事情の立て直しとPPP導入に伴う財政対策のため、イブラヒモビッチとチアゴ・シウバをPSGへ放出。また、チームの世代交代のためにジェンナーロ・ガットゥーゾ、アレッサンドロ・ネスタ、クラレンス・セードルフ、ファン・ボメルらベテラン勢を一斉放出した。これにより、カッサーノとの交換トレードで獲得したパッツィーニ等の補強に留まった。序盤戦は選手の入れ替えによる不振が続いたが(11-12シーズンから先発級メンバーがパッツィーニ、エル・シャーラウィ、モントリーヴォ、デ・ヨング、メクセス、サパタ、コンスタンと実に7人が入れ替わる)、コンビネーションが安定してからは前半戦のエル・シャーラウィの活躍、冬の移籍市場で獲得したマリオ・バロテッリの後半戦での活躍もあってリーグを3位で終え、UEFAチャンピオンズリーグ予備予選の出場権を獲得した。2013-14シーズンは4年ぶりにカカがミランに復帰し、アンドレア・ポーリやヴァルテル・ビルサ、ミランユース出身のアレッサンドロ・マトリを獲得した。主将だったアンブロジーニの退団を受け、モントリーヴォが新たな主将となった。シーズン序盤から負けや引き分けが多く勝ち点を重ねられず、年明けの2014年1月からクラブ初のアジア国籍選手である本田圭佑を獲得したものの、1月13日にアウェーでのサッスオーロ戦で2点リードしながら4-3で敗れたことが引き金となり、監督のアッレグリが解任された。後任は助監督のマウロ・タソッティが一時的に務めたが、すぐにブラジルで現役選手であったクラレンス・セードルフを招聘。戦術変更をしても状況は好転せず、結局リーグ戦8位となり、15シーズンぶりにチャンピオンズリーグ及びヨーロッパリーグの出場を逃した。シーズン終了後、セードルフを解任した。また、2014年には新オフィスである「カーサミラン」が完成。2014-15シーズンはフィリッポ・インザーギが就任した。移籍市場では、カカ、バロテッリ、ロビーニョらを放出し、フェルナンド・トーレス、ディエゴ・ロペス、ジェレミー・メネズ、アレックスを獲得した。序盤は好調だったもの、徐々に引き分けや負けが込み、10位という成績に終わった。シーズン終了後、ベルルスコーニはタイの実業家、ビー・テチャウボンに株式の48%を譲ることを発表した。2015-16シーズンはインザーギを解任し、新監督にはUCサンプドリアの監督であったシニシャ・ミハイロヴィチが就任した。しかし、2016年4月12日、ミハイロビッチも解任され、プリマベーラを指揮していたクリスティアン・ブロッキを昇格させた。昨シーズン途中に就任したブロッキが退任し、2016-17シーズンの新監督に、元フィオレンティーナ監督のヴィンチェンツォ・モンテッラが就任。2016年8月5日、同クラブの親会社「フィニンヴェスト」がミランを中国資本へ売却することを発表した。中国企業グループがミランの株式の99.93パーセントを7億4000万ユーロ(約832億円)で買収することで合意。契約の署名時に1500万ユーロ(約16億8000万円)、さらに署名から35日以内に8500万ユーロ(約95億6000万円)が支払われる模様だ。また、すべての手続きが完了するのは2016年の終わりになると発表されている。ホームユニフォームは赤黒の縦じま。ただしUEFAチャンピオンズリーグ、インターコンチネンタルカップ等の決勝では上下白のセカンドを希望して着用することが多い。チャンピオンズリーグ7回の優勝のうち6回を白のセカンドユニフォームで勝ち取っている。また、選手支給スーツはドルチェ&ガッバーナから提供される。★★※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。※3番はパオロ・マルディーニ 長男クリスティアン・マルディーニが引き継がない限り、永久欠番。※6番はフランコ・バレージ 永久欠番。
出典:wikipedia
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