夢路 いとし・喜味 こいし(ゆめじ いとし・きみ こいし)は、戦前から21世紀初頭にかけて活動した、夢路いとしと喜味こいしの兄弟による日本の漫才コンビ。1937年に少年漫才コンビとして活動を開始、2003年9月に兄の夢路いとしが死去するまで活動を続けた。1999年、大阪市指定無形文化財に指定。「上方漫才の宝」と呼ばれる。夢路いとし(本名・篠原博信)と喜味こいし(本名・篠原勲)は兄弟で、旅回りの劇団に所属する両親の間に生まれた。父親は元警察官であったが、芝居好きが高じて退職し、芸能の世界に飛び込んだという。また、看護師だった母はその父に従い、三味線を習得して巡業に帯同したという。幼い頃の2人は子役として活動(初舞台はともに1932年)し、兄の博信は東京で映画に出演、弟の勲は劇団の巡業について全国を巡り、芝居に出演した。1936年、二・二六事件をきっかけに一家は名古屋で暮らすようになった。名古屋でも2人は芝居に出演した。変声期を迎え「大人とも子供ともつかんような中途半端な年齢」に差しかかっていた2人はチンピラ劇に出演するようになり、そこで漫才のような掛け合いを演じた。2人は、父が書いた『野球但馬守』なる掛け合いの台本を記憶している。ある時2人は共演者で玉乗り芸人の井上金太郎に掛け合いが面白いと評価され、漫才師に転向するよう勧められた。井上の勧めに従うことにした2人は井上の紹介で漫才師の荒川芳丸(井上が属する一座の座長を務めていた)に弟子入りすることになり、1937年秋に一家で荒川の一座に入った。荒川は漫才師となった2人に荒川芳博・芳坊という芸名をつけた(芳博が後の夢路いとし、芳坊が後の喜味こいし)。喜味こいし(芳坊)曰く、荒川自身は「鼓を叩くような古いスタイルの漫才」をやっていたがそのような漫才は時代遅れだと認識しており、2人にしゃべくり漫才をやるように勧めた。コンビ結成当初はしゃべくり漫才が世間に漫才として十分に認知されておらず、地方の興業では客から「漫才をやれ!」と野次られ、泣きながら演じることもあった。1940年10月に荒川芳丸が急死し、一座は解散した。芳丸の息子の荒川小太郎が吉本興業の所属となり、小太郎の誘いを受けた2人も手見せを経て吉本興業に所属することになった。2人は家族とともに大阪へ移り、当時大阪で最も権威のあった寄席である南地花月と花月倶楽部をはじめとする吉本興業直営の寄席に出演した。1943年、弟の芳坊(後の喜味こいし)が山口県の軍需工場に徴用され、コンビは活動停止を余儀なくされた。徴用されて半年ほどが経った時期に芳坊は少年兵として兵役に就くことを志願し、徴兵検査で甲種合格。山口の歩兵第42部隊の重機関銃中隊に配属された。その後広島に配属され、そこで終戦を迎えた。芳坊は1945年8月6日に被曝したが幸い重い原爆症を発症することはなく、終戦後間もなく大阪へ戻った。なお体が弱かった兄の芳博(夢路いとし)は徴兵検査で不合格となり、徴兵も徴用もされなかった。芳坊が不在であった間、芳博は荒川光月とコンビを組んだり、慰問団の司会をしている。芳坊(後の喜味こいし)が大阪へ戻ってしばらく後に、2人は山田博・勲として活動を再開させた。当時、戦災により直営の寄席を失った吉本興業は演芸を行わなくなっていたため、2人は松鶴家団之助が設立した団之助興行社の興行に参加した。1947年、2人は他の漫才師らとともに新作漫才の発表会「MZ研進会」を結成した。MZ研進会の運営は演者が自らネタを考えて演じ、会長を務める漫才作家の秋田實がアドバイスを入れるという形で行われた。喜味こいしによると、この時の経験が後に夢路いとし・喜味こいしのネタ作りのスタイル(夢路いとしが考えたネタに喜味こいしが意見を言って構成を考える)の確立に繋がった。MZ研進会参加後は秋田が2人のために台本を書くこともあった。ただし秋田は筋書きを考えるだけで、ネタの細かな構成はいとしが考えた。秋田についていとしは「私達が今日あるのは、ひとえに先生のご威光のお陰」「私たちは秋田門下です。それを誇りに思って、今も漫才をやっています」、こいしは「我々にとって生涯の恩師」と述べている。2人はMZ研進会に参加していた時期に芸名を夢路いとし・喜味こいしに改めた。新しい芸名が決まった経緯は以下のとおりである。まず兄の芳博が並木一路・内海突破(当時東京で活躍していた漫才コンビ)のように2人あわせても1人でも意味の通る名前として「いとし・こいし」を考えた。どちらがどちらの名前を名乗るかじゃんけんで決め、勝った芳博がいとしを選んだ。次に屋号を考え、月丘夢路のファンであった芳博が夢路いとし、芳坊は二村定一のヒット曲『君恋し』から喜味こいしとした。なお、はじめは「いと志・こい志」と変体仮名で表記していたが、間もなく普通の平仮名にした。1949年12月、いとし・こいしは秋田が番組構成を担当した全国放送のラジオ番組『上方演芸会』に定期的に出演するようになった。『上方演芸会』出演をきっかけにいとし・こいしは若手漫才コンビとして名が売れるようになり、漫才に軸足を置きつつ、『がっちり買いまショウ』(毎日放送)の司会を務めたのを始めとして、テレビ、ラジオ、映画、演劇など様々な分野で活躍するようになった。本業の漫才では第4回上方漫才大賞の大賞(1969年)や第5回上方お笑い大賞の大賞(1976年)など、数々の賞を受賞した。いとし・こいしはしばしば時事ネタを扱いつつ、その時の2人の年齢に合わせたネタを演じた。喜味こいしによると、年齢に合わせて演じることで無理することなく、自然体で演じられたという。2人はキャリアを重ねる中で、他の漫才師のしゃべり方が時代とともに速くなるのに対し、敢えて年相応のゆっくりとしたしゃべり方をするようになった。その結果桂米朝が「淡々として世間話のようなしゃべり方でいつの間にやらお客を引きつけ、最後は爆笑に持っていく。ああいう型はだれもようやらんのでは」と評したスタイルが確立され、世代を問わず高い支持を集めることに成功した。2人は「90歳になるまで漫才をやりたい」と述べていたが、2003年9月25日に兄の夢路いとしが死去。同月29日に喜味こいしは「いとし・こいしという漫才は、兄貴が死んで、もう終わりでございます。」と語り、コンビ解散を発表した。解散後、2011年1月に死去するまでの間、こいしはコンビを組まず一人で活動した。なお夢路いとしの死後、いとし・こいしを師と慕うはな寛太・いま寛大がいとし・こいしを襲名するとネタにするようになった。喜味こいしは2人に「自分が死んだらいとし・こいしを継いでもいい」と言ったがはな寛太が2007年に死去し、襲名は幻に終わった。上岡龍太郎は、関西には露悪的で下品な芸風の芸人が多い中で、いとし・こいしには凛とした品の良さがあったと述べている。小松左京も同様に、いとし・こいしの漫才には「都会的で上品な香りがする」と述べている。上岡によると2人は人柄の良さという点でも頭抜けていて、「もし、いとこい先生が誰かと揉めていたら、これは文句なく相手が悪い」「理由が分からなくても相手が悪い」と言えるほどだと述べている。上岡龍太郎はいとし・こいしの特徴として、新作漫才を多く演じたことを挙げている。上岡は、新作漫才は観客が想定とは異なる反応を示すことが多く精神的に疲れるものであるにもかかわらず「しんどいけど、新作を舞台にかけた時のなんとも言えん気持ちが好きや」と語るいとし・こいしを称賛している。こいしによると若手時代に先輩の芸人が2人のネタを無断で演じてしまうことがよくあり、ネタをとられないために新作漫才を多く演じるようになった。西川きよしはいとし・こいしの優れた点として、独特の呼吸と間を持ち常にマイペースで演じる点を挙げている。きよしは2人が持つ呼吸と間の絶妙さについて「漫才界で名人といえるのは、いとし・こいし先生だけと言って間違いない」と評している。藤田まことも、2人の呼吸と間は名人芸だと評している。上岡龍太郎は、いとし・こいしの漫才の凄さは無駄がなく、悪いところが何もない点にあると評している。夢路いとし・喜味こいしとしての出演番組を記載。ピンでの出演作品は夢路いとしと喜味こいしの出演の項目を参照。
出典:wikipedia
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