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野坂茂三郎

野坂 茂三郎(のさか もさぶろう、万延2年2月11日(1861年3月21日) - 大正12年(1923年)5月7日)は、日本の政治家、実業家。元衆議院議員、郡会議員、町会議員。元中国貯蓄銀行頭取、米子銀行取締役。鳥取県平民。大地主。元米子市長野坂寛治の父。伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号は油屋。野坂與八郎四男。地方村夫子に従い漢学句読習字算術等の教授を受く。小学校設立に及び入校し或は豫科学所に入り勤学す。明治10年(1877年)1月分家して一家を創立す。明治15年(1882年)呉服商をはじめて営む。明治17年(1884年)米綿仲買商を兼業した。明治31年(1898年)3月実施された第5回総選挙で第三区から衆議院議員に当選した。後に寛治が、このときの選挙費用が買収も併せておよそ三千余百円だったと書いている。鳥取県全体では第一区から石谷伝四郎、第二区から西谷金蔵が当選した。しかし同年8月第6回選挙が行われ彼に代わって門脇重雄が当選した。大正初年以来朝鮮京畿道に八十三町歩の干潟地開墾事業(野坂農場)を起し寛治などが監督に当り、工事はしだいに進んだが、大正10年(1921年)茂三郎はその指揮中に病気で倒れた。しかも、開墾事業は資金不足のため中途で放棄され野坂家は没落の道を辿ることになった。茂三郎は、明治期における米子商人を代表するひとりだが、商売で才腕をふるう一方道楽に凝り、政治や事業に私財を投じた点で坂口平兵衛やのちの三好栄次郎などと相通ずる米子商人の気質が窺える。『明治人名辞典Ⅱ 下巻』(底本・『日本現今人名辞典(明治三三年)』) のノ十に、「君は鳥取縣の人にして油屋と稱し人参製造代辧業兼呉服太物商を營み方今株式會社米子銀行及び同中國貯蓄銀行取締役、同米子米綿取引所理事等の任に在り(所六六圓餘、營一三七圓餘、伯耆國西伯郡米子町法勝寺町)」とある。明治35年(1902年)2月の『鳥取県伯耆国一円地価所得税詳覧』によって、米子町を含む西伯郡の地価一万円以上の大地主をみると以下のとおりである。彼等は当時の経済的実力者で、その多くは、質屋を営み、銀行に投資し、商業に従事し、あるいは各種会社の役員を兼ねるなど多面的な経済活動をしていた。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである。30000円~35000円の部に野坂茂三郎の名前がみえる。

出典:wikipedia

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