『恋山彦』(戀山彥、こいやまひこ)は、吉川英治による日本の小説、または同作を原作とした1937年(昭和12年)製作・公開、阪東妻三郎主演、マキノ正博監督による日本の剣戟映画、および1959年(昭和34年)のマキノによるセルフリメイク映画である。小説の初出は『キング』(講談社)での「昭和9年1月号」から「昭和10年3月号」まで(1934年 - 1935年)の連載、のちに阪東の三男・田村正和が舞台でリメイクした。『恋山彦』は、1932年(昭和7年)にあるトラブルから講談社での執筆を停止した吉川英治が、2年ぶりに執筆した作品である。同社の『キング』誌に1年間連載をして、完結した。17世紀末、江戸(現在の東京都)と信州(現在の長野県)を舞台にした小説で、実在の人物である徳川綱吉や柳沢吉保、英一蝶らが登場するのが特徴である。連載完結後、映画監督のマキノ正博が経営する京都の映画会社・マキノトーキー製作所が映画化権を取得し、同社の比佐芳武が脚本を執筆したが、1937年(昭和12年)4月に同社が解散、マキノは同シナリオを携えて日活入りし、入社第1作として映画化を実現した。『恋山彦 風雲の巻』(戀山彥-、こいやまひこ ふううんのまき)は、1937年(昭和12年)製作・公開、阪東妻三郎主演、マキノ正博監督による日本の剣戟映画である。マキノトーキー製作所を同年4月に解散したマキノは、同社で企画開発していた脚本『恋山彦』を携えて、日活京都撮影所に一介の社員監督となるべく入社した。入社第1作が本作である。阪東妻三郎プロダクションを解散し、同撮影所に入社した阪東妻三郎にとっても、同社入社第1作となった。『恋山彦 怒濤の巻』(戀山彥-、こいやまひこ どとうのまき)は、1937年(昭和12年)製作・公開、阪東妻三郎主演、マキノ正博監督による日本の剣戟映画である。『恋山彦』(こいやまひこ)は、1959年(昭和34年)製作・公開、大川橋蔵主演、マキノ雅弘監督による日本の剣戟映画である。第二次世界大戦前の「マキノ正博」名義、阪東妻三郎主演作のセルフリメイクである。舞台は17世紀末、江戸時代の日本、徳川綱吉(小柴幹治)の時代である。幕府の実権は、大老の柳沢吉保(柳永二郎)が握っていた。伊那の虚空蔵山に、壇ノ浦の戦い以来の平家の村があった。その一族・伊那の小源太(大川橋蔵)が自らの館に娘を迎え入れた。名はお品(大川恵子)、父を柳沢吉保に殺されたという。吉保の妾おさめの方(日高澄子)に三味線の名器「山彦」を所望されたのを断ったのがその理由であった。小源太ら平氏の末裔は、柳沢吉保討つべしと江戸へ向かった。小源太らは、将軍綱吉と柳沢吉保と対決したが、あえなく自滅、小源太は江戸城の堀に入水した。小源太も攻め入られて全滅し、「山彦」も奪われ、お品は江戸に向う。画師の英一蝶(伊藤雄之助)に救われ、小源太は生きていた。小源太は一蝶の友人・島崎無二斎(大川橋蔵・二役)とそっくりだったため、無二斎は幕府の追っ手に狙われ、小源太として自害した。お品と再会、お品の父の友人は豪商・紀の国屋文左衛門(香川良介)であることを知る。文左衛門の手引きで、柳沢吉保の屋敷で行われている小源太の死を祝う盛大な宴に小源太は忍び込む。文左衛門が奉納する宝生流の能舞台の能役者に小源太は化けたのだ。小源太は無事に一族の敵を、お品は父の敵を討つことができた。国立国会図書館蔵書。
出典:wikipedia
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