團 徳麿(だん とくまろ、新字体:団 徳麿、1902年12月20日 - 1987年1月18日)は、日本の俳優、脚本家。「徳磨」は誤り。本名は山本 徳麿(やまもと-)。初期芸名は太田黒 黄吉(おおたぐろ こうきち)。メーキャップと変装の名人で、怪優として知られた剣戟俳優である。愛称は「ダントク」。丹下左膳を初めて演じた俳優でもある。長女は女優の山本鳥古、その娘婿は俳優の五味龍太郎、孫娘は放送作家の山本真奈美である。1902年(明治35年)12月20日、兵庫県神戸市兵庫切戸町に生まれる。1916年(大正5年)、新派の松尾次郎一座に入り、谷本若葉を名乗って横浜喜楽座で初舞台を踏む。その後静間小次郎一座等で舞台活動を行った。1925年(大正14年)、東亜キネマ等持院撮影所に入社、同年に『荒神山の血煙』で太田黒黄吉名義で出演した。同年の東亜キネマとマキノ・プロダクションの分離の際には、東亜の等持院撮影所に残った。1926年(大正15年)、芸名を團徳麿に改名し、やがて同社の幹部俳優となる。1928年(昭和3年)、広瀬五郎監督の『新版大岡政談』で丹下左膳役を演じ、初の丹下左膳俳優となった。1929年(昭和4年)、山口好幸監督の『怪盗小平次』で主演の傍ら脚本も書き、同年の『夕凪城の怪火]』、1930年(昭和5年)の『侠骨元禄組』では、主演のほかに原作を執筆している。筆名はすべて旧芸名の太田黒黄吉名義である。1930年(昭和5年)、帝国キネマ演芸(帝キネ)に移籍。帝キネでは、新居重明監督の『女讐夜話』、志波西果監督の『時代の反抗児』に主演したが、翌1931年(昭和6年)に同社を離れ、市川右太衛門プロダクション、片岡千恵蔵プロダクションの各作品に客演した後、1934年(昭和9年)、新興キネマに入社した。1936年(昭和11年)2月、マキノトーキー製作所に移籍するが、同社は1937年(昭和12年)に解散となり、団は多くの同社のスタッフ・キャスト同様に日活京都撮影所に移籍した。1942年(昭和17年)の戦時統合で日活は大映となり、団は松竹京都撮影所に移籍した。終戦後の1950年(昭和25年)、東横映画に入社。翌1951年(昭和26年)の東映合併後は同社所属となり数多くの時代劇映画に出演した。1987年(昭和62年)1月18日、心不全のため死去。84歳没。東亜キネマでは一作ごとにメイキャップで別人に人相も立ち回りも変え、「怪優」と呼ばれた。1926年の『天明怪捕物・梟』(石田民三監督)では、白髪頭の老人に扮し、亀の子のようにうずくまった姿勢で、頭から背に杖を背負って縦一文字に構え、ゼンマイ仕掛けのように躍り上がって相手を打つという奇想天外な立ち回りを見せた。1927年の『新版大岡政談』(広瀬五郎監督)では、大河内傳次郎よりも早く、左膳と刀鍛冶の得院兼光、山椒の豆太郎の三役を演じている。「山椒の豆太郎」は身体を二つに曲げて1メートル足らずの小人に扮し、この姿で立ち回りを演じて見せている。当時の『芝居とキネマ』誌によれば、身長5尺3寸(160.6センチメートル)、体重14貫(52.5 キログラム)という体格であった。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。