越中 詩郎(こしなか しろう、1958年9月4日 - )は、東京都江東区出身の男性プロレスラー。血液型はB型。フリーランス(個人事務所:Office K2)。中学時代に全日本プロレスを見てファンになる。高校時代は野球部に入り2年目はファースト、3年目はキャッチャーとレギュラーになるも、甲子園に行くことはできなかった。卒業後、電気工事関連の会社に就職するも、プロレスラーへの夢はあきらめきれず、高校時代の野球部の監督からレスリングの監督を通じてジャイアント馬場を紹介されて見習いを経て1978年7月に全日本プロレスに入門する。1979年3月5日、館山市民センターで園田一治を相手にデビュー。大仁田厚の後を継いで、馬場の付き人を務めた。1983年4月22日、ルー・テーズ杯争奪リーグ戦で三沢光晴を破り優勝。1984年3月、三沢とともにメキシコへ遠征し、サムライ・シローの名で活躍した。同年7月に、馬場からの国際電話で「三沢を日本に帰せ。チケットを送るから三沢を空港へ送れ」と告げられたと同時に、三沢がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱くようになっていき、1985年2月に坂口征二の誘いで、新日本プロレスが遠征を行っていたハワイに飛び、その際に新日本移籍を決意する。同年4月1日の東京スポーツに全日本退団を全日本に提出した辞表と共にスクープされ、そして同年7月に全日本プロレスを離脱し、新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国(異説については後述)。同年7月19日の新日本札幌中島体育センター大会に現れ、同年8月1日の新日本両国国技館大会で入団挨拶を行った。なお、すぐに新日本に移籍せず、まず当時設立したばかりのプロモーションだったアジアプロレスに移籍して、そこから新日本に上がるという形を取っていた。1986年2月6日、IWGPジュニア王座決定リーグ戦の決勝でザ・コブラを破り、初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得。その後、旧UWFから戻ってきた高田伸彦とジュニアベルトを争う。高田のキックを愚直にも正面から受けるファイトスタイルはUWFびいきのファンからも支持を集め、一躍人気レスラーとなった。そのキックや関節技を主体とした攻めの高田と、「耐える美学」「人間サンドバッグ」とまでいわれた受けの越中のシングルマッチは「ジュニア版名勝負数え唄」と形容され、当時のプロレスファンの圧倒的な支持を得た。1987年3月20日、王座決定戦で武藤敬司とのコンビを組み、前田日明・高田伸彦組を破り、第4代IWGPタッグ王座を獲得する。1988年2月7日、第1回トップ・オブ・ザ・スーパージュニアで優勝した。獣神サンダー・ライガーらの台頭や自身のウェイトアップによりヘビー級に戦いの場を移す。ドラゴンボンバーズへ入るも誠心会館との抗争に関して新日本プロレス選手会と対立しヒールに転向。1992年7月31日、頭を剃り上げて反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成し、一躍中堅からトップ戦線へ踊り出る。1994年11月13日、東京ベイNKホールで平成維震軍旗揚げ戦を行い、タイガー・ジェット・シンと対決した。この時期、1995年のG1 CLIMAX初戦でIWGP王者(当時)武藤敬司を破るという実績も挙げている。1998年、天龍源一郎と組みIWGPタッグ王座獲得。1999年2月22日、平成維震軍を解散し新日本本隊に復帰。その後佐々木健介と組みIWGPタッグ王座に返り咲いた。また2000年には全日本プロレスに参戦し、三冠王者決定トーナメントに出場している。2003年1月、新日本プロレスを契約満了により退団し、WJプロレスに入団。当初は盟主である長州力の片腕的存在だったが、金銭面で揉め、大森隆男らと共にレイバーユニオンを結成。同年10月31日付でフリーランスとなった。2004年2月、大森隆男とともに、炎武連夢(大谷晋二郎・田中将斗組)からNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取。さらに、プロレスリング・ノアにも参戦し、平成維震軍の仲間だった齋藤彰俊と共闘。ZERO1-MAXやキングスロードへも参戦。2007年には、『アメトーーク!』でケンドーコバヤシによる越中のネタから「越中ブーム」が発生。それも背景に同年5月2日、11年ぶりにIWGPヘビー級選手権試合に臨んだ。試合は敗北したものの、王者永田裕志に対しヒップアタックや侍ドライバー'84、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチといった、平成維震軍当時からの大技を遺憾なく発揮した。一時期は天山広吉、真壁刀義らと組み、G・B・Hで活躍したものの、2007年8月に離脱、長州力、蝶野正洋らとともに「レジェンド」を結成した。2008年に後楽園ホールで行われた『ハッスル・ツアー2008~7.11 in KORAKUEN』からハッスル参戦を表明。日本代表として出場した『ハッスルGP2008』においてザ・モンスター℃を下し、ハッスルデビュー戦を白星で飾った。2009年8月27日に行われたハッスル主催『越中詩郎デビュー30周年記念大会』では新日本の永田裕志、獣神サンダー・ライガーと組み、天龍源一郎、川田利明、TAJIRI組と対戦。15分18秒、TAJIRIを高角度パワーボムからのエビ固めで破り勝利。試合後、ファンと共にデビュー30年を振り返った。2011年5月、3月に晴れてプロレスデビューした橋本真也の長男、橋本大地を相手にタッグマッチを行い、「お前の父ちゃんにしこたまやられたんだ!」とマイクでコメントし、実力差をまざまざと見せつけた。2012年6月13日、ノア主催三沢光晴メモリアルナイトのメインイベントに登場。森嶋猛とダブルヒップアタックを見せる等の活躍を見せたが、試合中に左足首脱臼骨折を負い長期欠場。2013年、35周年を迎える。7月7日、ノアの有明コロシアム大会で1年ぶりに復帰した。常にコンディションが良いことで知られる。技術面では受け身の巧さ、切れの良いスープレックス、高角度のパワーボムが特徴である。また、近年はヒップアタック等の尻を利用した攻撃が高い会場人気を集めており、「ケツだけで試合を組み立てられる」職人レスラーと評価されている。地方大会でも常に全力ファイトを見せる。新日本移籍の経緯については、かつて様々な説が流れたが、現在は越中自身が『やってやるって!』(ケンドーコバヤシと共著・扶桑社)や『元・新日本プロレス 『人生のリング』を追って』(金澤克彦著・宝島社)で自ら真相を明かしている。それによれば、全日離脱・新日移籍の経緯は、三沢光晴がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱いた中、選手の大量離脱に苦しむ新日本側が大剛鉄之助経由で接触してきたというものである。帰国した足で巡業中で三沢市に滞在していたジャイアント馬場に詫びを入れに出向き、あくまで移籍を認めない馬場を最終的にとりなしたのは、天龍源一郎だった、ということも語られている。別れ際、天龍は「お前、メキシコで苦労して、どうせ金持ってないんだろ!」と言わんばかりに、餞別としてつかみきれないほどの一万円札を越中のポケットにねじ込んだという。また越中は、前記書籍発刊より後に行われたインタビューで、自らに対する馬場の扱いに、かねてから不満を持っていたことを明かしている。
出典:wikipedia
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