LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

天山広吉

天山 広吉(てんざん ひろよし、1971年3月23日 - )は、日本の男性プロレスラー。京都府京都市出身。新日本プロレス所属。血液型O型。本名および旧リングネームは山本 広吉(やまもと ひろよし)。京都市立北野中学校、京都府立山城高等学校卒業、学生時代はボディビルとバスケットボールに打ち込み、新日本プロレス学校を経て、1990年5月に新日本プロレスに入門。1991年1月11日、今治市公会堂大会にて、本名の山本広吉として松田納(現:エル・サムライ)戦でデビューを飾る。その後は同時期にデビューした小島聡とのタッグで前座戦線を沸かせてきた。1993年3月、若手選手を中心としたリーグ戦、ヤングライオン杯に出場。リーグ戦を勝利を積み重ねていき、23日の決勝戦で対戦した西村修から勝利を収め、同大会を優勝。6月より海外武者修行のため、グラーツを拠点とするキャッチ・レスリング・アソシエーション("Catch Wrestling Association"、略称 : CWA)に参戦。現地でランス・ストームを下し、CWA世界ジュニアヘビー級王座に2度戴冠する活躍を遂げた。また、カルガリーの大剛鉄之助の元で肉体改造を行い、1995年1月4日、凱旋帰国に合わせてリングネームの姓を天山と改め、中西学とシングルマッチで対戦し、勝利を収めた。2月4日、橋本真也の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦。敗れはしたものの、23歳9ヶ月での挑戦は当時の最年少挑戦記録を打ち立てており、その将来性を高く買われていた。その後、越中詩郎率いる平成維震軍から再三に渡って勧誘を受け、2月12日、後楽園ホール大会昼興行にて、勧誘に対する返事を聞かせてほしいと、越中に呼び込まれる形で私服姿でリング上に登場。越中と握手をすると見せかけて、モンゴリアン・チョップを見舞い維震軍入りを拒否。直後に維震軍の一員である小原道由が現われ、そのまま小原とシングルマッチに流れ込む。試合を終始圧倒して勝利を収めた。そしてこの日のメインイベント終了後に再び姿を見せ、リング上にいる選手らを蹴散らかすと、直後に登場した蝶野正洋と結託。同日、後楽園大会夜興行にて、蝶野 & ヒロ斎藤とのトリオで長州力 & 橋本 & 平田淳嗣組と対戦し、ダイビング・ヘッドバットで長州からピンフォール勝ちを収めるという番狂わせを起こすと、蝶野 & ヒロ & サブゥーらと共に狼群団を結成。一躍にしてトップレスラーたちの仲間入りを果たした。以降、新日本本隊と抗争を繰り広げ、6月12日、蝶野とのタッグで、空位となったIWGPタッグ王座を賭けて橋本 & 平田組と対戦。この試合に勝利を収め、第25代王者組に戴冠。同年のプロレス大賞では蝶野と共に最優秀タッグ賞を受賞するに至った。1997年より蝶野が指揮を執るヒール・ユニット、nWo JAPANのメンバーとして合流。同年8月より開催されたG1では準優勝という戦績を残した。1998年10月、蝶野が怪我で離脱し、代理で指揮を執る武藤敬司がnWoに小島を勧誘する行為に対して異を唱え、チーム内で亀裂が生じる。問題が解決しないまま、11月に開催されたSG TAG LEAGUEでは、nWoスティングとのタッグで出場。25日、公式戦にて対戦した武藤 & 小島組との戦いを通じて、小島のことを認めて和解。これをキッカケに小島とタッグチーム、テンコジを結成。翌1999年1月4日東京ドーム大会では同タッグで、天龍源一郎 & 越中詩郎組が保持するIWGPタッグ王座を奪取し、第36代王者組に戴冠。以降小島と共にタッグ戦線を大いに賑わし、数々のタッグチームを相手にしのぎを削り、2000年のプロレス大賞では最優秀タッグ賞を受賞、2001年11月より開幕したG1 TAG LEAGUEに優勝するといった活躍を見せてきたが、2002年に小島の全日本プロレス移籍が発表され、同年1月24日の試合を最後にテンコジとしての活動を休止。その後は再び蝶野との組むようになり始めた。2003年8月、G1 CLIMAXに出場。これまで何度も優勝候補に挙げられるも、後一歩で手が届かなかった天山は一念発起して、再びカルガリーの大剛の元で肉体改造を行い、凱旋帰国を果たす。また、コスチュームも従来の黒から赤を基調としたものに変更し、髪を黒髪に染めた。G1では初戦こそプロレスリング・ノアの秋山準に敗北を喫するも、その後は勝利を積み重ねて決勝トーナメントに進出。準決勝戦で高山善廣を制し、決勝戦で再び秋山と対戦。遠征先のカルガリーにて開発した新技、アナコンダバイスでギブアップ勝ちを収め、優勝を果たした。また、10月に行われたG1 TAG LEAGUEでは西村修とのタッグで優勝。11月3日には高山が保持するIWGPヘビー級王座に挑戦し奪取し、第33代王者に戴冠。自身初となるIWGP王座の戴冠となったが、12月9日に行われた初防衛戦で中邑真輔に敗戦し、短命政権に終わった。2004年2月15日、中邑の怪我により返上されたIWGPヘビー級王座決定トーナメントにエントリー。決勝戦で天龍を制し、第35代王者に返り咲いた。8月に開催されたG1では、新・闘魂三銃士と称された中邑、柴田勝頼、棚橋弘至らを決勝トーナメントで順に3タテして、史上二人目となるG1連覇の偉業を成し遂げる。12月5日、全日本プロレスに参戦し、川田利明の保持する三冠ヘビー級王座に初挑戦。12月のプロレス大賞では敢闘賞を受賞した。2005年2月20日、小島の保持する三冠ヘビー級王座と、自身が保持するIWGPヘビー級王座を賭けたダブルタイトルマッチで小島と対戦。試合時間残り15秒となったところで、脱水症状によるK.O.負けを喫した。試合終了後に都内の病院に搬送され、検査の結果、意識消失発作と診断された。5月14日東京ドーム大会にて、小島と再戦し勝利を収めてIWGP王座を奪取するも、7月18日の防衛戦で対戦した藤田和之に敗戦し王座から陥落した。2006年8月、G1ではリーグ戦を全勝で飾り、決勝戦で小島と対戦。これに勝利を収めて、3度目の優勝及び全勝優勝の快挙を成し遂げた。その後、タッグパートナーである蝶野との確執が起きてしまい、タッグを解消。10月、真壁刀義、越中詩郎らと共にヒール・ユニット、G・B・Hを結成。後に真壁 & 越中と抗争を繰り広げていた矢野通 & 石井智宏をメンバーとして引き入れ、蝶野と抗争を繰り広げる。12月、全日本プロレス主催のタッグリーグ、世界最強タッグ決定リーグ戦にテンコジとして出場し、優勝を果たした。2007年に入り、G・B・Hのリーダーとして引き続きチームを引っ張っていたが、昨年12月に負傷した首の状態が最悪であることが発覚。この影響で8月に開幕したG1では、2勝3敗と負け越しに終わる。同月12日にはG・B・Hを離脱した越中からピンフォール負けを喫し、試合後のコメントでは「リングが怖い」と弱音を吐く姿が見られた。10月8日、EXPLOSION '07にて、かつての付き人である後藤洋央紀とシングルマッチで対戦。試合終盤、後藤の変形バックブリーカーを喰らい、頸椎を損傷。最後は昇天でピンフォール負けを喫し、長期欠場へと追い込まれた。2008年2月17日、邪道 & 外道 & 石井とのカルテットで、レジェンド(蝶野 & 長州 & 越中 & スーパー・ストロング・マシン)と対戦するも、石井が蝶野にピンフォールを奪われ敗戦。試合後、味方の三人から袋叩きに遭い追放された。3月9日、NEW JAPAN CUP(以下「NJC」と表記)に出場し、一回戦で石井と対戦し勝利。試合後にまたしてもG・B・Hのメンバーによる攻撃を受けるが、この状況を見かねた新日本本隊の飯塚高史が救出に駆け付け、事無きを得た。最初は飯塚を冷たくあしらっていたが、15日豊岡大会にて、握手を交わし共闘を宣言。NJCでは21日千葉大会にて、二回戦で真壁と対戦するもピンフォール負けを喫した。その後、飯塚とのタッグを友情タッグと命名し、3月30日、NEW DIMENSIONにて、IWGPタッグ王者組のモースト・ヴァイオレンス・プレイヤーズ(真壁 & 矢野)とノンタイトルマッチで対戦し勝利を収め、試合後のコメントで同タッグ王座への挑戦をアピールした。4月27日、NEW JAPAN BRAVE最終戦にて、友情タッグとして真壁 & 矢野が保持するIWGPタッグ王座に挑戦。試合序盤より大流血に追い込まれて劣勢を強いられてしまい、さらには終盤にパートナーの飯塚からスリーパーホールドを極められ、最後は真壁からピンフォール負けを喫した。その後、自身を裏切りG・B・H入りを果たした飯塚と抗争を展開していくも、反則による不透明決着が連日続き、さらにはタッグパートナーである長州や蝶野からは厳しい言葉を浴びせられるなど、次第に孤立。6月15日後楽園大会にて、6人タッグマッチでG・B・Hと対戦したが、またしても反則裁定で終わり、試合後に真壁からランバージャック・デスマッチでの決着戦を要求され、同ルールで飯塚と対戦することが決定的となった。7月8日、NEW JAPAN TRILL最終戦にて、飯塚とランバージャック・デスマッチで対戦。場外でG・B・Hメンバーからの攻撃で流血、後半はレフェリーを不在にさせ無法地帯と化すも、最後は飯塚にアナコンダバイスを極めて勝利を収めた。試合後にG・B・Hによる攻撃を受ける中、突如として小島が救援に駆けつけ固く握手を交わした。その後、8月に開催されたG1に出場するも、試合後に幾度となく飯塚の襲撃に遭い、因縁が再発。10月13日、DESTRUCTION'08にて、飯塚と2度目のデスマッチ、チェーン・デスマッチで対戦したが、飯塚にチェーンで絞首刑を受けたところを危険と見なされ、レフェリーストップ負けを喫した。10月18日、G1 TAG LEAGUEにて、7年ぶりにテンコジとしてエントリー。決勝戦で真壁 & 矢野組と対戦。アナコンダクロスで矢野をギブアップを奪い、優勝を果たした。全日本主催の世界最強タッグ決定リーグ戦では諏訪魔 & 近藤修司組を破り2年ぶりの優勝を果たし、初のメジャー団体タッグリーグ戦両制覇を成し遂げた。その後、翌年に開催されるレッスルキングダムIIIにて、IWGPタッグ王座に挑戦を決意するも、12月29日に右目の上半分が見えなくなるという異常を訴え、網膜剥離と診断され欠場を余儀なくされた。2009年5月3日、レスリングどんたく 2009にて復帰戦を行い、テンコジとして、BAD INTENTIONS(ジャイアント・バーナード & カール・アンダーソン)とIWGPタッグ王座次期挑戦者決定戦に挑むも、アンダーソンからピンフォール負けを喫する。試合後のコメントで「これ以上(小島に)迷惑をかけられない」という理由からテンコジとしての活動を再休止した。その後、再び飯塚からの襲撃を受けるようになり、7月20日、NEW JAPAN SOUL最終戦にて、チェーン・デスマッチで対戦。飯塚の首をチェーンで締め上げ、K.O.勝ちを収めた。8月、G1に出場する中で、古傷である首の状態が悪化してしまい、14日、脊椎管狭窄症および右肩亜脱臼により無期限の欠場を発表。千葉県内の病院に入院し、9月24日に首の痛みの原因となる頸椎後縦靭帯骨化症の手術を受けた。10月2日に退院しリハビリに努めていたが、都内病院にてMRI検査を行った結果、右肩腱板断裂と診断され、右肩も改めて手術することになり再入院。11月4日より再退院し、引き続きリハビリと治療に専念し始めた。2010年11月18日、新木場1stRINGにて行われた若手選手中心の興行、NEVER.4を舞台に復帰戦を行い、アントーニオ本多と対戦。最後はアナコンダバイスで本多からギブアップ勝ちを収めた。試合後のバックステージでは感極まって号泣。大会終了後に改めてコメントを発表し、今後は全日本を退団しフリーランスとして新日本に参戦している小島聡を標的に定めることを宣言した。12月11日、NEW JAPAN ALIVE大阪大会にて、新日本に本格復帰を果たし外道とシングルマッチで対戦。アナコンダバイスで勝利を収めたが、試合後に飯塚からスリーパーホールドを極められてしまい、因縁が再燃した。2011年1月4日、レッスルキングダムVにて、DEEP SLEEP TO LOSEルールで飯塚と対戦。試合終盤、レフェリーのブラインドを突いた飯塚の反則攻撃を実況席のゲスト解説を務めていた青義軍の井上亘の咄嗟の加勢で逃れることに成功。最後はアナコンダクロスで飯塚を失神させ、勝利を収めた。8月、2年ぶりにG1に出場。最終戦を待たずに予選落ちが確定するも、14日の公式最終戦にて対戦した小島の決勝進出の阻ませ、さらに小島に右目眼窩底骨折の重傷を負わせて欠場へと追い込み、4勝5敗という戦績を残した。9月19日、右目の負傷から回復した小島が新日本所属選手として復帰することがアナウンスされ、その復帰戦の相手として逆指名を受ける。10月10日、DESTRUCTION'11にて、小島聡復帰戦と銘打たれた試合で小島と対戦するも、最後はラリアットでピンフォール負けを喫した。以降も小島と抗争を繰り広げ、11月12日、POWER STRUGGLEにて、小島と三度シングルマッチで対戦。最後はムーンサルトプレスでピンフォール勝ちを収めた。試合終了後にまたしても飯塚による襲撃を受けたが、状況を見かねた小島が救出に入り飯塚を排除。その後、リング上で小島と言葉を交わしあい握手はしなかったものの、再結成への兆しを見せた。19日、小島の試合終了後に起きたCHAOSによる小島への執拗な袋叩きに耐え切れず、救出に入る。返り討ちにした後、観衆からの「テンコジ」コールに圧される形で、小島と握手を交わした。27日、飯塚による襲撃を受ける中、救出に入った小島と共に飯塚を撃退。その後、小島からテンコジの今後について問いかけられ、遂にテンコジ再結成の意思を表した。12月4日、飯塚 & ヒデオ・サイトー組と対戦。テンコジカッターからアナコンダバイスを極めて、飯塚からギブアップを奪い、テンコジ復帰戦を勝利で飾ると、試合後のコメントでIWGPタッグ王座への挑戦をアピールした。2012年1月4日、レッスルキングダムVIの舞台で、BAD INTENTIONSの保持するIWGPタッグ王座にテンコジとして挑戦。バーナードをムーンサルトプレスでピンフォール勝ちを収め、第58代王者組に戴冠。2月12日、THE NEW BEGINNINGにて、BAD INTENTIONSとのリターンマッチを制して初防衛に成功。3月18日、NEW JAPAN GLORYにて、鈴木軍の高山善廣 & ランス・アーチャー組を相手に2度目の防衛に成功したが、試合終了後に矢野通 & 飯塚の襲撃に遭い、IWGPタッグ王座を強奪されてしまう。5月3日、レスリングどんたく 2012にて、矢野 & 飯塚組を相手に3度目の防衛戦を行ったが、小島が矢野からピンフォール負けを喫して王座から陥落した。6月16日、DOMINION 6.16にて、IWGPタッグ王座を保持する矢野 & 飯塚組と再戦。両者リングアウト裁定が下され、IWGP実行委員会および菅林直樹による社長裁定により再試合が組まれるも、試合は大荒れの展開となり無効試合で終わった。7月22日、KIZUNA ROAD最終戦にて、矢野 & 飯塚組と三度対戦。最後は小島が飯塚からピンフォール勝ちを収め、第60代王者組に返り咲いた。10月8日、KING OF PRO-WRESTLINGにて、K.E.S.(ランス・アーチャー & デイビーボーイ・スミスJr.)を相手にIWGPタッグ王座の初防衛戦を行ったが、小島がスミスからピンフォール負けを喫し王座から陥落した。2013年5月3日、レスリングどんたく 2013にて、IWGPタッグ王座を保持するK.E.S.、挑戦者組のマッスルオーケストラ(中西学 & ストロングマン)、矢野 & 飯塚組を交えた4WAYマッチで対戦。最後は小島がストロングマンからピンフォール勝ちを収め、第62代王者組となった。8月、G1に出場するも、7日の仙台大会にて対戦した内藤哲也戦で肋骨を骨折してしまい、以降の大会を欠場することとなった。10月14日、KING OF PRO-WRESTLINGにて復帰戦を行い、渡辺高章とのタッグでK.E.S.と対戦したが敗戦。試合後にアーチャーからIWGPタッグ王座へ挑戦することをアピールされ、挑戦を受諾した。11月9日、POWER STRUGGLEにて、IWGPタッグ王座 & NWA世界タッグチーム王座を賭けたダブルタイトルマッチで、K.E.S.、アイアンゴッズ(ロブ・コンウェイ & ジャックス・ダン)と変則3WAYマッチで対戦。この試合でIWGP王座から陥落し、NWA王座も奪取とはならなかった。同月23日、テンコジとしてWORLD TAG LEAGUEに出場。決勝トーナメントに進出し、12月8日の準決勝戦で、K.E.S.から勝利を収め、決勝戦でBULLET CLUB(カール・アンダーソン & ドク・ギャローズ)と対戦したが、アンダーソンからピンフォール負けを喫し準優勝で終わった。2014年2月11日、THE NEW BEGINNING in OSAKAにて、NWA世界世界タッグ王座ナンバーワン・コンテンダーマッチと銘打たれた試合でテンコジとして出場し、ビッグダディ・ヤムヤム & マイケル・ターヴァー組と対戦。最後はターヴァーからアナコンダバイスでギブアップ勝ちを収め、挑戦権を獲得。4月6日、INVASION ATTACK 2014にて、NWA世界タッグ王座を保持するアイアンゴッズと対戦。ダンからピンフォール勝ちを収め、同王座に戴冠した。10月13日、KING OF PRO-WRESTLINGにて、NWAタッグ王座5度目の防衛戦としてK.E.S.と対戦したが、小島がアーチャーからピンフォール負けを喫し王座から陥落した。2015年2月14日、THE NEW BEGINNING in SENDAIにて、NWA世界ヘビー級王座を保持するロブ・コンウェイに挑戦。最後はムーンサルトプレスでピンフォール勝ちを収め、同王座に戴冠した。7月、NWA王者としてG1に出場。18日、明治記念館にて行われたG1直前記者会見の場で、自身に「もう終わってる」と発言した内藤哲也に対して怒りを露わにした。G1では最終戦を待たずして予選落ちが確定するも、8月14日の公式最終戦で内藤からアナコンダマックスでギブアップ勝ちを収め、恨みを晴らした。8月29日、ブランデッド・アウトロー・レスリング("NWA Branded Outlaw Wrestling"、略称 : NWA BOW)が主催する興行に参戦し、NWAヘビー級王座の防衛戦としてジャックス・ダンと対戦したが、ピンフォール負けを喫して王座から陥落した。2016年2月11日、THE NEW BEGINNING in OSAKAにて、小島とのタッグで永田裕志 & 中西学組と対戦。小島が中西からピンフォール勝ちを収めた試合後、永田がマイクを手に取り、「俺たちの力はまだまだ衰えてない!!」とアピール。小島、永田、中西らと手を取り合って決起を表明。同日、NEVER無差別級王座の防衛に成功した柴田勝頼から挑発されたことから、第三世代の一人として柴田との抗争に身を投じる。4月10日、INVASION ATTACK 2016にて、柴田の保持するNEVER王座に挑戦したが敗戦した。6月27日、KIZUNA ROAD 2016後楽園大会にて、G1出場メンバーに自身が選出されなかった不満をアピール。以後のシリーズでもG1出場のアピールをし続け、7月3日岩手大会にて、小島から呼び込まれる形でリング上に登場。小島は天山のG1にかける想いを汲み取り、「G1の出場枠を譲る」と発言。この発言に戸惑いながらも最後は受諾し、後日公式サイトにて、小島に変わってG1に出場することが決定した。13日、G1に向けての公開練習後のインタビューにて、「最後の『G1』」と意気込み本戦へと臨んだが、最終的には2勝7敗という戦績で幕を閉じた。キャラクターの強さはもとより、下記の趣味からテレビ出演も多い。天山はパチンコ好きでも有名で、その面でのメディア露出も多い。土山しげる作のパチンコ漫画「パチンコファイター猛牛天山!!」で原作を担当していた(2002年に単行本化)。スポーツ報知でも2011年9月までパチンコのコラム『天山の激録!!玉取ったる』を月1回連載していた(ただし、怪我の治療のため、2009年10月から2010年3月にかけては4代目タイガーマスクが代わりに担当していた)。テレビでも『銀玉王 リーチボーイズが行く!』(テレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ)に準レギュラー出演していたほか、ゲストとしてパチンコ・パチスロ番組へ出演することも多い。2010年に発売されたパチンコ機『CR江戸の始末屋〜最強新日烈伝』(平和)では、蝶野・棚橋・中西学と共に「始末屋」の一人として液晶演出に登場している。新日本プロレスのマットにパチンコメーカーの広告が出されているため、一時は自分の試合中にそれが目に入り思わずパチンコのことを考えてしまうほどだった(『銀玉王』出演時の発言より)。2010年の復帰後はプライベートでのパチンコを「家庭の事情」で禁止されているほか、2012年1月には年始の抱負として「パチンコ引退」を表明するなど、一時パチンコから距離を置いていた。しかし2014年にパチンコ漫画誌へのコメントとして「これからもパチンコを打ち続けるぞぉー!!」とパチンコ復活宣言をするなど、引き続きパチンコと関わっている。2014年にはフジテレビ「アウト×デラックス」に「妖怪メダルに翻弄される男」として出演。妖怪ウォッチ愛好者として「おはスタ」や「アニマゲー」など関連テーマの番組に相次いで出演した。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。