関東自動車株式会社(かんとうじどうしゃ、)は、栃木県宇都宮市を中心に路線バス・貸切バス事業等を運営するバス専業事業者(バス専業の会社)である。
地元では「関東バス」と呼ばれ商標登録もされており、車両や営業上の表記にも頻繁に用いられている。ただし、東京都に所在する「関東バス株式会社」および埼玉県に所在する「関東自動車」は全くの別会社であり、一切関係が無い。当社は、栃木県内の一般路線バスにおいて約70%の市場占有率(輸送人員ベース)を有するとともに、貸切バス保有台数も栃木県内最多のバス事業者である。一般乗合バス事業(一般路線バス・高速長距離バス)・貸切バスのほか、総合サービス部(旧・株式会社関東バス総合サービス)が市町村営バスや私立高校のスクールバス運行などを請け負い、また関連会社に観光事業者(旅行代理店)や自動車整備事業者などがある。路線延長約1,700㎞の乗合バス路線を保有し、バス保有台数は500台を超える。事業所は、営業所として宇都宮・駒生(こまにゅう)・簗瀬・鹿沼・石橋・県南・佐野・粟野・足利、出張所として佐野営業所下の栃木が所在する。このうち、粟野営業所は総合サービス部に属する。この他、車庫と呼称する格納施設が駒生営業所下の細谷・柳田・今里、簗瀬営業所下の今市・船生(ふにゅう)・下小林・山王団地、石橋営業所下の真岡・神鳥谷(ひととのや・県南営業所に併設)の各地に点在する。。関東自動車は、1923年(大正12年)に小平重吉、戸田正次、戸田保美および小松沢繁助の4氏により合資会社関東自動車商会として設立され、翌年8月に栃木-太平山間および栃木-壬生間の2路線で運行を開始、その後も栃木、鹿沼および粟野で新路線を開業していった。当時、県内各地には多数の同業者が乱立し熾烈な路線競合が起きていたため、関東自動車商会が沿線の有力者を取り込んでより強力な基盤を築くべく、1927年(昭和2年)に設立したのが現在の関東自動車株式会社である。この当時は路線基盤が栃木町にあり、本社も栃木町に置かれていた。県都・宇都宮での路線営業は、当社設立とともに買収した丸宇自動車が保有する路線の栃木-壬生線を路線延長した栃木-宇都宮線が第一号で、その後1931年に宇都宮の城山自動車を買収して宇都宮営業所を新設、宇都宮と日光や大谷、鹿沼、文挟を結ぶ路線を開設し、路線基盤を固めると同時に省線東北本線の宇都宮駅前に車庫を併設したバスステーションを開業させ、本社を栃木町から省線宇都宮駅前に移転した。この時点で栃木県内の多数の同業者を買収することによって構築された営業基盤は路線数30弱、車両数100両弱に達しており、栃木県下第一のバス事業者となっていた。第二次世界大戦下では国策による事業統合が開始され、当社は東武自動車との間で路線譲受を行ない、宇都宮市内路線は関東自動車一社による運行体制へと整理された。終戦後の1949年、関東自動車は本社を桜通りに建築、その後1955年に宇都宮駅前に宇都宮営業所が入居可能な本社社屋を新築移転し、跡地に桜通営業所を新設した(1958年)。また宇都宮市域の拡大に伴い、1959年には宇都宮営業所の市内線機能を分離し戸祭出張所と一ノ沢出張所を新設、1964年には営業所機能を持たせ戸祭営業所とした。一ノ沢出張所は1965年に駒生に移転し駒生出張所に改称されたあと、1974年に駒生営業所へと昇格し、同時に新設された江曽島営業所とともに市内線3営業所体制となった。1965年度時点での保有車両は500台余、利用者数は7000万人/年を数えた。この数字は、単純平均でも一日一台あたり利用者数が400人弱もあったことを意味している。その後は宇都宮市の都市化の進行とともに生まれた新需要に対応すべく、路線新設や均一地帯制導入などの運賃改定を行った。その他小山地区においても扶桑団地線や自治医大付属病院線などの路線新設を行うなどの一方、郡部においては不採算路線の廃止などが進み、次第に都市部への集中が目立つようになった。近年は帝京大学宇都宮キャンパス新設や宇都宮市郊外の住宅団地整備にともなう新路線開設および増便などが行なわれたほか、高速バスへの路線進出や宇都宮市郊外にある高等学校へのスクールバス運行、宇都宮市街地の100円ワンコインバス制の導入(その後廃止)などを展開し、1993年には北関東では初となるプリペイドカード式乗車券を導入している。2012年(平成24年)4月20日、経営共創基盤の完全子会社であるみちのりホールディングスが関東自動車の全株式をJ-COACHから取得したと発表。これにより、当社はみちのりホールディングスの100%グループ会社となった。現在、路線延長1,700kmの乗合バス路線を保有し、この数字は地方のバス事業者としては大手の部類に入る。それぞれの項目を参照されたい。当初は市内線(宇都宮市内線営業所の運行路線)にのみ系統番号が使用されていたが、その後1989年に郡部線(宇都宮を発着する郊外路線)全路線にも番号制を大幅拡大した。付番拡大に伴い戸祭営業所運行路線以外のJR宇都宮駅行を[01]、駒生営業所行を[10]に統一し、現在の番号形態となった。この番号制は往路と復路で番号が異なることを意味する(例:行きは「31:江曽島」、帰りは「01:JR宇都宮駅」)。また、[01]と[10]は系統や経路が異なっていても同じ番号が使用されている。なお、旧戸祭営業所が運行していた3系統([50]宇都宮駅=清住=細谷車庫、[53]宇都宮駅=和尚塚=細谷車庫、[54]宇都宮駅=西塙田=戸祭=宝木団地)および「みやバス」の[38]雀宮駅=さつき団地=西川田駅線は、往復とも同じ番号が用いられている。※印は、2010年4月現在使用されていない番号。▲印は使用されていない経由地・行き先。かつて、宇都宮市内を運行する関東バスの路線は、市内中心部を主に運行する「市内線」(当時の駒生、江曽島、戸祭の各営業所管轄・西は砥上団地 - 駒生営業所、北は戸祭営業所 - 農業試験場 - 富士見ヶ丘団地、東は竹林 - 松下電器 - 滝団地(後に柳田車庫まで) - 旭町、南は不動前 - 江曽島緑町 - 鶴田駅の域内路線。)と、市内郊外地区〜市外へ運行する「郡部線」(当時の宇都宮(現在の簗瀬営業所)、桜通両営業所と鹿沼など市外からの乗り入れ営業所管轄)という区分が存在し、宇都宮市内大通りなどで停車する停留所が異なっていた。このうち、1970年代に市内線に路線毎の系統番号を導入したのが最初である。(以下列記、括弧内は当時の担当営業所)。1989年、現在の駒生営業所開設(市内線管轄の旧駒生・郡部線管轄の桜通両営業所を統合・移転)の際に、路線再編や宇都宮市内大通り停留所の統一化を行い、市内・郡部両線の明確な区分がなくなったことから、JR宇都宮駅を起終点または経由する全路線と、駒生営業所を起終点とする全路線(ともに郊外〜市外域のみ運行の区間便も含む)に適用、後に雀宮駅=西川田駅東口間など、前述以外を起終点とした系統が開設された際にも付番されたことから市内全路線に拡大し、現在に至る。市内線のみに付番していた時は、往復とも同じ番号を使用していたため、側面・後部面の各表示機にも番号を掲示していた(側面表示機例:50 JR宇都宮駅=県庁前=清住=国立病院=戸祭、後部表示機例:50 JR宇都宮駅=清住=戸祭)が、付番拡大の際に、前述の通り往復で異番号となったことから、往復とも同番号を使用する系統を含め、側面・後部への番号掲示は廃止された。日野自動車・いすゞ自動車・日産ディーゼル/UDトラックスの地域販売会社の株式を保有している関係で、この3社が大半を占めている。三菱ふそうトラック・バスの比率は僅かだったが、1998年にエアロスターのノーステップバス、1999年にとちの木号のエアロキングを導入してからは、三菱車の比率が上がっている(以前には、ふそう+富士重工製の一般路線車が当時の鶴田に新車配置された経緯がある)。いすゞ車が多いのは、宇都宮市・旧河内町地区にジェイ・バス宇都宮事業所(旧アイ・ケイ・コーチ - いすゞバス製造)が、栃木市大平町にいすゞ栃木工場があることも影響している。また営業地域に富士重工業宇都宮製作所がある関係で、富士重工製ボディも多く採用されていた。なお富士重工がバスボディ製造から撤退して以降、日産ディーゼル(UDトラックス)製の新車投入は暫く行われていなかったが、2009年に再開されたものの、同社でのバス製造・販売が中止されたため、2010年に導入されたものが最後となった。
出典:wikipedia
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