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B&B (お笑いコンビ)

B&B(ビー アンド ビー)は、日本の漫才コンビ。広島県広島市出身の島田洋七(しまだ ようしち、1950年2月10日 - )が、相方を4度変えたコンビ名である。本稿は特に岡山県笠岡市出身の島田洋八(しまだ ようはち、1950年2月13日 - )と組んだ三代目B&Bについて詳述している。このコンビの東京進出が漫才ブームを誘発・点火させた。コンビ名「B&B」は、洋七が昔アルバイトしていた大阪宗右衛門町のディスコの店名を勝手に拝借したもので、特に意味はない。"個々での活動は島田洋七、島田洋八を参照"。島田紳助は「漫才ブームで新しいことをやったのは、B&Bとツービート、紳助・竜介だけ。ほかは前からあったもの」「漫才ブームは、B&Bとツービートと紳助・竜介が作ったんです。時代を作った3組、ルーツは一緒なんです。漫才ブームが興ったときに、今までの漫才と違う形の漫才が始まるんです。それまでの漫才はネタフリがあって、一個のネタでちゃんと起こしていくんです。この3組に共通してるのは、全く違うシステムなんです。それまでの漫才の形と全く違うシステム、ツッコミボケという新しい分野であり、1人が完璧にネタの九割喋るんです。で、誰がこれを編み出したかというと、最初は松竹芸能のケンケン・てるてるという方が、それをちょっとやったんです。それを見た島田洋七がパクったんです。これが自分に合うと思ったんです。その洋七さんを見てたけしさんも"これや!"ってパクったんです。そして高校三年生の僕が洋七さんを見て『今までの漫才なんか全然おもろない。これからはこれや!』ってこの世界に入ったんです。僕もツービートも全然売れてない時、東京の漫才コンクールでたけしさんに会ったんですが、たけしさんの言葉未だに忘れられません。『B&Bに似てるね』って。そんとき『はい』って言いながら心の中で、おまえらもやないかい、と叫びました」と話している。ビートたけしは「漫才だけは洋七に勝てなかった」「漫才ブームは洋七が作った」などと話している。1993年7月2日にテレビ朝日系で放送された、漫才ブームを振りかえる『驚きももの木20世紀』「漫才ブームの真実」という番組では、洋七とぼんちおさむの眼を通しての漫才ブーム、という構成が取られていたが、この中で洋七は「漫才ブームは去ったけど、その中にビートたけしや島田紳助みたいな、とてつもない天才がいた、発見できたことが嬉しい。それは誇りですよ。漫才ブームが無ければ二人は無かったわけだから」と話した。浅草キッドは、「漫才師」という一見愚にもつかない職業を、あの80年代初頭の空前の“漫才ブーム”の到来とともに、キラ星の如くスターが輝く芸能界のなかで眩しいほどの光明を誇る一等星に押し上げたのは、紛れもなくビートたけしと島田洋七であると話し、「俺たちがこの世界に飛び込んだのも二人に魅入られて決めたようなもの」と述べている。「お笑い」関係の多くの著書があり、漫才ブームにも係わった井上宏は、「B&Bが東京で大活躍しなければ、漫才ブームも起きなかったかもしれない」と述べている。また「笑点」のチーフ作家・遠藤佳三も「B&Bの東京進出がなかったら、若手漫才ブームは、もっと小さなもので終わっていただろうと思う。B&Bは東京人に上方漫才の面白さを改めて吹き込み、関西弁に違和感をおぼえる人々にも、こと漫才だけは抵抗なく受け入れてもらえる素地を作ったのである。その素地がなければ、大阪のニューウェーブ漫才は、そう簡単に東京に進出できなかったはずだ」と論じている。関西弁(近畿方言)の全国普及は漫才ブーム以降の関西お笑いタレントの東京進出の活発化によってより広まったものだが、その嚆矢は非関西人のB&Bである。B&Bの漫才は、老若男女誰にもわかりやすく親しみやすかった。また非常に陽気で愛敬があり言葉の毒を中和して、若い視聴者を関西弁の笑いに馴染ませ素地作りに貢献したのである。B&Bは、大阪の笑いをテレビを通じて全国区にし、後進への道筋をつけたといえる。洋七自身、「漫才ブームの遺産と言えば、関西弁が全国に認知されたことでしょう」と話している。それまでの息と間を大切にするしゃべくり漫才ではなく、コンビの2人が掛け合いをしないで、ボケが一方的にしゃべり、そのスピードとリズムで笑いを増幅させ、爆笑の渦を巻き起こすB&Bの漫才は、新しいスタイルだった。それまでの"8ビート"から"16ビート"に上げたといわれるB&Bの"マシンガン漫才"は、同時代の漫才師に大きな影響を与えた。漫才ブームの特徴であるテンポの速い漫才はB&Bが与えた影響といわれる。澤田隆治はB&Bについて「うまいも何もないですよ。とにかくギャー!と攻めて行くという、だからボクシングでいえば、カー!と打ち合ってる感じ。そういうのは無かったですよ。だから、これは漫才を変えれたなと思う」と述べている。澤田は「B&Bの人気爆発によって、自身が温めてきた若手、紳助・竜介、オール阪神・巨人、のりお・よしお、ゆーとぴあなどを登場させた」と述べている。紳助は、「洋七はケンケン・てるてるをパクった」と話したが、洋七自身は著書で「逆説的に聞こえるかもしれないが、人から『似てまんな』と言われない為に、そして自分たちの芸で客を笑わす為に、芸人諸兄、諸先輩方の芸を徹底的に見て、徹底的に盗んだ。それらの良さを貪欲にパクり、自分たちの中で消化吸収して、B&Bと言う新しい果実を実らせたと言っても過言でない。4コマ漫画のように漫才が絵としてイメージ出来る。テンポが速く、喋りは明快でキレがある。視線を吸い寄せる派手なアクションがあり、オチもドッカーンと決まる。だから、B&Bは当たった」と解説している。2013年3月24日に放送された『漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ』(朝日放送)で、"マシンガン漫才"のルーツは何かとの質問に対して洋七は「B&Bの最初の相方が松竹芸能に面白い漫才師がいるから見に行こう、勉強になるからと誘われて見たのが、ケンケン・てるてるで、こういう漫才もあるんだと驚いた。ネタフリが少なくて(テンポ)が速い。じゃあ俺らもこんなパターンをやろうと。要するにいとし・こいしさんみたいな漫才をやると年数かかる、上手すぎて。年数もかかるし出来んかも分からん。オチさえしっかりいとけばネタフリは簡単なのでいいやと。それはヒントですよね」と答えた。またスタイルの構築に関しては「俺だけがずーと頭にネタ入れて、洋八は何でやねんって言えみたいな。ウチは作りは無茶苦茶。だからテンポ上げるんですよ。お客さん気づかへんやろみたいな。だってやすきよさんとか、仁鶴師匠とかいとし・こいしさんとか上手いじゃないですか。あんな芸ないですもん。だから取りあえず速く喋っとけみたいな。叩くは押すは、誤魔化しみたいな漫才やった」と話している。喋りのスピードを上げたのは、横山やすしに「お前の声は聞きやすい。速く喋っても耳に届く。テンポを上げた方がお客は笑うで」とアドバイスを受けたのが切っ掛け、「横山やすしさんから直接教わったのは自分くらいでないか」と『メントレG』出演時に話した。稽古で洋八があまりにもヘタでイライラしていると、横で聞いていたやすしが「洋七、怒るな。あいつがしゃべれんのやったら、お前がネタ振って自分でボケろ。両方やれ」と的確なアドバイスを頂いて、それで新しいスタイルが生まれた、B&Bのスタイルを確立してくれたのはやすし師匠だと思うと話している。それに頭の回転が速かった佐賀のばあちゃんからの影響もあったと思うという。上岡龍太郎は「B&Bの相方をいじめるパターンのネタの元祖は、姿三平・浅草四郎」と述べている。吉本興業前社長・吉野伊佐男は「衣装革命を起こしたのは中田カウス・ボタンで、その衣装革命を受けて出たのがB&B」と述べている。ザ・ぼんち・里見まさとは、「B&Bのネタはテンポが速く、いくつものネタを洋七のその場の判断?思いつき?で次から次へと進めていく。どのネタ部分で終わるのかわからない」「ザ・ぼんちは、比較的オーソドックスな漫才だったので、花月などで続けて出演した場合、出番がB&Bの直後になろうものならあのスピードに吹き飛ばされた。B&Bのネタはスゴかった。そしていま42年間を振り返ってみても、ぼくは絶えずB&Bを追いかけていたように思う。当時も意識して、なりふりかまわず、スピードがあって動きのあるネタをつくらなあかんと、ぼくは考えた。B&Bに吹き飛ばされないネタをつくるんだと、そのことだけを考えた漫才をやった」などと話している。洋七は人気が爆発した1980年8月の雑誌インタビューで、自分たちの漫才スタイルについて「テクニックなんもいらへん。けなし合いだけや。間もなんもなしで、ただしゃべくりやっとったらそいでいいねん。ネタはま、作りますけど、大まかにテーマ決めとくだけやね。あとは舞台上がってからや。舞台上がったら洋八の方が合わす。もう、ムチャクチャ急に言いよるから『ええかげんにせエ』っていうでしょ、そうすると『ええかげんにしますウ』とか返事しよるし、『ちょっと待てエ』言えば『待ってるがな』とじっとしてる。『あっち行け』なんていうと舞台降りちゃったりね。ラジオ番組には出れないですよ。お客さんいないと、とてもできないですもん、うちら。漫才というもんからいけば邪道やね、まあ。そやけど漫才もせいぜい秋口でっせ。漫才ブームなんて、すぐ終わりますワ。要はブームに乗っかるよりいかにして残るか、これだ。常に日本で五本の指に入るとこにいたいでんな。そうすりゃ、タレントとして生きられまんがな。あきられないようにするには、ネタ売らんで人間性を売ることやね。漫才やって初めてオモロイっちゅうんじゃなくて、普段見ただけで『オモロイやっちゃ』と言われる人間でいようっていうことですワ」などと述べている。前述の『漫才歴史ミステリー 笑いのジョブズ』(朝日放送)は、漫才を一夜に変えた人物、革命を起こした人物=「笑いのジョブズ(スティーブ・ジョブズ)」の正体に迫る歴史ミステリーという内容であったが、漫才ブームが興ったあの夜、1980年4月1日「THE MANZAI」の舞台に現れた7組の漫才師、ツービート、B&B、ザ・ぼんち、横山やすし・西川きよし、島田紳助・松本竜介、星セント・ルイス、中田カウス・ボタンに加えて、やすきよが漫才を再開する切っ掛けを与えたWヤング、そして洋七に漫才スタイルにヒントを与えた国分健二を1980年代の漫才ブームに於ける「笑いのジョブズ」に認定した。ネタは全て洋七の自作。ほとんど洋七が喋るためネタ合わせもしない。ネタ合わせをしたのは後述する消防士ネタ"だけという。こうしたB&Bら若手の漫才を古川嘉一郎は当時、「自作自演、台本なし。仲間うちのシャレをそのまま出してきた。わたしら、感性の漫才てなこというとるんですが」と嘆いた。漫才ブーム以降の漫才師はネタは自作が多く、澤田隆治は「作家はいらん」と言ったという。漫才ブーム以降は芸は不要、キャラクターが売れる時代になったという見方がある。洋七の話はウソやホラが多いといわれる。1981年8月にツービートのコンサートと『ビートたけしのオールナイトニッポン』の生放送が広島であり、これに洋七も同行。空いた時間にたけしに広島を案内したが、「タケちゃん、ほんまアメリカは無茶しよるで、なんで平和公園に原爆落とすんや!!」「落とされた時、ほんま見たんや!」「原爆ドームは昔あそこで鳥を飼ってたんやで」などと話がメチャクチャだったとたけしは述べている。一方的な洋七のしゃべりは、時にはブレーキが利かなくなり、現実とシャレの境目がわからなくなる。自分の経歴ですらその場の空気によっては、マジとシャレを入り混ぜて話してしまい、それが独り歩きしてしまっていると考えられる。ノリとスピードに虚と実が交錯する、いい加減さとノリのよさこそが、B&Bの最大の面白さだったといえる。※ 「人生オモロイで」のみコロムビア、他は全てCBSソニーよりリリース

出典:wikipedia

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