ヴァレリー・アビサロヴィチ・ゲルギエフ( (), 1953年5月2日 - )は、ロシアの指揮者。オセット人。ワレリー・ゲルギエフとも表記される。1953年、モスクワでオセット人の両親の家庭に生まれる。その後、北オセチア共和国の首都オルジョニキゼ(現在のウラジカフカス)に移り、オルジョニキゼ音楽学校を卒業後、レニングラード音楽院(現サンクトペテルブルク音楽院)でイリヤ・ムーシンに師事し、指揮法を学ぶ。同院在学中に2位、全ソ指揮者コンクール1位の栄誉に輝く。1977年レニングラード音楽院を卒業し、テミルカーノフの助手としてキーロフ劇場(現マリインスキー劇場)の指揮者となる。1988年キーロフ劇場芸術監督に就任する。35歳の若さで、しかもソ連崩壊の混乱期に遭遇し、ゲルギエフの劇場経営は困難を極めたが、国際的な支援を得て、ロシアの古典オペラに新たな演出法を導入した。また、多くの新人歌手(アンナ・ネトレプコなど)を発掘することにも成功し、マリインスキー劇場を世界的な地位へと引き上げた。1996年には総裁に就任し、劇場の総責任者としての重責を担っている。1990年にはロンドン公演、1992年にはニューヨーク公演を実現し、国際的な指揮者としても活躍を続けている。日本には、マリインスキー劇場及びマリインスキー劇場管弦楽団、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団等を率いてしばしば来演している。また日本のオーケストラでは東京交響楽団(1984年、2007年、2012年)、日本フィルハーモニー交響楽団(1987年、1988年、1996年)、大阪フィルハーモニー交響楽団(1987年)、京都市交響楽団(1988年)、名古屋フィルハーモニー交響楽団(1988年)、NHK交響楽団(1996年、2002年、2009年)、読売日本交響楽団(2003年)、東京都交響楽団(2004年)、PMFオーケストラ(2004年、2006年、2015年 - )を指揮している。2007年よりロンドン交響楽団の首席指揮者に就任。就任時より公演活動においてはプロコフィエフの楽曲に力を入れる一方、LSO LIVEレーベルではマーラーの交響曲第6番を皮切りに、マーラーの交響曲全集の録音を行った。2011年にはプロコフィエフ「ロミオとジュリエット」の録音でBBC Music Magazine AwardsのDisc of the year賞を獲得した。2011年のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるシェーンブルン宮殿でのサマーコンサートを指揮した。2014年2月23日に開催されたソチオリンピックの閉会式では、ロシア国歌の演奏で1000人の少年合唱団を指揮した(オーケストラの指揮はユーリー・バシュメット)。コンサート等を通じて国際平和を訴えたり、発言を行なう機会も多い。2004年9月、幼少から青年時に過ごした北オセチアの小学校で起こったテロ事件直後の演奏会では、チャイコフスキーの『悲愴』を涙を流しながら指揮したという。同年11月にウィーン・フィルを率いて来日した際には、サントリーホールにて「北オセチアに捧げる心の支援」と題してチャリティーコンサートを行なったが、公演直前に新潟県中越地震が発生したため、収益の半分はこの地震の被災地に寄付された。2008年8月にグルジアが自身の出身地である南オセチアに軍事侵攻した際には、英BBCのインタビューに対して、グルジアのサアカシュヴィリ大統領を非難する一方でロシアのプーチン元大統領やメドヴェージェフ大統領を支持する発言を行ない、南オセチアで起こっている事実について自ら世界の要人に向けてアピールを行なっていると答えた。この軍事侵攻の直後、南オセチアの州都ツヒンヴァリをマリインスキー劇場管弦楽団を率いて訪れ、南オセチア紛争の犠牲者を追悼するコンサートを指揮した。この時にもチャイコフスキーの『悲愴』を演奏している。また、ゲオルク・ショルティが「音楽が持つ、平和の使節としての特別な力」を体現化するべく国連創設50周年を記念して設立したワールド・オーケストラ・フォア・ピースの指揮者に、ショルティの遺志を引き継いで1997年から就任している。エサ=ペッカ・サロネンによる管弦楽曲「ヘリックス」は、ゲルギエフが友人であるサロネンに、同オーケストラのために作曲することを提案した委嘱作品である。
出典:wikipedia
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