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赤松広隆

赤松 広隆(あかまつ ひろたか、1948年5月3日 - )は、日本の政治家。民進党所属の衆議院議員(9期)。日本社会党書記長、民主党国会対策委員長・副代表・選挙対策委員長・最高顧問、民進党両院議員総会長、農林水産大臣(第50代)、衆議院副議長(第65代)を歴任。父は日本社会党国会対策委員長や副委員長を務めた元衆議院議員の赤松勇。愛知県名古屋市生まれ。東海中学校、早稲田大学高等学院、早稲田大学政治経済学部卒業。18歳で、父・赤松勇も所属していた日本社会党に入党した。高校・大学での同級生に松村久義がいる。早大卒業後、日本通運に就職した。1979年、愛知県議会議員選挙に出馬し、初当選を果たした。以後3期務める。1990年、3期目の任期途中に県議を辞職。同年の第39回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧愛知6区から出馬し、当選した。総選挙後の1991年、田邊誠日本社会党委員長の下で党労働局長に就任。1993年1月、自由民主党の金丸信元副総裁が失脚し、国会対策委員長時代から金丸ら自民党国対に太いパイプを築いていた田邊委員長が、自社両党間の不適切な癒着関係を疑われ辞任に追い込まれる。代わって就任した山花貞夫委員長の下で、社会党書記長及び社会党シャドーキャビネット内閣官房長官に起用された。書記長時代は党の基本政策の見直しに意欲を見せ、1993年2月、社会党の旧来の主張を翻してコメ関税化肯定、原子力発電所容認を表明した。同年7月の第40回衆議院議員総選挙では旧愛知6区で再選されたが、社会党は日本新党(細川護煕代表)、新党さきがけ(武村正義代表)、新生党(羽田孜党首)が巻き起こした新党ブームの煽りを受け、惨敗を喫する。同年8月、社会党を含む8党派による細川内閣が発足し、社会党委員長の山花も国務大臣(政治改革担当)に就任し入閣したが、それに伴い委員長を辞任したため、赤松も書記長を退任する。後任はそれぞれ村山富市、久保亘が就任した。同年12月、社会党内の右派・中間派約40人で結成された政策集団「デモクラッツ」に参加し、事務局長を務める。1994年、羽田内閣発足直後に社会党は連立を離脱。村山富市委員長や国会対策委員長の野坂浩賢らが水面下で自民党の亀井静香らに接触し、自民・社会・さきがけ3党による新しい枠組みでの連立政権の樹立を志向したのに対し、赤松らは羽田内閣への復帰を主張し、自民党を含めた連立政権の樹立に抵抗した。ただし、その後3党合意がなされ、村山富市が擁立された1994年6月の首班指名選挙では、赤松は村山に投票した(1996年1月の、村山首相辞任に伴う首班指名選挙では橋本龍太郎自由民主党総裁に投票せず、白票を投じた)。1996年1月、社会民主党結党に伴い党愛知県連代表に就任するが、9月に社民党を離党。新党さきがけを離党した鳩山由紀夫や菅直人、新進党を離党した鳩山邦夫、元北海道知事の横路孝弘らを中心に結党した旧民主党に参加した。同年10月の第41回衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い愛知5区から出馬し、自民党の木村隆秀、新進党の伴野豊らを破り、3選(木村が比例復活)。1998年、民政党・新党友愛・民主改革連合の合流により民主党が結党された。2000年9月、鳩山由紀夫民主党代表の下で党国会対策委員長に就任。森喜朗首相に対し、2度にわたり森内閣不信任決議案を提出したが、いずれも否決された。2002年9月、民主党代表選挙では同じ旧社会党出身の横路孝弘副代表を支援したが、横路は鳩山代表に敗れる。役員人事により選挙対策委員長に就任するが、鳩山は幹事長人事でつまずき、さらに民由合併の推進による混乱の責任を取り、わずか3ヶ月で辞任。続く菅直人代表の下でも選挙対策委員長に留任した。2003年の第43回衆議院議員総選挙では愛知5区で4選。なおこの選挙では、同年3月に衆議院議員を辞職して北海道知事選挙に出馬し、高橋はるみ知事に敗れ落選中だった同期当選の鉢呂吉雄に対し、それまでの8区ではなく4区に国替えして出馬するよう説得。鉢呂は赤松の説得に応じ、北海道4区から出馬して当選した。2004年5月、菅代表の辞任に伴い選挙対策委員長を離任。2005年の第44回衆議院議員総選挙では、愛知5区で自民党の木村隆秀に初めて敗北を喫したが、重複立候補していた比例東海ブロックで復活し、5選。総選挙後、辞任した岡田克也に代わり民主党代表に選出された前原誠司の下で、党副代表に就任した。2006年、小沢一郎代表の下でも副代表に留任。2007年8月には再び党選挙対策委員長に就任した。2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、愛知5区で自民党新人の寺西睦を約7万票の大差で破り、7選。翌9月に成立した鳩山由紀夫内閣で農林水産大臣に就任し、初入閣。2009年12月8日の閣議後の記者会見で、農家に対する農業者戸別所得補償制度について「今までの仕組みと180度違うということが地方では理解されていない」として、佐竹敬久秋田県知事や自民党所属の秋田県議会議員を名指しで批判したうえで、農水省の減反政策に協力せずに米を生産している農家が多い秋田県南秋田郡大潟村については「秋田県などが2010年産米の生産割り当てで大潟村にペナルティーを科した場合、秋田県全体を戸別所得補償制度の対象から外す」と発言し、物議を醸した。秋田県や佐竹知事、自民党県議はペナルティーについて「事実無根である」として、発言撤回を求め反発したほか、県議会においても自民会派が上記発言の取り消しを求め意見書を提出し賛成多数で可決。秋田県内の農家や農協幹部からも批判の声が上がった。また野党だけでなく、民主党内にも大きな波紋を広げる形となり、山田正彦副大臣が「秋田県の除外はあり得ない」と発言したり、民主党秋田県連の松浦大悟代表が「農相発言は誤解に基づいたもので、県が制度から外れることはない」と釈明したものの、当の赤松本人は同年12月11日の記者会見で、撤回の意思が全く無いことを強調。結局佐竹知事ら秋田県側は「県の大きな不利益を避けるための苦渋の決断。地域事情を踏まえて制度設計されてきたこれまでと違い、国とのやりとりが難しくなった」、「不本意な決断だが、これが政治主導の結果だ」と折れる形となり、2010年度からのペナルティー全廃が決定した。2010年4月20日、宮崎県の農場の飼養牛に口蹄疫の疑似患畜が確認されたため、農林水産省は赤松農林水産大臣を本部長とする口蹄疫防疫対策本部を設置。翌21日、赤松は規格外の野菜販売促進の為、東京都内、ジャスコ品川シーサイド店野菜売り場を視察。。23日には畜産農家の経営的打撃や子豚の滞留等の問題に関して、畜産農家への融資拡大や助成金などを柱とする対策を発表。27日、政府支援を求めて上京してきた東国原英夫宮崎県知事、中村幸一宮崎県議会議長、JA宮崎経済連羽田正治会長らと会談、「対応は早ければ早いほどいい」と早急な対応を行うことを約束した が、赤松は中南米への外遊を重視し、口蹄疫問題への対応は農林水産省に任せ、赤松自身は対応を放棄した。4月28日、農林水産省は第二回の口蹄疫防疫対策本部を開催し、隣接県全域での全額国庫負担による消毒薬散布、発生農場における迅速な殺処分等の防疫措置を支援する獣医師などの増員等を決定。同月30日、経営支援の追加施策を発表した が、大臣不在の間に事態は深刻化していき、5月7日の閣議で平野博文官房長官が自衛隊の災害派遣の増員を検討したり、東国原らが次期参院選の候補者支援のため宮崎県を訪れた小沢一郎民主党幹事長と対策の拡充を求める会談を行うなど、独自の対応を模索することとなった。4月30日、南米諸国への外遊に出発した赤松は、5月1日、メキシコでマジョルガ農牧大臣()と肉類などメキシコ産品の日本市場へのさらなるアクセス拡大などを意見交換。5月2日から4日までの間、キューバでラウル・カストロ議長らと会談(日本の現職閣僚として初のキューバ訪問)。5日はコロンビアを訪問してウリベ大統領と意見交換を行った。5月8日、日本に帰国した赤松は富岡芳忠議員の後援会発足式に出席するため栃木県佐野市に移動した が、5月10日に予定していた秋田への出張を延期して、宮崎県を訪問することを同日に決定した。5月10日、口蹄疫の防疫対応等を把握するため宮崎県入りし東国原と会談。会談の際、同席した宮崎3区選出の自民党衆院議員古川禎久から「何をしに来たんですか」などと対応の遅さを非難されると、赤松は「自民党の同席は構わないが、「おれの意見も聴いてくれ」とやり出すと、与党も野党も(発言し合うこと)となる」「選挙目当ての発言」と発言したり、同席した自民党議員を「参院選前だからいろいろ言いたいことはあるのだろう」と評した。同月25日、宮崎県がエース級の牛49頭に関して殺処分した場合多大な影響を与える恐れがあるとして特例で殺処分しないように求めていたことに対して「これはもう法律に従ってやるのが当然、まだ49頭残っていることの方がむしろおかしい と県の対応を批判。49頭の1頭に感染疑いが出たことについて、笑顔で「だから早く殺せって言ってるのに」と応じている場面がテレビで報道され、宮崎県の農家からの反発を受けた。同月30日、宮崎県を訪問した赤松は東国原知事と会談し、「来週中に終わるように、1日に1万頭殺処分を目標にしてください」と要求したが、東国原知事は「天候や人員、埋却地の確保など条件があり、簡単にいかない」として困難な見通しを示した。また、現地の農家は現場の理解しない赤松に対して絶望感を深めた。結果的に、2010年7月4日の口蹄疫終息確認までに、28万8643頭が殺処分された。宮崎県の試算によれば畜産関連の経済的損失は、5 年間で 2350 億円となり、地域経済全体に甚大な影響が及ぶものとしている。この問題について赤松は「反省するところは全くない」と自身の責任を認めていなかったが、5月31日の衆院農林水産委員会で、口蹄疫問題への対応の遅さを追及され、「結果としてこれだけ広がったことに対しては、申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と公式に謝罪を行った。また、一連の対応の遅さや悪さを「赤松口蹄疫」と揶揄されている。2009年12月、民主党が同年の総選挙でマニフェストに掲げていたガソリン税の暫定税率廃止が、小沢一郎の要望で維持する方向で検討され始めたことについて「簡単に今度、現在の税率維持と言われちゃうと、『じゃあ、俺たちの崇高な理念や今までの取り組みは何だったんだ』みたいな思いが、正直言ってないわけではない」と述べた。翌2010年6月、鳩山由紀夫首相が辞任。続く菅内閣では再任されず、農林水産大臣を退任した(後任は山田正彦)。2012年9月、民主党代表選に立候補した。党代表選へは初の挑戦となる。党分裂を引き起こした野田佳彦首相を厳しく批判し、「民主党の再出発」を掲げている。同年12月、第46回衆議院議員総選挙に出馬。愛知5区では自民党の神田憲次に敗れ落選するも、比例東海ブロックで復活し8選。第182回国会にて衆議院副議長に就任。2014年11月21日、衆議院解散により副議長を退任。同年12月、第47回衆議院議員総選挙では愛知5区で当選し9選(神田も比例復活)。

出典:wikipedia

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