桐蔭学園中学校・高等学校(とういんがくえんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、神奈川県横浜市青葉区鉄(くろがね)町に所在する私立中学校・高等学校。運営は学校法人桐蔭学園。1964年(昭和39年)、公教育ではできない私立ならではの教育を目指して設立された。1971年(昭和46年)には、高校野球において夏の甲子園で初出場・初優勝の快挙を成し遂げ全国に名を広め、また運動とは別に進学では1992年(平成4年)をピークに東大合格者は114人に達した。しかし当時も1学年が1600人以上の超マンモス校であり、その後の進学実績は凋落の一途をたどり、2016年の東大合格者は3人であった。なお現在でも運動部は全国的な活躍をしている。1学年が1000人を超す超マンモス校であるため、上位成績者と下位成績者の成績差が大きいこともあり、「能力別クラス編成(能力・学力別クラス)」を採用している。年4回、「能力別クラス」の下位成績者を、下のクラスの上位成績者と入れ換える。これにより、各生徒の能力・学力に合わせたクラス編成をしている。高校の1学年の入学定員は、中等教育学校を除き、幼稚園からの内部進学者をあわせて1300人以上となるが、2016年の桐蔭学園高校の卒業生数は945人と発表されており、退学者を含め350人以上が欠員となっている。中学高校は高校2年までは男子部と女子部に分かれており、高校3年では男子部と女子部が合同で志望コース別授業を受講するといった「男女併学」を採用している。高校男子部は理数科と普通科に分かれている。2001年(平成13年)4月、難関大の受験に特化するため、学校教育法の1998年の改定(「中等教育学校」の設置)を利用、男子4クラス約180人を中高一貫校の「桐蔭学園中等教育学校」として分離・設置し見かけ上の卒業生数を減らした。しかし同じ校舎内に存在し、中等6年時には高等学校・女子部との合同の授業も行われ、また校舎の設備・グランドなども共用、制服も同一、同一法人が経営しており事実上の同一校である。つまり一般的には従来校と混同されることが多いが法律上は別学校の扱いになる。校則は厳格。生徒の自主性は校則に依存する。1971年(昭和46年)、硬式野球部が甲子園に初出場、初優勝という快挙を成し遂げ、創立間もないが一躍全国に知られることとなった。そして創立以来運動部とは別に進学指導にも力を入れ、文武両道のイメージを広めていった。進学実績は上昇し、90年代には東大100人前後、早大、慶大にそれぞれ400人以上の実績を上げた。そのため、かつては神奈川御三家にも数えられていたが、当時の1学年の卒業生数も1600人以上の超マンモス校であった。しかし2000年代以降、進学実績は凋落の一途を辿り、東大合格者であるが、2011、2012、2013年はそれぞれ、11、6、5人で、2014、2015、2016年は、5、9、3人であった。なお、2001年に分離した桐蔭学園中等教育学校の東大合格者は、2011、2012、2013年はそれぞれ、13、9、13人で、2014、2015、2016年は、12、7、5人であり、両校の東大合格者を合計すると、2011、2012、2013年はそれぞれ、24、15、18人であり、2014、2015、2016年は、17、16、8人となる。なお2001年に桐蔭学園中等教育学校を設立・分離することにより、以前より見かけ上の卒業者数を減らし、2012年の卒業生は1049人であり、2013年の桐蔭学園高校自体の卒業生は1118人で、中等教育学校の卒業生171人と合計すると1289人であった。運動部の実績では、硬式野球部をはじめ、サッカー部、ラグビー部、柔道部、剣道部、テニス部などが全国優勝するほか、現在でも各分野で全国レベルの成績を有する。桐蔭学園の校章は、「五三の桐」である。桐には瑞鳥・鳳凰が宿るとされ、鳳凰が千里万里を天翔る前に、その力を養うのが桐樹の蔭である。これは、歴代理事長の母校である、旧制東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)に因んだ校章となっている。学園内のそれぞれの学校の校歌は学園歌と呼称し1970年に制定された。男子の鵬翔祭と女子の鸞鳳祭は同時期に行われている。このようにスポーツ推薦枠の生徒の活躍が目覚ましい。※名前の後ろに球団名明記の選手は現役
出典:wikipedia
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