高顕寺(こうけんじ)は、岡山県備前市吉永町八塔寺ふるさと村にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は恵日山(えにちさん)。本尊は定朝作と伝えられる不動明王(秘仏)前立の本尊は愛染明王像。古代より山岳宗教の聖地として崇められた当地は、古代の製鉄技術者集団が活躍した歴史を持ち、かつては「八頭霊(はっとうち)」と呼ばれたが、やがて八塔寺(はっとうじ)に転化し、八塔寺山(堂山、行者山とも称す)、八塔寺村となった。当山は、奈良時代、神亀5年(728年)聖武天皇の勅願により、鑑真和上(688~763年)或は道鏡法印(700~772年)によって開基された。(寺伝より)本尊として行基菩薩作の十一面観世音菩薩の霊像を祀る。平安仏教のよき理解者であった和気清麻呂公一族の庇護を受けて栄え、多くの高野聖が集り「西の高野山」と称された。また、近隣には多くの薬草が地生し、八塔寺の僧侶が作る薬草は有名であった。後年、生活に困窮した八塔寺の僧侶たちが、この薬草を売り歩いて生計を立てたこともあるという。現在も近隣には約100種類の薬草が自生している。幾多の変遷の後、元暦元年(1184年)右大将源頼朝公により、鎌倉幕府の祈祷所として塔堂・僧舎が再建され、十三重の塔や七十二の寺院が建ち並び、盛隆を極めた。南北朝時代に戦乱により本堂・伽藍等が焼失したが、江戸時代に入り、池田藩により再興された。寛政年間にまたも灰土に化したが、幸いにも本尊の十一面観世音菩薩の霊像は在し続けられた。文化13年(1816年)国司の提唱により、当山中興の祖、妙道上人により再創され、天保3年(1832年)、真言宗と天台宗は別山精舎を経営するに至り、定朝作十一面観世音菩薩の霊像を祀る 天台宗「照鏡山八塔寺」と、当山、定朝作の不動明王の霊像を祀る 真言宗「恵日山高顕寺」とに改号し、現在に至る中世には、多くの出家修行者が集り西の高野山と称された。十三重塔、三重の塔、8院、64僧房計72の院坊があったという。(明王院・宝寿院・三宝院・弘法院・常照院・寂院・徳院・善院)(浄徳房・法潤房・賢房・大善房・万代房・妙賢房・了得房・東南房など)。八塔寺の僧侶が作る薬草は有名であった。JR山陽本線吉永駅から八塔寺川に添って上がると備前、播磨、美作の三ヶ国にまたがる海抜539メートルの八塔寺に至ります。今では過疎化の進む山里ですが、元来は聖武天皇の御代に僧道鏡の開基と伝えられる古刹で、住時は山岳仏教の中心地として名を成した土地です。 盛時には八院六四僧坊や十三重塔など仏塔が建てられたとされる聖地でありました。ところが永世14年1517年、光石城主浦上掃部介宗の兵火にかかり堂塔伽藍はほどんど焼失してしまいます。さらに天正19年1591年には寺領が召し上げられるなど、寺は荒廃することになった。寛文3年1663年池田綱政が、本堂・三重塔・鐘樓・山王社・本社拝殿等がととのえられる。「八塔寺」という寺号は、江戸期以降は1つの寺院の名称になっている。しかし、「八塔寺」の名が「ふるさと村」の名称に使われていることからもわかるように、本来は、吉永町、加賀美の小字名と同義である。本項では寺院の「八塔寺」を中心に、備前市吉永町加賀美八塔寺全体の歴史、信仰、文化財について触れる。 この頃宝寿院を真言院ともいった。又各院の旦家は次のとおりであった。常照院(無住代判安養寺)村中に10軒 宝寿院明王院(無住代判光明寺慈山寺)村内200軒播州270軒八塔寺八十八ヶ所巡り
出典:wikipedia
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