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神戸連続児童殺傷事件

神戸連続児童殺傷事件(こうべれんぞくじどうさっしょうじけん)とは、1997年(平成9年)に兵庫県神戸市須磨区で発生した当時14歳の中学生(以下、「少年」と表記)による連続殺傷事件。別名『酒鬼薔薇事件』『酒鬼薔薇聖斗事件』とも呼ばれる。この事件で、2名が死亡し、3名が重軽傷を負った。数か月にわたり、複数の小学生が殺傷された事件である。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴った点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校の正門前に置かれた点、地元新聞社に「挑戦状」が郵送された点など、強い暴力性が伴なう特異な事件であった。また、犯人がいわゆる「普通の中学生」であった点も社会に衝撃を与えた。兵庫県警察は聞き込み捜査の結果、少年が動物虐待行為をたびたびおこなっていたという情報や、被害者男児と顔見知りである点などから、比較的早期から彼に対する嫌疑を深めていたが、対象が中学生であるため、極めて慎重に捜査は進められた。1997年5月27日早朝、神戸市須磨区の中学校正門に、切断された男児の頭部が放置されているのを通行人が発見し、警察に通報。5月24日から行方不明となっていた近隣マンションに住む11歳の男児のものとわかった。耳まで切り裂かれた被害者の口には、「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」名の犯行声明文が挟まれており、その残虐さと特異さからマスメディアを通じて全国に報道された。6月4日に犯人から第二の犯行声明文が神戸新聞社に郵送され、報道はさらに過熱。警察の捜査により、6月28日に犯人逮捕。マスコミが報じていた推定犯人像(がっちり体型の30~40代)と異なり、犯人が14歳の中学生であったこと、連続殺傷事件であったことが判明した。1997年(平成9年)2月10日午後4時ごろ、神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がゴムのショックレス・ハンマーで殴られ、1人が重傷を負った。犯人がブレザー着用、学生鞄を所持していたと聞いた女児の父親は、近隣の中学校に対し犯人がわかるかもしれないので生徒の写真をみせてほしいと要望する。しかし、学校側は警察を通して欲しいとして拒否したため、父親は兵庫県警察に被害届を出して生徒写真の閲覧を再度要求したものの、結局、開示されることはなかった。この事実により、犯人逮捕後、学校側に対し、「この時点で何らかの対応をしていれば第二・第三の事件は防げたのではないか」、「結果的に犯人をかばっていたことになる」との批判が起こった。なお、この事件に関しては被害者の家族の要望もあり、非公開とされていた。3月16日午後0時25分、神戸市須磨区竜が台の公園で、付近にいた小学4年生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」(少年の日記より)といい、振り返った女児を八角げんのう(金槌の一種)で殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月23日に脳挫傷で死亡した。さらに、午後0時35分ごろ、別の小学生3年生の女児の腹部を刃渡り13センチの小刀で刺して2週間の怪我を負わせた。ナイフの刃先は胃を貫通して、背中の静脈の一歩手前で止まっていた。仮に静脈まで達していたら、救命は不可能だったという。また、手術の時に、1.8リットルの輸血を要した。5月24日午後、通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台の付近に住む小学5年生の男児を誘い出し、殺害。少年は人を殺したいという欲望から、殺すのに適当な人間を探すために、昼過ぎにママチャリに乗って家を出た。町内を約10分くらいブラブラしながら自転車を走らせ、その後、多井畑小学校の北側を東西に走っている道路の北側の歩道を、東から西に自転車を走らせていたところ、多井畑小学校の北側の歩道上に少年とは反対に、西から東に、1人で歩いてくる男児を偶然見つけた。男児は同地区に住む放射線科医師の次男で、当時11歳であった。男児は祖父の家に行くといって午後1時40分ごろ、自宅を出ていた。少年が男児を知った時期ははっきりとは覚えてはいないものの、多井畑小学校の5年生ころで同じ小学校のなかに、身体障害者のための「なかよし学級」があり、そのなかに男児がいることを知った。その後、男児が少年の家に遊びに来るようになった。これは少年が直接知り合ったわけではなく、少年の一番下の弟が同級であったからである。その際に少年の家で飼っていたカメに男児が興味を示したことからカメが好きなことを知る。咄嗟に「○○君なら、僕より小さいので殺せる」と思い、男児の方へ近づいた。少年は男児に対し「向うの山にカメがいたよ。一緒に見に行こう」とタンク山に誘い出し、チョコレート階段を経由し、山頂手前にあるケーブルテレビアンテナ施設の入り口付近まで連れて行き、その場で絞殺して遺体を隠した。殺害は絞殺であったが、これは当初から首を手で絞めて殺してみたいという気持ちがあったためである。指紋が付くことを怖れ、手袋を素早くはめた。男児の真後ろからいきなり右腕を男児の首に巻き付け、右手の手首付近を左手のひじ付近に巻き付けて、力いっぱい男児の首を締め上げた。なお少年の利き腕は右である。男児は、叫び声と泣き声の中間みたいな大きな声を出して、手をバタバタさせた。少年はこのままでは到底男児を殺せないのではないかと思い、男児を倒して締め上げれば殺せるのではないかと考え、そのままの状態で男児を前に倒し、少年自身も男児に覆い被さって、なおも首を絞め続けた。それでも男児は死ななかったため、首を締め付けたまま、さらに男児の腰付近に馬乗りになり、男児の首を絞めている腕を男児がエビ反りになるような感じで持ち上げ、締め付けた。それでも男児はなかなか死なず、腕が疲れ、今度は男児を仰向けにし、男児の腹の上に馬乗りになって、両手で男児の首を力任せに締め付けた。それでも男児は死ななかった。男児の首を締め付けていた両腕の上腕部付近が張ってきて、筋肉痛のような感覚を覚える。男児の首を絞め付けていた両手を首から外すと、男児が大声を出すことは分かっていたので、ナイフで殺そうと考えジーパンのポケットを探るが、ナイフを忘れたことに気付く。そこですぐ横の土の崖のようなところに埋まっていた石があったため、撲殺を思いつき石を持とうとするが土中深く埋まっていたため、動かなかった。このため、今度は自らの運動靴の紐で絞殺をしようと考え、左足の運動靴の紐を少しずつ解いていき、それを輪にして首にかけうつ伏せになった男児の腰付近に馬乗りになり、力一杯両手で持ち上げる。殺そうとするが死なない男児に対し、少年は腹を立て、男児の顔や頭を踵で蹴ったり顔を殴ったりしている。最後は、仰向けになった男児の腹部に馬乗りになり靴紐を力一杯引く。この時、少年の手には首の肉にギュッと食い込む手応えがあり、しばらく締め続けたところで呼吸音が止まった。さらに、死んだかどうか分からなかったため、靴紐の端を施設のフェンスか桟に結びつけ、さらに締め続けた。ようやく死んだと思い、その後、男児の左胸に右耳を当て心音を確認し、心音が聞こえなかったので、完全に死んだと確認した。供述では、なかなか死なない男児に腹を立てたりしているが、同時に男児を殺しているという緊張感や怒りも含め、殺していること自体を楽しんでいたこと、また、最終的には男児が死んだと分かった時に、少年は男児を殺すことができ、男児が自分だけのものになったという満足感でいっぱいになったと話した。また、「その満足感はそれまで僕が人を殺した時のことを考えて、得られるであろうと思っていた満足感よりももっと素晴らしいものでした」と話した。さらに「確かに僕は、3月16日に須磨区竜が台で、2人の女の子を殴ったりナイフで刺したりしたし、後日、僕がハンマーで殴った女の子は死んだということを知りましたが、この時は一瞬のことであり、大した満足感は感じませんでした。しかし、○○君の場合は、殺すのになかなか時間がかかったので、それだけ満足感が得られたのです。〇〇君を殺したことによって感じた満足感は、あまり長続きはせず、死体をどこに隠そうかなどと考え始めたときには、満足感は消えていました」と続けた。男児を殺害した少年は、死体の処理をどうするか考える。アンテナ施設前に放置すればすぐに死体が発見されると考えたが、死体は発見されないに越したことはないが、発見されるにしてもできるだけ発見を遅らせたいと考えた。死体が発見された段階で警察の捜査が始まると考えたからだ。男児は重いので死体は遠くへ運べないと思い、あたりを見回すとアンテナ施設の中の鉄の建物の床下に草が生えており、フェンス越しなら床下が見えにくいと判断する。床下に死体を隠すことを考えたが、入り口には南京錠がかかっていたため、施設内には入ることができなかった。とっさにその南京錠を壊し、死体を施設内の建物の床下に隠すことを思いつく。このため、南京錠を壊す道具といて糸ノコギリと、南京錠を壊しただけでは不審に思われることから、壊した南京錠に代わる新たな南京錠を入手する必要を感じた。男児をそのままにして少年は登ってきた道順と同じ道順でタンク山を降り、ママチャリに乗り、5分ほど走らせて、コープリビングセンター北須磨店へ向かった(後にコーナンに変わったが、現在は万代スーパーになっている)。そこで、糸ノコギリ(後に供述調書は金ノコに修正される)と南京錠を万引きした。少年は小学校6年生時に同級生と集団でコープリビングセンター北須磨店で万引きの経験があり、その後もカメの餌を買うために同店をときどき訪れていた。南京錠と糸ノコギリを万引きした理由については、お金がなかったこと、お金を出して買えば店員に顔を覚えられる可能性があったためと供述している。少年は登ってきた道順と同じ道順でタンク山を降り、ママチャリに乗り、コープリビングセンター北須磨店へ向かった。そこでまず、糸ノコギリを盗む。次いで南京錠を盗んだ。南京錠は形や大きさが大体同じであればよいと考えていたので、正確に大きさを確認してはいない。再びママチャリでタンク山の「チョコレート階段」を登ったりして男児と一緒に上った道順と同じ道順でケーブルテレビ施設の前まで戻った。アンテナ施設を取り囲んでいるフェンスの入り口に掛けられている古い南京錠のUの字部分を金鋸で切り(約1分を要している)、両手を男児の脇の下に入れ、上半身を浮かせて下半身は地面に付けたような感じで後ろ向きに引きずって施設の中へ入れた。ところが、鉄の建物と施設の入り口との間にアンテナが置かれていたため、男児の死体を建物下に入れるには、アンテナが邪魔になった。このため一旦アンテナの手前で男児の死体を置き、アンテナを向って右にずらしている。少年は男児の死体を引きずって建物の向かって左側の溝の方まで行き、そこから床下に男児の死体を蹴り込むような感じで押し込んだ。その際に、建物付近に男児の運動靴が1個落ちていることに気付き、拾い上げ死体のそばに置いた。金鋸をフェンスに沿った溝側にたまっている落ち葉の下に隠し、入り口に新しい南京錠を掛け替えて山を下りた。友人と4時にビデオショップ「ビブロス」の前で待ち合わせしていたため急いで向かい、4時25分から30分ごろに着いた。その後、友達と遊んだあと6時過ぎに家に帰ると、少年の母が「○○君がおらんようになったみたいよ」と言うと、少年は「ふうーん」と返事をした。その後少年は、自宅2階の自室に帰ると疲れていたため、ベッドに横になると寝てしまった。そのためその日の夕食は食べていない。少年は元々よく夜中に目を覚ましたが、この夜も夜中に目覚め、その際その日1日のことを振り返った。男児の殺害の様子などを思い出したのだが、南京錠の切断に使った糸ノコギリを施設内に隠していることも思い出した。その瞬間、自然にフッと少年の頭の中にその糸ノコギリで人間の首を切ってみたいという衝動に駆られた。具体的には、人間の身体を支配しているのは頭だから、その司令塔の頭を胴体から切り離してみたい、その時に手に伝わってくる感覚や、切った後の切り口を見てみたいと思った。それまでになん10匹もの猫を殺し、首を切り落としていたが、猫だとナイフ1本で簡単に切れるし、もっと大きなもの、しかも自分と同じ種族の人間を切ってみたいと思った。そこで、明日は再びタンク山に向かい、隠している糸ノコギリで男児の首を切ろうと考えると再び眠りについた。午後8時50分に被害男児の家族より須磨警察署に捜索願が提出された。少年はいつものように10時から12時にかけて起床し、自分でパンを焼いて食べ、午後1時から3時の間に、男児の首を切るために自宅を出た。少年は男児の頭部を入れるため、黒色のビニール袋2枚を準備する。少年は人間の首を切る際には滅茶苦茶血が出ると考えたからである。現場に血を残すと、足が付きやすくなると考えた。このため血を入れるナイロン袋が2枚くらいは要るだろうと思った。そこで自宅の台所の食器が入っている棚の引出しから黒色のゴミ袋を取り出し持ち出したのである。ケーブルアンテナ施設の枯葉に隠していた金鋸を運び出すために、学校で使用している補助カバンも持って出る。さらに、「龍馬のナイフ」と呼んでいる鞘付きのくり小刀を一本、ジーパンのポケットか腹に差して持って出た。以前は龍馬のナイフ3本と出刃包丁1本を所有していたが、龍馬のナイフ2本は親に取り上げられていた。検事調書では、「ママチャリに乗って、直接「タンク山」へと向かいました」と言っているが、少年の父親によれば正午前後にコープ北須磨の自転車置き場で出会っており、ビブロスの方向に走って行ったという。タンク山はビブロスと反対方向にあるが、ビブロス方向に走って行ったことに関して、父親は「よく思い出せません」とも話している。ケーブルテレビアンテナ施設に到着すると少年は、糸ノコギリをまず取り出し、それから「局舎」の床下に隠していた男児の死体の肩部分をしゃがみこんでは引っ張り、男児の胸から上部分を床下から引き出して、男児の首がちょうど溝上付近に来るように置いた。少年は「ただ、〇〇君の首を切りたい」とだけしか思っていなかったため、特にワクワクするといった気持ではなかった。男児はあおむけの状態で、眼は見開いていた。このとき、取調官は少年に「男児の死体の目や顔を見ながら、その首を切るのに抵抗はなかったか」と尋ねたのに対し少年は「別にありませんでした。僕が殺した死体であり、いわば僕の作品だったからです」と答えた。黒いビニール袋の上に置いた男児の遺体を、糸ノコギリの両端を持ち、一気に左右に2回切ると、ノコの歯が細かったためか、スムーズに切れ、切り口が見えた。人間の肉が切れることを確認した少年は左手で男児の額のあたりを押さえながら、右手で首を切っていく。この時、少年は「現実に人間首を切っているんだなあと思うと、エキサイティングな気持ちになった」と供述している。首を切っていく内に、段々と頭の安定が悪くなったため、男児の首の皮が1枚になった時に左手で髪をつかんで上に引っ張り上げ、首の皮を伸ばして一気に首の皮を切った。その後、しばらく地面に置き、正面から鑑賞しながら、「この不可思議な映像は僕が作ったのだ」という満足感に浸った。首を切断して射精した。ところが、しばらくすると、男児の目は開いたままで、眠そうにみえ、どこか遠くを眺めているように少年には見えた。さらに、男児は少年の声を借りて、少年に対して、「よくも殺しやがって 苦しかったじゃないか」という文句をいった。それで、少年は男児に対し、「君があの時間にあそこにいたから悪いんじゃないか」といい返した。すると、男児の首はさらに文句をいった。少年は、これは死体にまだ魂が残っているためだと考え、魂を取り出すため、また、眠たそうな男児の目が気に入らなかったため、「龍馬のナイフ」で男児の両目を突き刺し、さらに、2、3回ずつ両方の瞼を切り裂き、口の方からそれぞれ両耳に向け、切り裂いた。その後は文句を言わなくなったという。さらに、「殺人をしている時の興奮をあとで思い出すための記念品」として持ち帰ろうと考え、舌を切り取ろうとしたが、死後硬直のため、できなかった。さらに、ビニール袋に溜まった男児の血を飲むが、金属をなめているような味がしたと述べている。血が服に付着しないようビニール袋を持ち上げると、ビニール袋の口を自分の口のところまで持ってきて口一杯分を飲んだ。少年は血を飲んだ理由として、「僕の血は汚れているので、純粋な子供の血を飲めば、その汚れた血が清められると思ったからです。幼い子供の命を奪って、気持ち良いと感じている自分自身に対する自己嫌悪感の現れなのです」と供述している。少年は、人目につかない場所でもう一度じっくりと鑑賞しようと思い、一つのビニール袋に男児の首を血の入ったもう一つのビニール袋とともに入れて結びタンク山を下りて、北須磨高校への獣道をたどり入角ノ池へ向かう。当初は来た道を引き返すつもりだったが、アンテナ施設を出た直後に少年が来た方向から誰かが登ってきた足音や話し声がしたため、行方不明になっている男児を探す目的で自警団か警察官がやってきたのだろうと考え、北須磨高校への別の獣道を降りることにした。タンク山の地理をいちばんよく知っているという自負があり、この森の中では絶対に捕まらないと考え、特に焦りは感じず落ち着いて歩いた。入角ノ池までは、町の中も通るが、特に神経がピリピリするという感じもなく、ボーっとしたような、いつもと同じような気持ちで歩いた。途中、同じ歩道上を多井畑小学校方面から歩いてくる女性を見かけるが、少年が小学校通学時に見覚えのある顔の人であったため、彼女を小学校教師か職員だと思う。少年はその女性もおそらく男児を探しているのだろうと考えた。向畑ノ池の横を通過し、池の南側の友が丘西公園へ行き、公園内に入る。友が丘西公園では、いつもフェンス横の出入り口から森の中へ入っていた。森に入ると道が険しくなるため、糸ノコギリを入れていた補助カバンを取り出し、その補助カバン内に男児の首の入った黒色のビニール袋を入れた。森の中では3人の黒っぽい服にツバの付いた帽子を被り、肩から細い縄をかけた機動隊員と出会っている。機動隊員だと思ったのは、人の身長よりも長い棒を持っており、少年が知っている警察官の格好ではなかったからである。機動隊員と思われる一人から「君はどこから来たんだ」と聞かれ、少年は「公園の入り口から入ってきました」と答えた。すると3人の中の誰かが「危ないから帰りや」と言った。この記憶は鮮明ではなく、入角ノ池へ行く途中か帰る途中だっかかも知れないと供述している。入角ノ池へは以前に数回行ったことがあったが、道順を覚えていたわけではなく、友が丘西公園からは道があるので、道なりに歩いて行った。池辺へ降りるには、探すとロープがあったためそのロープを伝って、入角ノ池の淵へ降りた。男児の首を隠す場所はないかと見回したところ、池の方に木が生えだしたところがあり、その木の根元の向こう側に、ちょうど首が入るほどの穴があった。穴を見つけると、補助カバンから男児の首を入れたビニール袋を取り出し、足元に置き、袋の口を開き、口を下まで降ろして男児の首を出した。袋から取り出したのではなく、袋に入れた状態で首全体が見えるよう出した。至近距離から男児の首を鑑賞したが、新たに誰もいない場所で男児の首を鑑賞すれば、何か新しい感動が得られるのではないかと期待したが、大した感動はなく「ああ、こんなものか」と思った程度だったため、2、3分ほど眺めたあと、再びビニール袋にもどし、木の根元の穴の中に隠した。首の切断に使った金鋸は、友が丘西公園のとなりにある向畑ノ池に投げ捨てた。取調官から、「君は当初、男児の首を切断したり、男児の首を別のところへ移動したのは、男児の首には指の跡などが付いており、それが分かれば、自分が犯人と疑われるからだと話していたが、その点はどうか」と聞かれ、「それは、単なる理屈付けを話したのです」と答えた。その後、少年は向畑ノ池からタンク山の下付近に止めてあった自転車を取りに戻った後、帰宅する。その夜も、少年は目が覚め、物思いにふけった。その際は、少年は人間の死体が時間とともにどう変化するのかに非常に興味を持ち始めた。死体の変化が明日はどうなっているのだろうと思った。少年は明日も男児の首を見るために、入角ノ池へ行こうと思った。取調官は、胴体を置いているタンク山へは行こうと思わなかったのかと尋ねたのに対し、少年は「考えませんでした。それは〇〇君の胴体部分は、服を着ていて、死体の変化を見るためには、服を脱がせたりしなければならないからです。それが面倒くさかったからです。それにタンク山だと、人が登ってくる可能性があったからです」と答えた。男児の行方不明事件として午前11時40分に須磨警察署が公開捜査を開始。警察、PTA、消防団合わせて150名が捜索にあたった。少年はこの日も、いつものように10時ころに起きた。朝食兼昼食としてパンと紅茶を一人で食べて飲んた。昼過ぎに「首をじっくり鑑賞したい」とママチャリで入角ノ池へ向かい、穴から取り出して至近距離で5,6分見た。この時は鑑賞ではなく、観察したと供述している。観察の結果、色が25日に増して、青白くなっていたこと以外には取り立てて変化があるようには思えずがっかりし興味を失ったため、男児の頭部を家に持ち帰る。どこかに隠そうとも考えたが、遅かれ早かれ日本の警察ならどこに隠そうと、胴体も頭部も発見されるだろうと考え、それならばむしろ自分から男児の首をあえて晒すことで、警察の捜査から自分を遠ざけようと考えた。次に男児の頭部を放置する場所をどこにするか考えた。その結果、自分が通っている神戸市立友が丘中学校が警察にとってはいちばん盲点になるのではないかと思った。なぜなら、まさかその中学校に通う生徒が自分が通う学校に首を置くはずがないと思うだろうし、そうなれば捜査の対象が少年自身から外れるだろうと考えた。さらにもう一つの理由として、少年自身、幼少期から親に人に罪をなすりつけては駄目だと言われて育てられたことから、一方では男児を殺した自分自身に対して嫌悪感があったので、何とか責任逃れをしたいという気持ちもあった。しかし人に罪をなすりつける訳にはいかないので、自分自身を納得させるために、学校が男児を殺したのであり、僕が殺したわけではないと思いたかった。それは単に、学校に責任をなすりつけるための理由であり、実際に学校に対する恨みや学校の教育によって、こんな僕ができてしまったと思っていたわけではないと供述している。中学校のどこに置くかについては、当然一番目立つ場所がいいと考え正門に置くことにした。そこで、再び男児の首を入れていたビニール袋の口を上に引き上げ、首をすっぽり入れると口を閉じた。ビニール袋を持つと入角ノ池から自転車を停めていた友が丘西公園まで歩き、男児の首を自転車の前カゴに入れて、帰宅する。家に帰った時点では誰もいなかった。帰宅途中、男児の首を洗うことを思い付いた。帰宅後、土や木の葉で汚れた頭部を風呂場でタライに入れホースを使い15分ほどかけて丁寧に洗って、自分の部屋の天井裏に隠した。少年は首を洗った理由を「理由は二つ。一つは、殺害場所を特定されないように、頭部に付着している土とか葉っぱ等を洗い流すためでした。あと一つの理由は、警察の目を誤魔化すための道具になってもらう訳ですから、血で汚れていたので『せいぜい警察の目から僕を遠ざけてくれ。君の初舞台だよ』という意味で、顔を綺麗にしてやろうと思ったのです」と供述している。少年は首を洗った時も興奮して勃起し、髪の毛にクシを入れながら射精した。首を隠した後は、ベッドに横になりいろいろ考えた。男児の首を校門に置くだけでは、警察の目を自分から逸らすには物足りない。さらに捜査をかく乱する方法はないかと考えた。その日の夜までに、首に何かを添えるとのがいいと思いつく。首に何かを添えるのであれば、男児の口が開いているので、添えるものは男児の口にしようと考えた。「偽りの犯人像」を表現するには、手紙がいちばんだと思った。その日の夕食は家族とともに食べるが、よく覚えていない。夜になり、男児の口にくわえさせる手紙の文章を考える。これまで読んだ本などから覚えている言葉や自分で頭に浮かんだ文章などを思い浮かべたものの、さらにインパクトがある表現が必要だと感じる。そこで、部屋にあったマンガの本が目に止まり、『瑪羅門の家族』第3巻の目次の「積年の大怨に灼熱の裁きを」を見て「積年の大怨」ということになれば、長年積もり積もった恨みを持った者の犯行だと読んだ人間は思うだろうし、そうなれば、ある程度歳のいった人間が犯人だと思われるのではないかと考え、引用することにした。また別の本で覚えていた言葉を組み合わせて、手紙を書き上げた。原文の「灼熱の裁きを」という部分は、男児の頭部を焼いたわけではないので「流血の裁きを」との表現に改変した。取調べでは、少年は手紙の文章をよく覚えており、取調官に対し「赤のペンと黒のペンで書いたので、それぞれのペンを貸してくれれば、僕が書いたとおりに再現できます」と話し、取調官は少年に白紙と赤、黒のボールペンを渡したところ、任意に文章を作成したため、それを受け取り(資料一)として、本調書末尾に添付した。この際は「積年の大怨」ではなく「積年の大恐」と書いているが、これを「今書いた文章だと”恐”と書きましたが、僕自身、このときはそのマンガの本を見ながら書いたものであり、僕が覚えていた字ではなかったので、間違っているかもしれません」と説明した。「愚鈍な」という文字は、別の本で読んで覚えていたものであり、「汚い野菜」という表現は、少年自身の言葉で、少年が小さいころに親から「運動会で緊張するなら、周りの人間を野菜と思ったらいいよ」と言われていたため、周りの人間が野菜に見えてしまうと答えた。その他、ほとんどの文章は、僕が頭で考えたものであり、テレビで言っているような、何か小説から引っぱり出したといったものではありません」と供述した。手紙には文章とともにマークが書かれていたが、少年はこれを「僕のマークであり、ナチスドイツの逆卍をヒントにしたのです」と供述している。ナチスドイツの逆卍は、テレビで見たことがあり、少年自身ヒトラーの『我が闘争』を読んでおり、マークは小学生の頃に作ったものだった。英語で「SHOOLL KILL」と書いたのは、その時はこれで「スクールキラー」と呼ぶものだと思っていたためその通りに書いた。手紙を書いた用紙は部屋にあったスケッチブックで、手紙を包んだ紙も同じスケッチブックの紙だった。包んだ紙の表に「酒鬼薔薇聖斗」と赤いペンで書き、その名前の下に同じマークを黒のペンで書いた。裏面には何も書かなかった。「酒鬼薔薇聖斗」とは、小学校5,6年生の頃に、「悪い方の僕自身に僕が付けた名前」だった。「酒鬼薔薇聖斗」についてマークを作っており、若干デザインが異なっているが、手紙に書き添えたマークは「僕自身」のものだった。このため取調官は少年に「酒鬼薔薇聖斗のマークもあると言いながら、なぜこの時は君のマークを付けたのか」と尋ねたが少年は「分かりません」とだけ答えた。これらの文章はこの夜に部屋で一気に書き上げられた。5月27日未明、少年の供述によれば午前1時ころから午前3時までの間に、頭部が入ったカバンを自転車の前カゴに入れて、中学校の校門前に遺棄した。その用意のため、まず、少年の部屋の天井裏に置いてあった男児の首を入れた黒色のビニール袋を取り出し、手紙をジーパンのポケットに入れた。男児の首の入ったビニール袋はそのまま補助カバンに入れた。部屋を出る際には、両親に気付かれないよう、部屋の窓から外へ出た。しかし、重い首の入ったカバンを持ったままでは難しいと考え、机の中にあった電気コードを2,3本取り出し、それらをつないで片方の端に首の入った補助カバンをくくり付け、それを庭へ下したのち、少年自身が窓から外に降り、補助カバンをもって自転車置き場まで行き、ママチャリの前カゴに補助カバンを入れ友が丘中学校へ向かった。車道ではなく歩道を通って行ったが、その間誰にも会わなかった。正門前に着くと、補助カバンの中から男児の首を入れた黒のビニール袋を取り出したのか、あるいは頭部だけを取り出したのかは少年自身覚えていないが、男児の髪の毛を持って首を取り出した。正門右側の塀が目に入り、その上に首を両手で持って背伸びをし置いて、2,3歩下がって男児の首を見た。ところがその時、据わりが悪かったのか、男児の首が手前の地面に落下した。少年はまさか男児の首が落ちるとは予想していなかったため、一瞬、男児の首が塀の上から消えたと思い、下を見ると男児の首があった。落下の際、音はしたようだったが、首が転がったかどうかまでは覚えていない。首が落下したため、再びどこに置くか考えたが「正門の前だと一番目につくところだし、地面なら据わりもいいだとろうと思い、正門の鉄扉の中央付近に顔を道路側に向けて置きました。手紙を取り出し"酒鬼薔薇聖斗"の文字が見えるように縦に『酒』いう文字の方を口にくわえさせたのです」と供述しており、その時の光景を「学校の正門前に首が生えているというような『ちょっと不思議な映像だな』と思って見ていたのです」と供述している。少年はその光景を5、6分見ていた。また、この時少年は「性的興奮は最高潮に達し、性器に何の刺激も与えてないのに、何回もイッてました」という。少年はのちにその時の光景を「作品」と呼んでいる。帰宅すると家のそばにある鉄の柵を利用し窓から2階の自室へ戻った。その後は眠くなり、朝まで寝ていた。取調べでは当日の午前5時ころに中学校の正門に来た人が、男児の首はなかったと話しているが、その点はどうかと尋ねられたが少年は「単なる思い違いです。なぜなら僕の親は、午前5時ころには台所にいるので、とてもその様な時間帯に〇〇君の首を持って家を出ることなど不可能です。少なくとも午前3時ころまででなければ、親に知られずに行動することはできないのです。従って、〇〇君の首を正門前に置いたのは、遅くとも午前3時ころまでだと思います」と供述した。警察は記者会見で「酒鬼薔薇聖斗」を「さけ、おに、ばら…」と文字ごとに分割して読み、何を意味するか不明と発表、報道機関も発表と同じ表現をした。テレビ朝日の特別報道番組でジャーナリストの黒田清が「サカキバラセイトという人名ではないか」と発言。これ以降、マスコミや世間でも「さかきばら・せいと=人名」という解釈が広がった。犯人が未成年で本名が公開されなかったことから、事件解決後の今でも、この事件の犯人を「酒鬼薔薇」または「酒鬼薔薇聖斗」と呼ぶ人もいる。少年は当日のテレビで男児の首が発見されたことを知る。発見されるように置いたので、そのこと自体は当たり前だと考え何も思いつかなかった。ところが、その日の内に「タンク山」の局舎床下に隠した男児の胴体部分まで発見されたニュースを見て「早すぎる」とびっくりする。少年は事件前から新聞のテレビ番組欄と三面記事は見ていたため、今回の事件後も新聞記事には目を通していた。それらの報道では、犯人像を30-40代男性としたり、黒のブルーバードが目撃されたり、犯人は少年の自宅付近以外の人物であるやに報道されていたことから、ここまで上手くいったなら、自分が犯人だとは分からないだろうと思うようになる。「はっきり言って、調子づいていました」と少年自身供述している。そこで、少年は新たに「神戸新聞社宛ての手紙」を書くことにする。6月4日、神戸新聞社宛てに赤インクで書かれた第二の声明文が届く。投函したのは6月3日の午後だったため、手紙を書いたのは6月2日の夜だったと少年は供述している。自室で書かれ、書くのに要した時間は1時間30分位。内容はこれまでの報道において「さかきばら」を「おにばら」と誤って読んだ事に強く抗議し、再び間違えた場合は報復する、としたものだった。「鬼薔薇」と聞いたのは、5月27日に児童相談所でニュースを見ていた時である。また自身を「透明なボク」と表現、自分の存在を世間にアピールする為に殺人を犯した、と記載している。この二通目の声明文には校門前で発見された男児に添えられていた犯行声明文と同じ文書が同封されていた。最初の犯行声明文は一部文面を修正した形で報道されていたが、神戸新聞社に届いた声明文に同封されていた犯行声明文の一通目には、修正前と同じ文章で同封されていた。具体的には、遺体と共に発見された文面の5行目は「人の死が見たくて見たくてしょうがない」だが、「人の死が見たくてしょうがない」と変更して報道された。神戸新聞社に届いた文面には、事件に関わった人物しか知ることができない「人の死が見たくて見たくてしょうがない」と書かれていたため、この声明文はいたずらではなく犯人によるものだと確定された。いわゆる秘密の暴露である。声明文を書くにあたって、少年は次のような犯人像をイメージして書いたという。しかし、少年は「はっきり言って、調子づいてしまった」と供述しており、「新たに手紙を書けば、僕の筆跡が警察に分かってしまうと思ったが、僕自身、警察の筆跡鑑定を甘く見ていた。『あれで捕まるんやないか、失敗したなぁ』と思ったが、どうしようもなかった」と逮捕後供述している。捜査関係者によると「もともと、数多く著作からの寄せ集めだから、原本は簡単に割り出せなかったが、Aが浮上して彼の作文などを調べたら、すぐに同一人物の筆致だと分かったよ。特に『懲役13年』という作文は大いに参考になった」という。また、用紙の余白に「9」という数字を書いたことについて少年は「僕が1番好きな数字が9であり、切のいい数字が10だと思っているので、その一つ前がいいからだ」と供述しているが、少年が浮上した段階で間接証拠の一つとして使われていたという。なお、少年の作文と二つの犯行声明文の筆跡鑑定を行ったが、鑑定結果は「類似した筆跡が比較的多く含まれているが、同一人の筆跡か否か判断することは困難である」というものであり、そのために少年の逮捕状を請求出来なかったという。少年の供述では、「本当は僕が男児を殺したり、男児の首を正門前に置いていたにも関わらず、あたかも僕の他に犯人がいるとして、その犯人像を僕がイメージして、その犯人像になり切って手紙を書くことにした」、従って「僕が書いた手紙の内容は、あくまでも僕がイメージした犯人像が持っている動機を書いたものであり、いわば僕の作文であって、僕が〇〇君を殺した理由とは全く異なっている」。神戸新聞社への手紙を書くにあたっては、まず少年はノートにあらすじみたいな文章を書き出し、その文章の順序を並び替えたりしながら書き進めた。あらすじみたいなものを書いたノートは、後に燃やしている。6月28日、現場近くに住む少年に朝から任意同行を求め、事情を聞いていたところで犯行を自供。少年は当初犯行を否認していたが、取調官が第一の犯行声明文のカラーコピーを取り出して、「これが君の書いたものであるということは、はっきりしている。筆跡が一致したんや」と突きつけると、声を上げて泣き出し、自供を始めた(前述のように実際には少年の筆跡が一致したという証拠はなかった)。午後7時5分、殺人及び死体遺棄の容疑で少年を逮捕。同時に、通り魔事件に関しても犯行を認めた。1997年7月13日、取調官は平成9年6月4日付、司法警察員押収にかかる「コクヨ製便箋2枚」を示し、その写しを資料一として本調書末尾に添付することにした。この神戸新聞社への手紙を示された少年は、以下の通り供述した。取調官は平成9年6月4日付、司法警察員押収にかかる「封書」及び「文書」を示し、その写しを資料二及び三として、それぞれ本調書末尾に添付することにした。この「封書」及び「文書」を示された少年は、以下の通り供述した。事件の舞台となった須磨ニュータウンは神戸市中心部から六甲山脈を隔てた北西部に位置し、もともと山地と農村地帯が広がる丘陵地であったが、1964年(昭和39年)から開発が始まり、ニュータウンとして早い地区で1970年から入居が始まった地域である。その後1969年(昭和44年)の西神戸有料道路(現市道夢野白川線)開通、1984年(昭和59年)の山麓バイパス開通、1977年(昭和52年)の神戸市営地下鉄西神・山手線開通によって神戸市中心部とのアクセスが飛躍的に向上し、ベッドタウンとしてこのニュータウンは急拡大していった。そのうち第三の事件は南部にある北須磨団地内で起こった。殺害・遺体損壊現場として何度もその名が登場する「タンク山」は通称であり、地名としての山名はである。タンク山の通称はこの山の東側中腹に巨大な給水タンクを備えた神戸市水道局北須磨特1高層配水池があることによるもので、竜の山自体が小高い丘のような山であるため周辺からは非常に目立つ存在であった。犯行現場となったタンク山を少年がよく知っている事情については、供述調書に詳しく述べられている。少年は多井畑小学校を卒業後、友が丘中学校へ入学するが、1年生の時に卓球部に入部する。これは3年生まで続いた。登校拒否をするようになる1か月ほど前の1997年(平成9年)4月中旬ころには練習があまりに単調でつまらなく感じ行かなくなる。卓球部に所属していた当時は、授業が3時ころに終わり、卓球部の練習で午後5時 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5時半ころ帰宅していた。ところが、卓球部に行かなくなったために、その時間が暇になる。暇つぶしと同時に部活動をさぼっていると親に叱られると考え、授業後タンク山へ上るようになる。タンク山を選んだ理由は、中学校からの帰路にあり、タンク山なら静かそうで昼寝もできると考えてのことである。その後は毎日登るようになり、頂上付近のケーブルテレビアンテナ施設があることも知り、いつもはその周辺の雑木林でカバンを枕に昼寝を繰り返した。しかし目覚めた際に、近くの学校の午後5時を知らせる鐘が鳴っていなければ、再び眠ることもできないのでタンク山内をさまざまに歩き回った。そのため山中の多くの獣道なども知り詳しくなる。このように、少年はタンク山の状況をよく知っていたため、男児の殺害現場をタンク山頂上付近のケーブルテレビ施設にしようと決めた。成人の刑事裁判と異なり、少年審判は非公開であり、審判の内容は公開されず、審判の結果も公開されないか報道されない事例が大部分であり、多くの人々に注目された事件の審判の結果(初等少年院、中等少年院、医療少年院への送致など)が公開され報道される程度であるが、この事件は人々からの注目度が著しく高かったので、家庭裁判所は例外的に精神鑑定の結果を公開した。精神鑑定結果として下記に示す少年の特徴が解明された。少年は小学校5年の時から動物に対する殺害を始め、最初はなめくじやかえるが対象だったが、その後は猫が対象になった。少年自身が友人に、全部で20匹ぐらいの猫を殺したと語っている。標準的な人は性的な発育が始まる以前の段階で、性欲や性的関心と暴力的衝動は分離されるが、少年は性的な発育が始まった時点で性欲や性的関心と暴力的衝動が分離されず(鑑定医はその状態を未分化な性衝動と攻撃性の結合と表現した)、動物に対する暴力による殺害と遺体の損壊が性的興奮と結合していた。性的な発育過程にある標準的な感覚の男子は、自分の周囲の同年代の女子や少し年上の女性を、性欲を発散する対象として想像しながらオナニーをして(または生身の女性と現実の性交をして)性欲を発散し、性的な経験を積み重ねながら肉体的・精神的な成長をして行くのだが、少年は動物を殺害して遺体を損壊することに性的な興奮を感じるようになり、猫を殺して遺体を損壊する時に性的な興奮や快楽を感じて性器が勃起し射精した。少年はその性的な興奮や快楽の感覚や要求が、人を殺害して遺体を損壊することによって、猫の殺害と遺体損壊よりも大きな性的な興奮や快楽を得たいとの欲求へとエスカレートし、それが自分の運命と思い込むようになり、この事件を行ったのであり、殺人の動機の類型としては快楽殺人である。また、少年の行動や言動を危惧した両親は、中学入学後の1995年11月に精神科の病院に通院させ、診断テストや脳の検査を受けさせた。その結果、注意欠陥・多動性障害(ADHD)の診断を受けている。少年は鑑定医から被害者を殺害したことについて問われると、自分以外は人間ではなく野菜と同じだから切断や破砕をしてもいい、誰も悲しまないと思うと供述した。被害者の遺族の悲しみについて問われると、あの時あの場所を通りかかった被害者が悪い、運が悪かったのだと供述した。女性に対する関心はあるかと問われて、全く無いと答えた。精神鑑定結果は、少年に完全な責任能力はあるが、成人の反社会性パーソナリティ障害に相当する行為障害(18歳未満の場合は人格形成途上なので行為障害と表現する)があり、鑑定医の意見としては、行為障害の原因を除去して、少年の性格を矯正し、Aが更生するためには、長期間の医療的処置が必要(医療少年院への送致が最も適切な処遇)との提案がされた。事件前に診断し告知された「注意欠陥・多動性障害」についての言及は、審判や精神鑑定においては触れられていない。法務省は従来の矯正教育計画を見直し、収容期間を2年以上に延長した新課程「G3」を新設し、関東医療少年院は、精神科医や法務省教官など専門家で作るプロジェクトチームを編成した。精神鑑定で家庭における親密体験の乏しさを指摘されたのに対し、関東医療少年院は男性の主治医を父親役、女性の副主治医を母親役に配するなど「疑似家族」を作り上げるという前例のない治療体制が組まれた。更生は一定の効果を見せたように思えたが、少年が入院して1年ほど経った頃、少年院の工作の実科(授業)で、新聞広告のチラシを切り抜いて画用紙に貼り付け、コラージュを制作した時に、少年は乳児の写真を目や耳、手足など部位別に一つ一つハサミで細かく切り刻んで、それを画用紙にわざとバラバラに貼った作品を作って、「精神と肉体の融合」の題を付けて発表した。また、少年が「理想の母親のような」人と慕う女性精神科医について、院生の一人が「色っぽい白ブタ」と発言し、その途端、少年は物凄い形相で激昂して、近くにあったボールペンを逆手に持って、院生の目を突き刺そうとした。少年院関係者は「この言葉によって、少年の殺意の引き金がひかれてしまい、それまでやっと積んできた矯正教育の成果がパーになってしまったわけだ」と語っている。また、少年自身が少年院仲間に「いくら遺族の手記を読んでも、薬を飲んでも、治らないんだよ。僕は性格が異常なんだから……」「闘争と破壊こそ真の世界の姿だが、少年院ではいい子にしていなければ出られないから気をつけなくちゃ……」と発言している。2001年11月、東北少年院に移送された後に、院生からいじめを受け、さらに院生の一人がたまたま教官の持っていた書類を盗み見たところ、少年が偽名であることが発覚。「お前、まさかあの酒鬼薔薇なのか」と問いかけると、少年がニヤッと笑って頷いたという噂がひろまり、少年の正体が一部の収容者にばれたという。その後、いじめが過激になり、2002年初夏に突然、半裸状態で意味不明の奇声を発し、職業訓練で使うカッターナイフを振り回し、周りを威嚇し始めたという。教官らが駆けつけ、ほかの院生を連れ出し、少年を取り囲んで説得を始めたが、カッターナイフで自分の性器を切り付けたという。少年は直ちに個室に軟禁されて、事情聴取を受けたが、なかなか興奮が冷めず危険なうえ、動揺が激しく、何を言っているのか分からなかったため、最終的に「奇行」と断定された。この騒動の後、神戸家裁が「少年の犯罪的傾向はまだ矯正されているとは言えない」と判断を下し、2004年末まで少年院収容継続を決定した。しかし、関東医療少年院は2003年3月に少年の仮退院を申請している。被害者からは「神戸家裁の判断から半年余という短い期間で突然、少年が変身したとでも言うのか」という批判や疑問の声が上がった。一橋文哉が、2004年秋に法務省幹部に取材を行ったところ、「ある団地の一室で法務省関係者と同居し、一緒に炊事や買い物を行うなど社会勉強中です。少年院で取得した溶接の資格を生かし、仮退院の数日後から毎朝8時、篤志家の一人が経営する工場に歩いて出勤し、仕事ぶりは極めて真面目。夕方5時に退社後は、保護司宅で面談を受ける日々です。ほかに毎週1回、精神科医のカウンセリングを受け、10日に1回程度は、母親とも会っているようです」と語っている。また、法曹関係者は「別の身元引受人と養子縁組して名前を変えたほか、出生地や学歴など偽のプロフィールを用意し、同僚や付近住民も正体を分かっていません。年齢も22歳になり、少年院で毎日、5階までの階段ダッシュを15往復、腕立てと腹筋を各100回こなし、身長170センチ、体重70キロと心身ともに逞しくなった。事件当時の写真を見た人でもまず、今の彼は分からないでしょう」「犯罪者予防更生法で1週間以上の旅行は許可が必要など、ある程度の制約は受けていますが、酒は飲めるし、好きなテレビゲームに嵌まるなど基本的に自由な生活を送っています。しかも04年末までの保護観察期間が過ぎれば、同居者も姿を消し完全フリーになるんです」と語っている。少年の居住地や勤務先について、法務省は「彼の更生には世間の温かい理解と協力が重要だ。公表は支障をきたす」とノーコメントを通し、マスコミや市民団体に、意図的に偽情報を流しているフシがあるという。全国各地で「酒鬼薔薇が東京都内の保護司宅で新しい生活を始めた」「埼玉県に住む身元保証人と養子縁組し、全くの別人に生まれ変わった」などの情報が乱れ飛んだ。少年が住んでいた神戸市でも、地元住民が「少年が家族とともに舞い戻るのではないか」と疑心暗鬼に陥っているという。一橋の取材によると、少年の更生プログラムの病理診断の欄に「現時点にあっても、少年の病理は『寛解』段階に過ぎない」とあり、「現時点」は「退院しても問題ない」とされる「総括期」を指しており、少年の性的サディズムは治癒しておらず、退院直前でも再発する可能性が十分あることを、法務省が認めていたことになっている。また、前述のように退院間近の少年が少年院で問題を起こして、誰もが「性障害が完治していなかった」と医療少年院に戻されると思っていたが、「何しろ、この段階で少年を送り帰そうものなら、仮退院はパー、国家の威信をかけた更生プログラムを組んだ法務省の面子は丸潰れになる。そこで院内には厳重な箝口令が敷かれ、何と少年の奇行はウヤムヤになり、社会復帰のための最終的な研修は予定通り終了したことになってしまった。上層部は保身に走り、現場の少年院も『やるべきことはすべてやった。こうなれば一刻も早く、少年を手放したい』という腫れ物に触るような弱腰姿勢が見え見えだった。もっとも更生したかどうかの決定的な証拠など、何もないからね」と法務省幹部が語っており、一橋は「冗談ではない。人間の一生や人々の安全というものは、役人の面子や保身で決める話ではあるまい」と批判している。少年が在籍していた友が丘中学校の当時の校長である岩田信義は、少年には問題行動、正確にいえば、風変わりな行動が多かったと証言している。他の生徒の靴を隠して燃やす、ラケットで何もしていない生徒の頭を叩く、カッターナイフで他の生徒の自転車のタイヤを切るといった行為があったといわれ、少年が在籍していた小学校からは「刃物を一杯突き刺した不気味な粘土細工を制作していた」という報告を受けたという。担任の話によると、少年の表情は総じて動きに乏しく、注意しても教員の顔を直視することがなく、心が別のところにあり、意識がずれ、言葉が届かない感じを受けたという。しかし、これら少年の行動は思春期前期の子供にままみられるパターンであり、非行と奇行のはざまにある行動だと岩田は指摘している。中学校では入学早々から繰り返される少年の問題行動に手を焼いていた。少年の保護者も精神科医に診察を受けさせていたが、精神科医は学校の中で指導する方がいいという判断を下し、児童相談所には通所させなかった。それを受けて、学校は重点的に少年を指導し、事実、1年生の2学期になると問題行動は減ったという。それでも、教員の一部にはうちの学校で事件をやったとするならば少年ではないかという認識が煙のように漂っていたという。岩田はそういう話を聞くたびに「軽々しく口にすべきではない」と制止したが、岩田も「ひょっとしたら」と思っていたという。1996年(平成8年)5月11日、当時、中学2年生の少年は母の日のプレゼントに母の花嫁姿の絵を描いて渡す。前日に「母さん、何がほしい?」と聞く少年Aに、母は「気持ちさえこもっていたら、別に何でもええよ。無理せんで」と答える。すると、少年は両親の結婚式の写真を押入れから出すと、「母さん、この女の人、誰や?」と問うので、「母さんなんやけど」と答えると「へー」といって、少年はその写真を見た後、マンガ用の画用紙の裏に一気にその絵を描き上げ、母に手渡すと、スーッと2階へ上がっていった。少年が母にプレゼントをしたのはこれが初めてであった。少年は、第3の事件の犯行の9日前の5月15日から、友が丘中学校には登校せず、母親とともに神戸の児童相談所に通い始めていた。これは、5月13日に同級生を公園に呼び出し、自分の拳に時計を巻き付けて殴り、歯を折るなどの怪我を負わせたため、5月14日に学校から父親が呼び出しを受け、その後、両親が相談の上、学校を休ませ、児童相談所を紹介してもらったためである。暴行の原因は「竜が台の通り魔事件の犯人にまちがいない」と被害者の同級生がいいふらしていたためと少年の仲間は答えているが、少年は「犯行ノート」に「アングリ(聖なる儀式)」を遂行する第一弾として学校を休むことにした」と書いていた。加害者である少年の父親はその後文藝春秋より『「少年A」この子を生んで……』を刊行している。事件後、父親は親戚の元へ身を寄せ、また離婚して苗字を改名した。他にも弟二人がいたが、追及を避けるため、別の土地で暮らす手段が採られた。ある時、被害者への謝罪に関し、警察官は少年の父に対し、「お父さん、2月10日、3月16日の被害者の名前はご存知ですか?」と質問した。これに対し、少年の父は答えられなかった。警察官は、父親に加害者家族の苦痛を斟酌した上で、それ以上に被害者の家族が苦しみながら生きていることを諭した。被害少年の首が学校の校門に晒されるという猟奇的な事件であった点から、マスコミはこの事件の報道を連日行った。この事件は海外においても報道の対象になっている。読売新聞大阪本社版の朝刊では「劇画やアニメの影響を受けた無口な犯人」と報道した。言語学者からは、挑戦状に出てくる難しい熟語は劇画では頻繁に登場し、長文ながら口語調がほとんどない点について、犯人が日頃会話が少ないことの表れと分析している。朝日新聞には多数の意見が寄せられ、「高い教育程度」「孤独な30代」「複数の可能性」などの犯人像が報じられた。5月30日付の朝日新聞大阪本社版の朝刊で「金物店に同型の南京錠求める不審な男性」が浮上と報道した。男性は30代半ばで身長165センチ、ベージュの作業着に紺色のズボンと報道。読売新聞でも、アンテナ基地の南京錠と同じメーカーの錠を求めて5月初め、垂水区内の金物店を訪れた男は30-40歳と報道。しかし、6月23日付の産経新聞で、捜査本部が南京錠を購入するための金物店を訪れた二人の男性は無関係と報道した。したがって、「南京錠を探していた男」の線は無くなった。6月2日付の朝日新聞で「不審なスクーター目撃、『タンク山』へ向かう」という見出しが掲載された。記事によると、タンク山の入り口付近で遺体が発見された前日の5月26日夕方、スクーターで山に向かう不審な男性が目撃されているという。運転していた男性は40代で身長170センチ、眼鏡はかけておらず、白色のジャンバー姿だったという。しかし、スクーターの男性が名乗り出たため、事件とは無関係と判明した。ところが、6月7日付の毎日新聞で、再びスクーターの男が浮上。頭部が遺棄された時間帯に目撃された不審なスクーターがあるという情報が寄せられた。当日は晴れていたにもかかわらず、紺色の雨合羽上下を着用し、つばのある黒いヘルメットをかぶっていた。この男が、前かごから黒いポリ袋を落として走り去ったという。その後の報道で、この男は黒いポリ袋をさげて歩いていた男と同一人物ではないかとされた。一旦は車説が浮上したためスクーター説がなくなったが、再浮上。6月23日付の朝日新聞で、「二輪車タイヤ痕採取」と報道。頭部が置かれる直前の5月27日早朝、正門付近を猛スピードで走るスクーターが目撃されているころが判明。黒のブルーバードに加えてスクーターについても事件に関連している疑いがあるとみて特定を急いでいる、と報道された。しかし、この後にスクーターに関する新たな目撃談は取り上げられなかった。犯行に使用された車として多くの目撃情報が寄せられたのが「黒のセダン」と「白い車」であった。不審車の目撃情報を追ったのは、被害者と犯人

出典:wikipedia

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