リングスは、日本の総合格闘技団体。正式名称はファイティング・ネットワーク・リングス。キャッチコピーは「世界最強の男はリングスが決める」。設立当初は前身である第2次UWFの延長線上にあるようなスタイルからスタートしたが時代の変化にともない徐々に総合格闘技色を強めていった。審議委員制度やランキング制度を導入するなどスポーツ性も重視している。1988年、活動再開した第2次UWFは当時のプロレスとしては画期的な格闘技路線を打ち出して高い評価と支持を得ていた。しかし1990年、団体の経営方式を巡って前田日明や選手側とフロント側が対立するようになり前田は造反のペナルティで出場停止処分を受けたのを契機に新団体設立を模索し始めた。最終的に会社は全選手の解雇を決定して興行活動停止。1991年、前田は主力選手を集め新団体を設立しての再始動を呼びかけたが一部の選手達から賛同を得られなかった。全員の結束を条件としていた前田の思惑は崩れてUWFの解散が決定。その後、選手は前田を残して早々に別団体設立に動きプロフェッショナルレスリング藤原組とUWFインターナショナルの2派に分裂。当時、開局間近だった衛星放送局「WOWOW」はコンテンツの目玉としてUWFと契約する予定でいたが解散により契約は宙に浮いていた。そこでネームバリューのある前田をバックアップすることになり、意気消沈していた前田は本来の受け皿となる筈だった新団体をリングスと名付けて所属選手は自身1人のみという異常事態で立ち上げる事になる。WOWOWはリングスと放映契約を締結。そのおかげで他派と比べて潤沢な資金での運用が可能となった。次いで新日本プロレスと契約寸前だったUWF時代の盟友クリス・ドールマンを説き伏せて外国人選手参加の陣容を整えた。1991年3月14日、赤坂プリンスホテルでリングスの設立を発表。前田は最高経営責任者に就任。5月11日、横浜アリーナで旗揚げ戦を開催。設立にあたり前田は「格闘技ネットワーク構想」を打ち立てた。格闘技の盛んな主要各国に道場を設立し選手を育成して日本で戦わせてノウハウを吸収させ、加盟各国で自主興行を展開させる独立採算方式を確立させた。1991年に設立したリングス・オランダを皮切りに活動停止まで加盟は10ヶ国に上った。当初の加盟国はオランダのみで日本マット界に馴染みの深い北米の選手を招聘しようにもコストや契約面のハードルが高いため他の方法を模索していた。以前、新日本プロレスがペレストロイカ後のソビエト連邦からショータ・チョチョシビリを招聘していた事がヒントになり、前田も「その手があったのか」と構想していて東ヨーロッパ各国との提携に繋がったと述べている。ネットワーク構築により外国人選手の招聘に困ることはなかったがエースであった前田以外の日本人選手は慢性的に不足していた。この窮地を救ったのが正道会館との業務提携である。業務提携していた1991年から1993年まで佐竹雅昭を筆頭に正道会館勢がリングスマットで活躍。この業務提携は第2次UWFからリングスまでの間に築き上げた興行ノウハウを正道会館が吸収する結果となり、後に正道会館が母体となって立ち上げたK-1が誕生する一因ともなっている。リングスの元社員で格闘技関係のブッカーや他団体、競技の運営者として活躍している人物としては、川崎浩市、若林太郎、上原譲、内田統子などがいる。当初は人気団体として定着していたリングスだったがK-1やPRIDEの出現により注目度も下がり1999年2月21日、エースの前田が引退したことで興行で苦戦が続きリングス無差別級王者で専属契約中であったギルバート・アイブルをはじめ国内外の選手とスタッフが相次いで当時話題を集めていたPRIDEへ引き抜かれて、または移籍するなど離脱する。2002年、WOWOWがアメリカの元祖総合格闘技とも言えるUFCと新規に契約してリングス中継を終了してリングスも活動停止。なお以上の経緯で日本国内では活動停止したリングスだが海外ではリトアニアなどリングス・ネットワークの手により大会は継続されて日本国内でもリングス出身スタッフが運営する「リングスKOKルール」を採用したZSTが開催されるなどリングスの系譜は受け継がれている。なおプロの総合格闘技団体として世界的なリングス・ネットワークを越える構想と組織化は未だどこの団体、興行も実現していない。リングス活動停止後、前田はHERO'Sのスーパーバイザーを務めたがHERO'Sの終了後、リングス復活へ向けて動き出した。2008年、リングス主催のアマチュア大会「THE OUTSIDER」を設立。2010年4月3日、「THE OUTSIDER第11戦」で前田は10月11日の横浜文化体育館で復活興行を開催すると宣言。THE OUTSIDERとZST 在日米軍の対抗戦として開催した興行は正式な復活大会とはならなかったがリングスの復活への足がかりとなった。2011年6月20日、前田が記者会見でリングスを再始動すると発表。新生リングスにはTHE OUTSIDER出身プロおよびZSTの選手を中心に他団体やフリーにも参戦を呼びかける一方THE OUTSIDERはリングスのアマチュア部門として継続する。リングスの再始動に先立ち2012年1月22日に選抜大会「バトルジェネシス」も復活させることも発表。さらに2011年11月23日のZSTで新リングスルールが採用される。再始動を目前に控え、リングスと同時期に活動を停止した日本コマンドサンボ連盟の復活も発表。2012年3月9日、後楽園ホールで再始動興行を開催。12月16日、横浜文化体育館でヴォルク・ハンの引退試合が行なわれた。リングスとしての興行は2012年12月16日の興行以降行われていない。初期から前田日明が引退するまでリングスでは前身である第2次UWFルールを主に踏襲していた。グローブなし、ロープエスケープあり、顔面パンチ禁止(掌底はOK)、グラウンドでの打撃は禁止。1エスケープで1ロストポイント、3ロストポイントで1ダウン。5ダウン、15ロストポイント、タップアウト、ダウン後10カウントで敗北。そして時代の変遷にともない、以下のポイントルールに厳格化していった。その後UFCの登場により、バーリトゥードが話題を集めていった。前田はバーリトゥードには否定的であったが、修斗、パンクラス、PRIDEなどが追随する中で、リングスも対応を迫られ、リングス後期にはオープンフィンガーグローブを使用しつつもバーリトゥードから危険な要素を省いた「KOKルール」と呼ばれる1990年代初期の修斗(シューティング)ルールに酷似したルールが採用された。2012年、再旗揚げでは新リングスルールが採用されてパウンドが可となった。かつてはグラウンドでの顔面パンチ(パウンド)を禁じた「KOKルール」を採用していたリングスだが再開に際し採用される新リングスルールはパウンドを認めたものとなる。これにより日本を含め世界中で使用されているMMAの標準的なルールをリングスもようやく採用することになった。しかし前田日明は「総合を見ていて選手たちのダメージが大きかったり、壊れ方が早いのが気に掛かる。総合のルールはまだまだ問題があるし、大会主催者は選手の引退後の生活を奪わないよう配慮しないといけない」とコメントして踏みつけやサッカーボールキックは禁止。「総合を時代のあだ花にしたくない。スポーツの1つのジャンルとして定着させたい。バイオレンスではなく選手のスピリットや技能を見せるものとしてやっていく」と危険な攻撃を禁止にしている。選手団体としてのリングス・ジャパンに所属したのは当初は前田日明とUWFインターナショナルから移籍した長井満也の2人だけであった。1992年に山本宜久と成瀬昌由、1994年に坂田亘と高阪剛らがデビュー。1996年に田村潔司がUインターから移籍。Uインター解散後の1998年には金原弘光、山本健一(現:山本喧一)が移籍して横浜市に構えられた前田道場で練習に励み、徐々に陣容を整えていった。既に選手としての盛りを過ぎていた前田日明に代わり、後継者として期待された生え抜きの山本は伸び悩み、移籍組の田村が日本人エースとして重責を担った。さらに田村が離脱した末期は、金原が「リングス最後のエース」と呼ばれ孤軍奮闘。アメリカのチーム・クエストに所属するランディ・クートゥア、ダン・ヘンダーソン、ブラジルのブラジリアン・トップチームに所属するアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、ヒカルド・アローナ、オランダのドージョー・チャクリキに在籍したピーター・アーツらの初来日はリングスである。またリングス・ロシアやリングス・オランダなどしっかりとした組織があり海外でも大会を開いている。海外ではすでに活躍していたが日本ではまだ無名であった彼らを招聘して日本での活躍の活路を開いた。「世界最強はRINGSが決める」のキャッチコピー通りエメリヤーエンコ・ヒョードルは誰もが認める世界最強の男になった。K-1を主催するFEGが開催していたHERO'Sは当初、ビッグマウスとの協賛で行なわれており当時、ビッグマウス・ラウドスーパーバイザーであった前田日明もHERO'Sスーパーバイザーに就任。FEGが複数契約したヒース・ヒーリングがリングス・USA、ラモン・デッカーがリングス・オランダ、キム・ミンスがリングス・コリア、アラン・カラエフがリングス・ロシア、イアン・シャファーがリングス・オーストラリアの所属を名乗っている。
出典:wikipedia
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