小鶴 誠(こづる まこと、1922年12月17日 - 2003年6月2日)は、福岡県飯塚市出身のプロ野球選手(外野手、内野手)・コーチ。美しい打撃フォームで、風貌もジョー・ディマジオに似ていたことから『和製ディマジオ』と呼ばれた。シーズン打点数・塁打数・得点数の歴代1位記録保持者。飯塚商業専修学校を経て、社会人野球の八幡製鐵所でプレー。軍需工場のため転職が認められていなかったことから、日本大学法学部進学の名目で出身地にちなんだ飯塚誠の偽名を使い、これを登録名に用いてに名古屋軍に入団。場内アナウンスされても、自分のことではないような不思議な感覚だったという。1年目からレギュラーとして活躍。は応召のため球団に在籍しなかった。小鶴は晩年に「大学に進学したのは、大学で勉強するつもりはなく、野球をするために日本大学に通った」と振り返っている。日本大学経済学部修了。に中部日本軍に復帰するものの、に球団代表の赤嶺昌志が辞任に追い込まれると、後を追って退団。急映フライヤーズに移籍した。この間、のちに松竹ロビンスの監督も務めた新田恭一に指導を受け、腰の回転を使いダウンスイングで打つゴルフスイング打法を習得した。肩をいからせ、腕力で打つ選手が多かった当時の強打者の中で、小柄で腕力もない小鶴の腰の回転を利用した円滑なスイングは新鮮であった。新田が元ゴルファーだったこともあり、「ゴルフ・スイング」は当時の流行語となった。しかし同時に、その名称から「下からアッパースイングで打つ打法」という誤解も招いた。に大映スターズに移籍した後、バットを力まずに振る感覚を身につけ、打撃奨励のためのラビットボールと呼ばれる飛ぶボールが採用されたこともあり、飛躍的に打撃成績が向上した。同年は打率.361で首位打者を獲得。、松竹ロビンスに移籍。岩本義行、大岡虎雄、金山次郎らと共に「水爆打線」と呼ばれた強力打線を形成した。この年は前年に生まれた藤村富美男の日本記録の46本を更新する47本を放ち、さらに11月2日の対大洋ホエールズ戦(日生球場)において、3回大洋の今西錬太郎からレフトへ日本プロ野球史上初のシーズン50本目の本塁打を放つ シーズンを通して130試合の出場で打率.355・51本塁打・161打点の成績で リーグ優勝に貢献。本塁打・打点の2冠とシーズンMVPを獲得したが、打率は.362の藤村富美男に及ばなかった。また、この年は28盗塁を記録し、日本球界唯一の50本塁打20盗塁を達成している。当時、この記録はメジャーリーグでも達成者がいなかった。しかしシーズン終盤に椎間板ヘルニアを発症し、日本シリーズでは活躍できなかった。翌からは飛ぶボールの廃止と椎間板ヘルニアの悪化により、成績を落とした。治療法も無い時代であったため、腰の痛みで感覚が無くなる程だったという。川上哲治の「ボールが止まって見えた」という言葉があるが、これは小鶴誠が50本塁打を達成した時に言ったもので知名度のない小鶴では記事にならないからと報知の記者が川上が言った事にしたものである。に広島カープへ移籍。石本秀一監督と樽募金で資金を集めた広島市民の熱意により移籍が実現し、球界の大スター入団に広島の町は沸き返った。往年の力は発揮出来なかったが、この年は自己最多の33盗塁を記録するなど奮闘し、ファンも意気に応えて人気投票1位でオールスターゲームに送り出した。計6年間勝率が低かった当時のチームを支えた。に現役引退。打撃成績のみならず、通算240盗塁を記録した俊足と、守備における強肩も評価が高かった。1958年に現役引退したが、実際は同年のシーズンオフに「チーム若返り策」の名目で戦力外を告げられていた。その時、小鶴は球団代表の河口豪に対して、「(自分より)実力の劣る選手がいるのに何故自分なのか。まだまだ現役でやれる自信がある」「この球団は広島閥が強すぎる」「引退を勧めるならば、コーチ就任の話ぐらいあってもいいのでは」と不満をぶつけている。それに対して河口は「君の性格的にコーチは向いていないだろう。それに現役時代より給料は格段に落ちる。ならば勇退とした方がすっきりとするのではないか」と説得し、小鶴も受け入れた。後に河口は、球団幹部だった松田恒次から、「小鶴に引退してもらったのは白石監督をやりやすくするためだ」と聞かされたという。その後、白石率いるカープは1960年に球団初の勝率5割を達成したが、白石から門前真佐人が監督を引き継いだ1961年~1962年は、チーム成績は低迷し、観客動員数も落ち込んでしまう。危機感を抱いた球団社長の伊藤信之は小鶴を監督として招聘しようとするが、球団役員の意志統一が図れず、伊藤は辞任してしまう。代わって球団社長に就任した松田恒次は白石を監督として再招聘したため、小鶴がカープに復帰する機会は永遠に失われてしまった。引退後はラジオ関東解説者( - )を経て、国鉄・サンケイ( - 一軍打撃コーチ)、阪神(一軍打撃コーチ, - 東京駐在スカウト)でコーチ・スカウトを歴任。阪神時代は投手として入団した桑野議を打者に転向させたほか、掛布雅之の入団テストを担当。球界から離れた後は東京都練馬区でビル管理会社を経営していた。還暦までバッティングセンターに通い続け、毎日200球ほど打ち込み、打撃を追求し続けていたという打撃の職人であった。、野球殿堂入り。6月2日、心室細動の為、東京都豊島区都立大塚病院で死去。満80歳没。
出典:wikipedia
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