バルフ州()は、アフガニスタン北部の州である。面積は1万6186平方キロメートル(34州中17位)、総人口は約124万人(34州中4位)、人口密度は77人/平方キロ(34州中11位)。州都はマザーリシャリーフ。日本の岩手県より少し広い州である。州の北側は平地で、南側は高地になっている。殆どが荒地だが、を水源とするが州の南北を流れており、その周辺のオアシスにだけ緑が広がっている。州都マザーリシャリーフはアフガニスタン屈指の大都市で、中央にはアリー・イブン・アビー・ターリブを祭ったブルーモスクがあり、参拝客を集めている。バルフ州の北は国境であり、トルクメニスタンやウズベキスタン、タジキスタンに接している。西はジョウズジャーン州で、南の台地にサーレポル州とサマンガーン州があり、東はクンドゥーズ州に隣接している。バルフ州の北部は標高が高いアフガニスタンでは珍しく、標高500メートル以下の平野になっている。州の北端には中央アジアの大河「アムダリヤ川」が流れており、川岸には緑が広がっている。その南はトルクメニスタンのカラクム砂漠から続く広大な砂漠があり、乾燥した荒野が続いている。しかし州の中央部を南北にが流れており、東南からはが流れて来る。そのため流域にはオアシスがあり、マザーリシャリーフやバルフ、ホルムのような都市がある。その南は切立った屏風のような山脈になっていて、ヒンドゥークシュ山脈が始まる。特にバルフ川の東側には標高1000メートルから2000メートルの険しい山脈があり、その中にはと呼ばれる山があると言う。一方、西側の山脈は標高1000メートル以下で、丘が折り重なるように続く盆地になっている。またバルフ川沿いの渓谷は標高500メートルで、ショールガラの街がある。その南はまた標高1000メートルから2000メートルの険しい山脈になっている。バルフ州の古都バルフはメソポタミア文明とインダス文明を結ぶ交易路が通っていた為、オアシスの交易国家・都市国家として紀元前から繁栄していた。最初の古代都市は今から約3000年前のバクリ(ヴェーダ語: )である。これは後のアラブ世界では「」()の名で呼ばれており、ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラが埋葬されたことでも知られている。年代については諸説あるが、ゾロアスター教の根本教典『アヴェスター』に登場するので少なくとも紀元前650年より前と考えられており、紀元前15世紀頃から紀元前13世紀頃という説もある。紀元前6世紀にキュロス2世、紀元前4世紀にはアレクサンドロス3世が地域を征服し、その後グレコ・バクトリア王国の首都が出来た。バクリはギリシャ語化されてバクトラ(バクトリア語: )と呼ばれるようになり、ヘレニズム文化が花開いた。中国との交流もこの頃に始まったようである。バクトラはローマ帝国と漢を結ぶシルクロードのルートからやや外れていたので、中国に知られていなかった。しかし紀元前3世紀には大夏の名で知られるようになった。紀元前126年、中国の張騫が大夏の大月氏を訪れた事が司馬遷の『史記』に記されている。7世紀には中国からインドに向かう途中の玄奘三蔵が訪れ、『大唐西域記』に「縛喝国」の滞在記と仏教信仰の様子、肆葉護可汗(しようこかがん)の逸話などを残した。バクトラはイスラムの侵攻後、バルフ(、 )と呼ばれるようになった。しかし1218年のモンゴル帝国の侵攻、1370年のティムールの侵攻()、1447年のティムール朝の内戦()によりバルフは破壊され、東に20kmほど離れたマザーリシャリーフに寺院を中心とした新しい街が出来て、中心地が移った。ちょうどこの頃、マルコ・ポーロやイブン・バットゥータがバルフを訪れた。第二次世界大戦後、アフガニスタン首相のはソビエト連邦やアメリカ合衆国の力を借りて、国内の開発を行おうとした。当初は乗り気ではなかった両国だったが、冷戦対立の下で1950年代後半から本格的な支援を始めた。アメリカはクンドゥーズ空港やマザーリシャリーフ空港、ヘルマンド州のの建設などを支援し、ソビエト連邦はカンダハール・ヘラート間の道路やバグラーン州のプレフムリー・マザーリシャリーフ間の道路、シバルガン・ガスパイプラインの建設などを支援した。なおバフル州は1950年頃はマザーリ・シャリーフ州と呼ばれており現在よりも大きな州だったが、1958年頃にシェベルガーン州を新設し、一部を移譲した。1964年4月に改名されて現在の名前になり、1988年4月に一部をサーレポル州に割譲した。1989年にソ連軍がアフガニスタンから撤退しても、ムハンマド・ナジーブッラーが率いるカブールの共産党政権はなんとか持ちこたえていた。ムジャーヒディーンはカブールを目指して大攻勢をかけたが、戦闘機や戦車を持つ共産党政権軍は強く、「ジャラーラーバードの戦い」で撃退された。しかし1991年にソビエト連邦が崩壊し、状況は悪くなる一方だった。1992年、ラシッド・ドスタムが共産党政権を裏切って、バグラーン州のイスマーイール派教団のサイイド・マンスール・ナーディリーと共にマザーリシャリーフを占領した。ドスタムは1988年に結成されたジョウズジャーン州のウズベク人民兵組織の司令官であり、それまではムジャーヒディーンと戦っていた。ドスタムはムジャーヒディーンのアフマド・シャー・マスードと共にカブールを攻撃し、共産党政権を倒した。ムジャーヒディーンはカブールに数ヶ月限定の暫定政権を作り、のブルハーヌッディーン・ラッバーニーが大統領に就任した。しかし年末に任期を過ぎても辞職しなかった為、イスラム協会の主力部隊であるマスード軍をのグルブッディーン・ヘクマティヤール、のドスタム、イスラーム統一党のアブドゥルアリー・マザーリーが攻撃し、内戦が始まった。ドスタムは総兵力5万人を擁し、ジュマ・カーン・ハムダードやなどと同盟を結び、ジョウズジャーン州やバルフ州を中心に支配地域を作り上げた。ドスタムの支配地域は宗教的に寛容で、女性はヴェールをかぶらずに歩くことが出来、飲酒や映画鑑賞も許されていた。またと呼ばれる航空便があり、対外的にも一種の独立国のようになっていた。アフガニスタンではその後、ターリバーンが誕生し、内戦は三つ巴の戦いとなった。1996年、ドスタムやイスラーム統一党の協力を得たターリバーンは6月にゴール州のイスラム協会軍を蹴散らし、9月にはカブールを占領した。それを見たドスタムらは今度はイスラム協会軍と協力して、ターリバーンと戦い始めた。しかしドスタム軍の内部ではドスタムとアブドゥル・マリク将軍が激しく対立していた。1997年5月、ターリバーンはマリク将軍と協力して、マザーリシャリーフを占領した。ドスタムはトルコに逃亡し、イスラム協会軍もクンドゥーズ州から追われて、ターリバーンの全国征服は時間の問題かと思われた。しかし宗教的に寛容なマザーリシャリーフに対して、ターリバーンはイスラム教の教えを厳格に適用しようとしたために激しい反発が起きた。また武装解除に関する約束違反があったと言う説もある。マリク将軍が離反し、イスマーイール派教団とイスラーム統一党軍が蜂起し、イスラム協会軍がサラン峠を封鎖して退路を断った為、マザーリシャリーフのターリバーン軍は大敗した(第一次)。この際、多数のターリバーン幹部が死亡した為、この後の戦闘は凄惨な物になっていった。9月、ターリバーンが再度侵攻してきたが、ドスタムがトルコから戻ってきて撃退した。12月、ターリバーンはバードギース州から侵攻を試みた。ドスタムは一時はターリバンを押し戻したが、逆襲されて1998年6月にファーリヤーブ州やジョウズジャーン州を失った。8月、ターリバーンはヘクマティヤール派の内応などによってマザーリシャリーフを占領し、前回の報復としてハザーラ人などを虐殺した(第二次マザーリシャリーフの戦い)。同年、アフガニスタン北東部で地震や旱魃が続き、数千人が死亡した。1999年からは国際連合の制裁が始まり、それに反発したターリバーンは2001年2月、バーミヤーン州の仏像を破壊して力を誇示した。2001年9月、アメリカ同時多発テロ事件が発生し、10月にはアメリカ合衆国がアフガニスタンに侵攻し、有志連合や北部同盟と共に戦闘を開始した。ドスタムは北部同盟に加盟し、11月にバルフ州からターリバーンを追い払ったが()、その時手を貸したムジャヒディーンがアタ・モハマド・ヌールである。アタはバルフ州のイスラム協会軍の指揮官で、1992年にドスタムが共産党政権に反旗を翻すとドスタムと共闘した。その後、内戦が始まると袂を分かち、マザーリシャリーフを巡ってドスタムと一戦を交えた人物である。タリバンを追い払った後、ドスタムはアフガニスタン北部を再び支配しようとしたが、アタもまた野心を持っていた。ドスタムとアタは約2年間、バルフ州やその周辺で小競り合いを続けた。2003年10月、戦闘は本格化し数十人の死者が出た為、国際社会や政府は2人の戦争卿(英語: warlord)に圧力をかけて戦争を中止させた。調停の結果、ドスタムは州内ではマザーリシャリーフだけを得て、それ以外は手放ざるを得なくなった。国際社会と政府は武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)を進めて、ドスタムとアタから兵士や武器を取り上げた。更に政府はドスタムの支配地域を解体しようとしたので、怒ったドスタムは2004年4月にファーリヤーブ州の州都を占領して抗議した。バルフ州では2004年7月にアタが州知事に任命された。ドスタムは国防次官を解任されそうになったので、辞職して2004年の大統領選挙に出馬し、バルフ州では3位(約23%)になった。2005年3月、カルザイ大統領はドスタムを参謀総長に任命した。しかし2007年5月にドスタムの本拠地のジョウズジャーン州で警察がドスタム派のデモ隊に発砲し、数十人の死傷者が出るなど、軍閥解体の動きは続いた。2005年のバルフ州では第一回の下院選挙が行われ、武装解除も進んでいた。しかしバルフ州は北部最大の麻薬の生産地であり、生産量が急増していた。アタ知事は英国のシンクタンクが考案した「ケシ撲滅計画」を実行して、3年間で生産量をゼロにしてケシ・フリーを実現した。また日本などの援助によって2006年から2007年の間に300校以上の学校を建設し、病院や道路を整備して民心を掴んだので、2009年の大統領選挙の前にアタ知事の権勢は絶大な物になっていた。一方、ドスタムはタリバン兵捕虜の虐殺事件がアメリカで問題になり失脚しそうになったが、カルザイ大統領に恭順の姿勢を示して何とか切り抜けた。2009年、第二回の大統領選挙が実施され、バルフ州ではアタ知事が応援するアブドラ・アブドラ元外相(約12万票)が、ドスタムが応援するカルザイ大統領(約11万票)を抑えて1位になった。しかし結局カルザイ大統領が再選したので、アタ知事らは大いに悔しがった。2010年、第二回の下院選挙(Wolesi Jirga)と州議会選挙が行われた。2011年、鉄道が開通し、天然ガスの供給や石油採掘計画が始まった。しかし4月にアメリカ人牧師のコーラン焚書活動に対する抗議デモが暴徒化し、爆弾テロが頻発した。バルフ州には民族毎に組織された違法な民兵がおり、麻薬ビジネスや組織犯罪に関わっている。また車両強盗や押し込み強盗、反政府活動などもあり、治安は良くない。2011年にはアメリカ人牧師のコーラン焚書活動に対する抗議デモが暴徒化して、国連事務所の外国人職員が殺害される事件が起きた。バルフ州は、2市14を擁する。名称は各郡の中心都市に寄り、各郡に郡長が居る。人口が最も多いのは州都のあるマザーリシャリーフ郡(約37万人)である。しかし古都バルフのあるバルフ郡(約12万人)やその北にある郡(約10万人)の人口も多い。またバルフの南側の台地にも多くの住民が暮らしており、郡(約9万人)や郡(約11万人)がある。人口1万人以上の都市はマザーリシャリーフ(36万8100人)、ホルム(4万7200人)、バルフ(1万4700人)、ダウラターバード(1万300人)、ショールガラ(9900人)である。アフガニスタン屈指の小麦と大麦の産地で、ザクロや綿花などを産出する。ウズベキスタンなど中央アジアへの玄関口であり、交通や貿易、流通の拠点である。バルフ州は農業が盛んで、農業収入が家計収入の4割(42%)を占めている。バルフ州は雨が降らない地域でも灌漑によって水が供給されており、一説によると農地として利用できそうな土地は約292万(約58万ヘクタール)に及ぶと言う。それらの土地はバルフ郡の周辺に広がっており、台地上のチムタール郡やショールガラ郡(約12万ヘクタール)、平野部のダウラターバード郡(約7万ヘクタール)などの面積は広い。農地では穀物や野菜、果物、商品作物などが栽培されており、特に小麦(34州中2位)や大麦(34州中1位)の生産は全国的に見ても盛んで、米もかなり生産(34州中7位)されている。一説によると、小麦の農地は20万5000ヘクタールに及び、日本の岩手県の耕地面積(15万4000ヘクタール)よりも広い。大麦(2万4000ヘクタール)や米(1万ヘクタール)を合わせると、かなり広大な農地が広がっているようである。一方、トウモロコシ(34州中21位)の生産は比較的少ない。また種実類の木もあり、アーモンド(34州中7位)がかなり生産されている。ゴマや綿花、タバコなどの商品作物も増えており、特に綿花(16州中2位)の生産は盛んである。果物はザクロ(34州中2位)の生産が盛んで、桃やりんご(34州中6位)、グレープフルーツ(34州中8位)もかなり生産されている。その他にアマ、メロンやスイカ、ピスタチオなどが栽培されており、ケシや大麻の畑もある。麻薬栽培は政府の取り締まりにも関わらず、軍閥の庇護によって半数以上が残っていると言う。農家の年収(平均350ドル/世帯)を増やす為に、付加価値の高い農産物への転換や農産業の育成が進められている。アフガニスタンには150万人の遊牧民がおり、国内を移動している。バルフ州にもなどの遊牧民がおり、夏季には6万人、冬季には5万人が滞在する。例えば夏になると、西隣のサーレポル州から120家族のコチ族がやって来ると言う。また越冬のために短期滞在する遊牧民も多い。西の台地のチムタール郡や東の山間のマールムル郡、チャールケント郡の荒野には牧草や低木が生えており、放牧に適しているようである。また郊外住民の6割も牛やロバ、家禽、羊やヤギなどを飼育している。バルフ州には大規模な工場は無いが、羊の毛皮をカラクール・スキンに加工する工場がある。また牛乳の生産や羊毛を使った手織りの敷物やカーペット、肩掛け、宝石などの工芸品の製造も行われている。一方、マザーリシャリーフには国内屈指の小麦・小麦粉市場があり、多数の卸売業者や小売業者が居る。アフガニスタンは小麦を自給自足できないので、パキスタンや中央アジアから大量に輸入している。カザフスタンやウズベキスタンから輸入された小麦や小麦粉は一旦マザーリシャリーフに蓄積されてから、アフガニスタンの北部や中央高地、首都カブールに運ばれる。マザーリシャリーフの穀物流通はヘラートと比べると、非常に広域的である。またアフガニスタンでは貴重な製粉工場が稼動している。バルフ州の西隣のジョウズジャーン州やその南にあるサーレポル州はトルクメニスタンの地底から数百キロ続く広大なアムダリヤ堆積盆地(Armu Darya Basin)の南端に位置し、天然ガスや石油を産出する。マザーリシャリーフにはガス田からパイプラインで天然ガスが供給されており、発電などに使われている。一方、バルフ州の辺りからはアフガン・タジク堆積盆地(Afghan-Tajik Basin)が始まっており、こちらにも大量の資源があると予想されている。今後、ドバイのやアフガニスタン企業のガザンファー(Ghazanfar)、トルコのが試掘を行う予定である。バルフ州には2213キロメートルの道路があるが、そのうち舗装されているのは246kmに過ぎない。砂利道を入れても458kmであり、約8割は未舗装である。そのためどんな季節でも使える道路は約4割に過ぎず、約3割の地域には道路すら無い。一方、バルフ州の東西には幹線道路のアジアハイウェイ76号線が走っており、ヘラートやカブールと繋がっている。76号線はマザーリシャリーフとホルムの間で分岐し、ハイーラターンを経由してウズベキスタンと繋がっている。また(マウラーナー・ジャラールウッディーン・バルフ国際空港)とハイーラターンの間には鉄道があり、カスピ海横断鉄道と繋がっている。バルフ州の多数派はタジク人とパシュトゥーン人だと言われている。その他にはウズベク人、ハザーラ人、トルクメン人、アラブ人、が続く。州内の民族の分布は諸説ある。例えばソビエト連邦の「Atlas Narodov Mira」(1964年)によると、州南部のバルフ川周辺や東部の周辺にはパシュトゥーン人が居り、中部のマザーリシャリフとその周辺はタジク人、北部のアムダリヤ川周辺はトルクメン人、それ以外はウズベク人の領域になっている。一方、アフガニスタン中央統計局(1985年)の情報を使用したAIMSの地図(2006年)によると、南部はパシュトゥーン人ではなくハザーラ人(3郡)、中部はタジク人(9郡)、北部はトルクメン人(3郡)が最も多い。どちらの情報でもウズベク人は比較的少数派であり、ウズベク人の領域はファーリヤーブ州(6郡)、ジョウズジャーン州の南部(3郡)やサーレポル州の北部(2郡)、サマンガーン州(1郡)にあるようだ。数字に重複があるようだが、バルフ州の主要言語はダリー語(58%)とパシュトゥー語(27%)であり、ウズベク語(11%)とトルクメン語(12%)が続く。識字率は27%である。バルフ州には小学校が109校、中学校が219校、高校が142校ある。生徒数は約45万人で、4割以上が女子生徒である。ただし学生登録しているのは、児童の約半数である。またコチ族は定住していない為か、冬になると学校に来る生徒が半減する。そのためコチ族の6%しか字が読めず、バルフ州の識字率を約27%に押し下げる要因になっている。一方、名門高校が幾つかあるようで、11人居る下院議員のうち3人がマザーリシャリーフのバークタ高校(Bakhtar High School)を卒業し、女性議員2人とガザンファー大臣(女性省)はスルタン・ラジア女子高校(Sultan Razia High School)を卒業している。高等教育はバルフ大学があり、この他に農業や科学技術の高等専門学校がある。2011年現在、バルフ州には500床以上の入院施設のある州立病院が7つあり、郡病院も8つある。この他に89の健康センターがあり、392人の医者と581人の看護師、619軒の薬局がある。しかし10万人当たりの医師数は3人にすぎず、医師は不足しているようだ。アフガニスタンでは2010年に2回目の下院選挙(Wolesi Jirga)と州議会選挙が行われた。バルフ州では定数11(クオーター制による女性議員枠は3)に対して82人が立候補し、現職5人・新人6人が当選した。州内の投票率は約45%で、総投票数は25万4569票だった。当選者はタジク人が最多(7人)で、ハザーラ人(3人)とパシュトゥーン人(1人)が続く。アフガニスタンでは政党政治が発達していない為か、表向きは無所属議員が多いようである。しかしタジク人の当選者はイスラム協会(7人)の関係者である。またタジク人の当選者は州知事や州議会議長、局長などの公職経験者が多く、知事の腹心や血縁者も居る。一方、得票数が多いのはハザーラ人で、上位二名は企業グループを経営している。日本は2002年に緒方イニシアティブを定め、「復興に向けた総合開発のモデル地域」としてマザーリシャリーフを優先地域に指定して重点的に支援してきた。その後バルフ州やナンガルハール州、カンダハール州の他にバーミヤーン州が加わり、4州を開発支援重点地域に指定して援助を行っている。バルフ州では小学校や中学校の建設、水路や道路の建設、診療所や州立病院、医学部の支援を行っている。
出典:wikipedia
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