ポーランド亡命政府(ポーランドぼうめいせいふ、)は、1939年のポーランド侵攻およびナチス・ドイツ・ソビエト連邦からの国土の占領によりポーランド第二共和国政府は消滅し組織された亡命政府である。ポーランド亡命政府は、と国内軍の組織構造を通し第二次世界大戦期間に影響力があったとされる。終戦後、ポーランドはソ連の衛星国ポーランド人民共和国の管理下となり、亡命政府は存在したが影も薄く影響力も無かった。共産主義支配の終了後、亡命政府は正式に責務を新政府の第3共和制に移行した。ポーランド亡命政府は、1939年にパリで発足し、1940年にアンジェに移転。その後1940年から90年まで、冷戦期を通してずっとロンドンを拠点とした。独ソ両国のポーランド侵攻を受け、1939年9月17日、ポーランド大統領イグナツィ・モシチツキは上院議長ヴワディスワフ・ラチュキェヴィチを、憲法規定に従い後継指名する。9月30日、モシチツキの辞任を受けたラチュキェヴィチは亡命先のパリにおけるポーランド大使館で大統領への就任を宣誓し、首相にヴワディスワフ・シコルスキを任命。ポーランド亡命政府が発足する。ポーランド海軍の大部分は脱出していたためこれを指揮下に収め、さらに脱出に成功した一部の陸軍将兵も指揮下に入る。翌年アンジェに移転。そしてフランスが降伏しヴィシー政権が作られるとロンドンに移された。1939年、ソ連のポーランド侵攻により亡命政府はソ連と外交を断絶する。殆どのポーランド海軍は英国へ逃げた。数万のポーランド軍人らはハンガリーやルーマニアを越えて逃げフランスで続けて戦った。多くは同盟国ノルウェー軍の戦いに参戦した。バトル・オブ・ブリテン、大西洋の戦い (第二次世界大戦)、アフリカではトブルク包囲戦、イタリアのアンコーナやモンテ・カッシーノの戦いなど他の同盟国と共に戦った。ポーランドとソ連は、により、ソ連管理下に置かれたポーランド市民の解放およびナチスドイツに抗戦する同盟軍の軍隊を組織する。亡命政府は政治的には、ポーランド農民党、ポーランド社会党(PPS)、労働党、の連立となった。1940年11月、シコルスキはチェコスロバキア亡命政府との同盟に調印した。シコルスキの政治的ゴールは、ポーランド・チェコスロバキア連合国()から始る中・東欧連合( Central and Eastern European federation、)だった。Międzymorzeの中・東欧連合に参加招待された国は、バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)、フィンランド、ベラルーシ、ウクライナ、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビア、チェコスロバキア。1941年、ドイツがソ連を攻撃した。これを期に亡命政府はソ連との外交関係を築く。1941年12月11日、ポーランド亡命政府が日本に宣戦布告した。1939年、数万のポーランド軍人は捕虜となる。ポーランド市民や流罪人は釈放され、国内軍を組織するのを許可された。国内軍はイランや中東に退避、そこではエルヴィン・ロンメルのドイツアフリカ軍団の抗戦(北アフリカ戦線、ガザラの戦い)において英国側が必要としていた。この軍隊は、後にとなり同盟国と共に戦う。戦時中、特に1942年にユダヤ人のホロコースト進行中の同盟軍に派遣した1943年、ドイツはカティンの森で多数の死体を発見した事を公表した。ソ連は、ドイツの陰謀と公表、亡命政府はソ連の発表の受け入れを拒否。スターリンは亡命政府と関係を断絶した。ドイツからポーランドを解放するには西側諸国ではなくソ連になるのは明白であった為、 不履行は必然的な成り行きとなった。1943年、亡命政府とポーランド軍のリーダーであったシコルスキを含む政府・軍関係者13人が飛行機事故()で亡くなった。1942年 - 1945年、ロンドンのポーランド亡命政府内に、ユダヤ人救済委員会の「ジェゴタ()」は組織された。このメンバーには、後の外務大臣(1999-2001年)ヴワディスワフ・バルトシェフスキを含む。1943年 - 1944年、同盟国のウィンストン・チャーチルはソ連と亡命政府の会談再開を試みたが、幾つかの問題(、領土権問題など)により放棄された。亡命政府の党首ミコワイチクは領土問題において拒否した。1944年8月には東側からナチスドイツを攻めるソ連の呼び掛けに応じ亡命政府の国内軍主導によるワルシャワ蜂起となる、11月ミコワイチクはソ連に不信を持つにも関わらず辞任、ポーランドに戻りソ連占領下の新政府のにおいて副総理となり、首相は社会主義者のモラフスキ、もう1人の副総理は共産主義者のリーダー ゴムウカとなる。第二次大戦終了時、亡命政府はワルシャワの共産主義政権(『ルブリン政権』)と共同歩調を取ると思われたが表舞台から退いた。1945年6月、亡命政府と共産主義系のルプリン政権が合同し、国民統一臨時政府(RTRP) ()が成立した。ルブリン政権発足当初は、 (ソ連のNKVDエージェント)が国家法議会議長に就任し、労働者党書記長をヴワディスワフ・ゴムウカが務めた。1945年7-8月のポツダム会談までにポーランドはソビエト勢力範囲となり、亡命政府の放棄は西欧の背信行為()という発想が高潮した。1945年7月、英国とアメリカ合衆国は亡命政府に対する正統政府としての承認を取り下げた。1945年、国内軍は解散、ソ連の傀儡政権であった共産政権側が亡命系の大臣や政治家の逮捕や国外追放などで安全な帰国ができず多くの構成員は他国に移民し、ロンドンのポーランド人はポーランド大使館から撤退しなければならなかった。東欧革命の流れで1990年に共産主義政権が崩壊、レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)政権(ポーランド第三共和国)が成立した。これにともない、亡命政府大統領のリシャルト・カチョロフスキはそれまで保持していた政権の正統性を示すレガリア(1918年ポーランド憲法〈ポーランド第二共和国憲法〉正文、ポーランド国旗正旗など)を第三共和国へと承継し、その役割を終えて消滅した。ワレサ政権は成立式典にポーランド亡命政府を招き、自らを第二共和国の正統な後継者として位置づけたが、前共産主義政権のヴォイチェフ・ヤルゼルスキ前大統領の式典招待はなかった。
出典:wikipedia
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