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国旗団 (ドイツ社会民主党)

国旗団(こっきだん)は、ヴァイマル共和国時代のドイツ社会民主党の準軍事組織。帝国国旗 黒・赤・金("Reichsbanner Schwarz-Rot-Gold")、帝国国旗団とも。なお、日本では国旗団と訳されることが多く、帝国国旗団と呼ばれることもある(「帝国国旗 黒・赤・金」はドイツ語名称の直訳であり、少なくとも現在の日本ではほとんど使用されない呼称である)。1923年、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の突撃隊(SA)やドイツ共産党の赤色戦線戦士同盟のようなヴァイマル共和政に反対する右翼・左翼政党の準軍事組織が武力蜂起を起こした(ナチ党はミュンヘン一揆、共産党はハンブルク一揆()をそれぞれ起こす)。ヴァイマル共和政誕生からいまだ日が浅く不穏な情勢が続く中、ドイツ社民党をはじめとするヴァイマル憲法およびヴァイマル共和政を支持する者たちは1924年に準軍事組織「国旗団」(Reichsbanner)を発足させた。当初は社民党だけの準軍事組織ではなかったが、当時から隊員90%以上は社民党の党員たちであり、実質的に社民党の準軍事組織だった。後に正式に社民党の下部組織となった。国旗団は第一次世界大戦に出征した退役軍人の連合会でもあった。本部はマクデブルクにおかれた。国旗団の目的は、国家社会主義者・共産主義者・君主制復古主義者のいずれとも戦い、ヴァイマル共和制を守ることにあった。社民党の政治家オットー・ヘーシンク()は1931年に国旗団を"「鉤十字(ナチ党)及びソビエトの星(共産党)と戦い、ヴァイマル共和政と民主主義を守護する非狂信者の防衛組織」"と定義している。国旗団の隊員は1848/49年ドイツ革命()と憲法で定められたヴァイマル共和国の国旗色「黒、赤、金」の守護者を自負していた(一方保守・右派勢力はドイツ帝国時代の国旗「黒・白・赤」の守護者を自負した)。国旗団の団長ははじめドイツ社民党の政治家オットー・ヘーシンク()が務め、その代理がカール・ヘルターマン()だった。後にヘルターマンが団長となった。組織の記録によれば国旗団は1932年の時点で300万人もの隊員数を抱えていたという。青年組織として青年国旗()が存在した。また1931年には国旗団から様々な新しい組織が生まれた。「労働者体育及びスポーツ連合会((ATSB))」、社民党系労働組合連合「ドイツ労働組合総同盟( (ADGB))」、そしてもう一つの社民党の準軍事組織「鉄の戦線()」などである。ナチ党の突撃隊員や共産党の赤色戦線戦士同盟隊員の暴力活動がますます拡大する中、国旗団の役割はますます重要となっていった。1930年の国会選挙でナチ党が大きく躍進。それまで共産党や赤色戦線戦士同盟との抗争に力を入れていた国旗団であったが、この頃からナチ党の突撃隊との抗争に力を入れるようになった。国旗団の団長カール・ヘルターマンは突撃隊を敵ながら見事な組織と評価し、突撃隊にならった組織再編をおこなった。国旗団の活動部隊を「主要隊(Stammformationen(Stafo))」とエリート隊員を選抜した「防衛隊(Schutzformationen(Schufo))」に分割した。国旗団の主力である防衛隊(Schufo)は1931年春の時点で25万人の隊員があった。防衛隊はナチ党が政権を掌握した場合に武力抵抗運動を起こす事を想定して訓練をおこなっていた。ナチ党政権掌握前にはヴァイマル共和政擁護派が多かった警察から警察官を軍事教官として派遣してもらい、小銃や機関銃の射撃訓練、衛生兵の養成、政治学習、野戦や市街地戦の訓練などを盛んにおこなった。負傷隊員を治療する病院や、戦闘部隊への補給センターまで備えていた。抵抗計画の作戦も練りに練っていた。たとえば国旗団のマクデブルクの本部では、ナチ党が一揆か、あるいはそれに近いやり方で政権を掌握した場合、ただちに鉄道分岐点を占拠し、鉄道道路と主要道路を封鎖し、さらに橋梁を爆破し、電話線を切断することとしていた。それを可及的速やかに実行する部隊が防衛隊であった。しかし穏健な社民党本部はこうした国旗団や防衛隊の「兵隊ごっこ」をあまり好ましく思っておらず、防衛隊結成からしばらくして党の許可なしに武器を集めることを禁止した。社民党党首オットー・ヴェルスはヴァイマル共和政が危険な事態となれば、ヴァイマル共和政を守るために警察が自ら武器を我々に供給してくれるだろう、などと甘い考えを持っていた。ヘルターマンはヴェルス以下社民党幹部の危機意識のなさに呆れ、党本部の意向を無視して隊員に独自に武器を集めることを許可し、防衛隊員には最低でも拳銃を所持させた。なお国旗団の武器の出所はたいてい警察だった。1932年7月、保守派のドイツ首相フランツ・フォン・パーペンは、社民党のオットー・ブラウンが首相を務めるプロイセン州政府に対して「プロイセン・クーデタ」を起こし、ブラウン以下社民党系のプロイセン州要人を強制的に追放して社民党やヴァイマル共和政派の砦としてのプロイセン州を破壊した。パーペンが非民主的なやり方でプロイセン州の政権を強奪したと判断した国旗団は武装蜂起の準備を開始したが、社民党系の労働組合である労働組合総同盟(ADGB)が武装蜂起に反対して妨害してきたため、結局断念している。つづく1933年1月30日、国会で第一党を占めていたナチ党の党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命された。社民党にも労働組合総同盟にも国旗団にも衝撃が走った。ヘルターマンはただちに抵抗組織を編成する予定の隊員達に待機命令を出し、軍需工場から各都市の隊員たちへ武器の輸送を急がせた。社民党や労働組合総同盟の各支部にも蜂起やゼネラル・ストライキの準備に入るところが多かった。しかし社民党党首ヴェルスはゼネストや蜂起に懐疑的で、「もろもろの決起計画、とりわけ夢想家の国旗団団長ヘルターマンの一派が主張しているような計画は素人の生兵法である。ヒトラー首相就任前まで党が立てていた蜂起計画はすべて警察が協力してくれることが前提になっていた。しかしすでに警察も国防軍もヒトラー側についている。わずかな武器で国防軍と警察と突撃隊と鉄兜団に挑もうなど正気の沙汰ではない」と一蹴した。また与党のナチ党とドイツ国家人民党は国会で合わせて過半数近くを握っているが、社民党は全議席の五分の一強を獲得しているに過ぎなかった。第二党の野党社民党が国民から一番信任されている第一党の与党ナチ党を武力で打倒することなど民主主義を標榜する社民党には考えられなかった。そもそも国旗団からして「もし次の選挙でヒトラー内閣が多数を占めたとしても、それは民主主義的手続きに従って決定された国民の意思なのである」と論評していた。ヒトラー内閣が誕生してまもない1933年2月1日には国会が解散され、選挙戦に突入していた。社民党は武装蜂起やゼネストを選択せず、「投票用紙でファシズムと戦う」ことを明言した。国旗団は社民党の党集会の警備にあたった。また1933年2月17日から18日にかけて国旗団はベルリンで最後の同盟総集会を開催した。社民党員や国旗団などの努力の下、3月5日の選挙で社民党は1議席減らしただけの120議席で踏ん張った。しかし対するナチ党は過半数に近い288議席を獲得し、国家人民党と合わせて過半数を超えていた。この選挙の直後にナチ党政権は国旗団と鉄の戦線の活動を禁止した。6月には社民党そのものも解散が命じられた。社民党や国旗団の残党はナチ党政権によって次々と狩られ、強制収容所へと送られていった。国旗団の一部は地下に潜って社会民主主義のレジスタンス組織となった。ハンブルクでテオドール・ハウバッハ()らが組織した「社会主義戦線」などがその一例である。

出典:wikipedia

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