呂壱(りょ いつ、? - 238年?)は、中国三国時代の呉の臣。孫権の治世に、諸官府および州郡の文書監査官に任ぜられた。しかし呂壱は苛烈な性格で、法を振りかざして厳格に適用する所謂「酷吏」であり、些細な罪であっても必ず上奏して糾弾した。その上、私怨による讒訴もあったため、多くの重臣が罪に陥れられた。主な件には、顧雍・朱拠・鄭冑・习嘉といった家臣らが讒訴を受けた記録があるが、それぞれ釈放されている。また、各種の専売利益をほしいままにしたという。潘濬は呂壱の専横を憎み、建業まで出向くと百官を集めて会合を開いた。自ら殺人の罪を被ることで、国のために憂いを除こうと呂壱の殺害を計画したが、計画を知った呂壱が病と称して会合に来なかったため、果たせなかった。その後も孫登・歩騭・李衡といった家臣らが、度々呂壱の悪事を上奏したため、赤烏元年ついに孫権に捕縛された。呂壱の悪事を憎んでいた人々は、彼を面前で侮辱したり、惨刑をもって処刑することを望んだが、顧雍と闞沢はこれらのリンチ行為を許さず、法に従って適切に処刑したという。その後、孫権は中書郎の袁礼を重臣のもとに遣わし、時事について意見を求めたが、既に重臣たちは呂壱の讒訴ばかり信用した孫権を信用せず、何も意見を言上しなかった。これを憂いた孫権は、意見を挙げようとしない重臣たちを逆に責める詔を出す騒ぎとなり、呂壱の死後も国政は大いに混乱した。
出典:wikipedia
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