セイウンスカイとは日本の競走馬である。1998年にスペシャルウィーク、キングヘイローらを相手に皐月賞、菊花賞の二冠を達成した。菊花賞では逃げて当時の芝3000メートルの世界レコードを樹立している。引退後は種牡馬となったが、2011年8月16日、繋養先の西山牧場(北海道日高町)で死亡した。※馬齢は旧表記(数え年)に統一する。1995年4月26日、北海道鵡川町(現むかわ町)の西山牧場で誕生した。誕生当時の西山牧場は、創業者である西山正行の方針により、最大246頭もの繁殖牝馬と、自家繋養の種牡馬や種付け料が安価な種牡馬の産駒を中心とした大量生産体制をとっていたが、それに伴う管理費の肥大化や繁殖牝馬の血統更新の停滞、導入した種牡馬の失敗などの影響により不振に陥っていた。翌1996年、息子の西山茂行が牧場経営の主導権を握ったことを皮切りに、それまでの大量生産体制から少数精鋭体制への転換を試みて、自家繋養の種牡馬をほぼ売却、繁殖牝馬も1998年までには約200頭近くを処分していた。セイウンスカイの父・シェリフズスターもこれ以上の成果を期待できないと判断されて廃用となり、残された産駒も次々と売却されていった。その結果、調教師の要望で売り残した3頭の産駒のなかに、セイウンスカイと、後に日経賞で2着となるセイウンエリアがいた。育成段階でもとくに目立つところは見せず、当初入厩先として話を進めていた栗東のとある調教師は、結局入厩拒否のような形で、セイウンスカイを受け取りには来なかった。その後、調教師免許を取得したばかりの保田一隆が、定年で引退する父親の保田隆芳と入れ違いに厩舎を開業するため、入厩馬を探して父の代から付き合いのある西山牧場を訪れた。しかし、入厩が決まっていない2歳馬はセイウンスカイを含めて4頭しか残っていなかった。当時のセイウンスカイは馬体のバランスが悪く、毛色もくすんだ印象のため見栄えがしなかったが、入厩馬のバランス上どうしても牡馬が欲しかったことに加え、シンボリ牧場由来の母系の良さに変わり身を期待して、セイウンスカイを引き取ることにした。その後成長したセイウンスカイは、3歳の秋には見違えるほどバランスが良くなり保田を驚かせたが、同時に気性の激しい面を表すようにもなった。1997年10月1日、美浦の保田厩舎に入厩する。調教を積むごとに素質を見せ、かつて2冠馬ミホシンザンの調教をつけていた調教助手の青柳義博に、「これは走る」という印象を抱かせるようになった。12月の新馬戦に出走するプランもあったが、万全を期して翌年のデビューとなった。1998年1月5日、中山6R芝1600mの新馬戦で鞍上に徳吉孝士を迎えてデビューする。血統が良くないことから評価は低く、またフルゲート16頭の大外枠を引いたこともあって、単勝5番人気だった。しかし、道中3、4番手につけ第3コーナーで先頭に立つと、そのまま押し切り後続に6馬身差をつけて優勝した。さらに続くジュニアカップでも3番人気と評価は低かったが、評判馬のメガヒットらを相手に逃げ、5馬身差をつけ連勝。低評価から一変、クラシック候補へと名乗りを上げた。重賞初挑戦の弥生賞は、ジュニアカップ出走後から悪化したソエによる影響で、十分に調教が積めない状態での出走となった。レースではジュニアカップ同様逃げるものの、最後の坂でスペシャルウィークに半馬身差しきられて2着に敗れた。この弥生賞以降、スペシャルウィーク、キングヘイローとあわせて、1998年牡馬クラシック戦線の3強を形成する。また、この敗戦により、それまで主戦騎手だった徳吉孝士が馬主サイドの西山茂行らの意向で鞍上から下ろされ、代わりに「開業したばかりの厩舎の主戦になってくれる騎手を」という保田の要望から横山典弘が主戦騎手となった。3冠第1戦の皐月賞では、スペシャルウィークに続いて単勝5.4倍の2番人気に押された。ゲート入りでは嫌がる素振りを見せたが、道中はコウエイテンカイチを先に行かせて2番手を追走、第4コーナー手前で先頭に躍り出ると、キングヘイローとスペシャルウィークの猛追を抑え一冠目を制した。西山牧場にとっては初の牡馬クラシック競走制覇であり、鞍上の横山もクラシック初制覇となった。また、調教師の保田は開業2年目のG1出走にして、初のG1制覇となった。皐月賞後、枠入り不良で発送調教再審査となったがゲート試験を一発で合格した。また、さらなる上積みを求めて、藤沢和雄厩舎のタイキエルドラドや小西一男厩舎のスピードワールドと併せ馬を行い、東京優駿(日本ダービー)に向けての調整を行った。6月7日のダービーでは、皐月賞がフロックとみられたためか、スペシャルウィーク、キングヘイローに続く3番人気だった。レースはまずキングヘイローが逃げを打ち、セイウンスカイは2番手につけて直線を迎えた。しかし、息の入らない流れになったためか手応えがなく、一瞬先頭に立ったものの後方に控えていたスペシャルウィークに突き放され、勝ち馬から1秒遅れの4着に敗れた。ダービー後、セイウンスカイは故郷の西山牧場で夏を過ごした。馬主の西山は秋に天皇賞への出走を視野に入れていたが、最終的には調教師の意見が通り菊花賞への出走が決まった。セイウンスカイの秋緒戦は古馬との混合重賞である京都大賞典に決まった。当時の菊花賞への王道は4歳限定の重賞競走である京都新聞杯だったが、京都新聞杯でゲート再審査となった場合に日程的に菊花賞に出走できなくなるため、セイウンスカイのゲート難を考慮してこの選択となった。この年の京都大賞典は、メジロブライト、シルクジャスティスのG1馬2頭のほか、ステイゴールドやローゼンカバリーといった強豪馬も出走しており、7頭立ての4番人気という低評価であった。レースでは、好スタートから果敢に先手を奪うと、2ハロン目から11秒0 - 11秒2のラップを刻み、その後も12秒台前半のラップで大きく後続を離して逃げる形となった。第3コーナー手前で13秒0 - 13秒5と一旦ペースを落として後続を引きつけたのち、最後の直線で再び後続を突き放し、ラスト2ハロンを11秒1 - 11秒5でまとめてこの年の春の天皇賞優勝馬メジロブライトをクビ差抑えて勝利した。11月8日に迎えた菊花賞では、セイウンスカイは単勝4.3倍の2番人気に支持された。レースは5分のスタートから気合をつけてハナに立つと、馬の行く気に任せて前半1000メートルを59秒6という暴走ともいえるハイペースで進んだ。中間の1000メートルで64秒3と一気にペースを落とし、2週目の坂の下りから早めのスパートを仕掛けると、セーフティーリードを保ったまま最後の1000メートルを59秒3で駆け抜けて、スペシャルウィークを3馬身半離して勝利した。3000メートルの長丁場を逃げ切るのは至難の業であり、菊花賞の逃げ切り勝ちは1959年のハククラマ以来38年ぶりのことであった。また、このときの優勝タイム3分3秒2はレースレコードであり、当時の3000メートルの世界レコードでもあった。同年末の有馬記念ではデビュー以来初の1番人気に支持されるも、荒れた馬場の内側を避けて逃げたために楽に走ることができず、同期のグラスワンダーの前に4着に敗れた。また、二冠を制していたことからJRA賞最優秀4歳牡馬への選出も期待されたが、NHKマイルカップと古馬相手のジャパンカップを優勝したエルコンドルパサーに奪われる結果となった。1999年の緒戦には日経賞が選択され、同じシェリフズスターを父に持つセイウンエリアに5馬身の差をつけて勝利する。しかし、2番人気で迎えた天皇賞(春)では、スペシャルウィーク、メジロブライトに差し切られ3着に敗れた。休養後、札幌記念では鞍上の横山が「馬の行くまま」にまかせた結果、戦法を一転させ後方に待機すると、3コーナー手前からまくり気味に進出して後続を突き放し、同期の2冠牝馬ファレノプシスを半馬身抑えて勝利する。しかし1番人気で臨んだ天皇賞(秋)では、本馬場入場時にダイワテキサスと接触し、ゲート入りを嫌がるアクシデントなどもあり5着に敗退。さらにはレース後に屈腱炎を発症し、長期の休養に入った。天皇賞(秋)の敗因のひとつに挙げられるゲート入りに時間を要したことについては、セイウンスカイ陣営がレース前に、日本中央競馬会 (JRA) の職員から「ゲートは横方向から入ること」と指示されたことが原因(VTRでも通常とは異なる手法でセイウンスカイをゲートに誘導していることが分かる)だとJRA側を非難したが、JRA側は指示を行っていないと回答するなど水掛け論争となった。天皇賞(秋)後、セイウンスカイは屈腱炎を発症し、長期休養を余儀なくされた。セイウンスカイが復帰したのは、約1年半後の2001年の天皇賞(春)だった。レース当日のセイウンスカイはイレ込みが激しく、スタート直後からタガジョーノーブルと並走する形になり、生涯最速となる1000メートル通過58秒3のハイペースで逃げた。しかし、タガジョーノーブルに先頭を譲ると、2周目第3コーナーで早々に失速し、勝ったテイエムオペラオーから16秒近く離された最下位に敗れた。このとき、JRA職員のひとりがセイウンスカイがまだゴールしていないにもかかわらず、レースが終了したと勘違いしコース上に入ってしまったこともあり、翌日以降のスポーツ紙の紙面を賑わせることとなった。宝塚記念の出走を回避したあと、橈骨を痛めたことから7月に引退が決まり、8月19日に札幌競馬場で引退式が行われた。競走馬引退後の2002年からアロースタッドで繋養され種牡馬生活を送り、2007年12月9日にアロースタッドから西山牧場へ移動した。現役時代の休養からの復帰が結果的にうまくいかず、引退時期が遅れた格好になったうえ、血統的な評価が低いこともあり同世代(キングヘイロー、スペシャルウィーク、グラスワンダーなど)と比べて人気が上がらず種付頭数が圧倒的に少ない状況にあった。一時は障害用種牡馬としてアイルランドに輸出するという話も挙がっていたが、2006年9月9日に札幌競馬場で行われた2歳未勝利戦で、父と同じ芦毛のニシノプライドが中央競馬での初勝利を挙げ、その後オープンまで順調に勝ちあがったこともあり、しばらくは日本で種牡馬生活を続ける見通しだった。2011年8月16日、西山牧場の馬房にて立ち上がる際に頭部を強打して即死した。死因は心臓発作と発表された。※2013年終了時点。※タイム欄のRはレコード勝ちを示す。母方の血統はシンボリ牧場所縁である。2代母の半妹にクイーンカップ勝ち馬のスイートミトゥーナ、3代母の半姉に安田記念など重賞を3勝し、1982年度の優駿賞最優秀5歳以上牝馬を受賞したスイートネイティブがいる。母のシスターミルは当歳(0歳)時に西山牧場に購入されたが、脚部不安のためレースには出走しなかった。初めて産んだ仔がセイウンスカイであるが、その後の7頭の産駒に活躍馬はいない。ただ、2002年生まれのディープサイレンス(父・サンデーサイレンス)は不出走ながら種牡馬になっている。
出典:wikipedia
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