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1932年11月ドイツ国会選挙

1932年11月6日のドイツ国会選挙(独:Reichstagswahl vom 6. November 1932)は、1932年11月6日に行われたドイツの国会(Reichstag、ライヒスターク)の選挙である。1932年9月12日、ドイツ国会において本会議が開かれたが、ドイツ共産党によりパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の「大統領内閣」の首班であるフランツ・フォン・パーペン首相の不信任案が提出されたために議事が進まなかった。このため中央党は国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)へ不信任案の否決に協力するよう求めたが、ナチ党はこれを拒否、アドルフ・ヒトラーは本来、共産党とは手を組む気はなかったがパーペン内閣を追い落とすためには已むを得ないと判断、共産党へ同調するよう指導した。このため、パーペンは不信任案の審議に入るならばヒンデンブルク大統領の許可を得ていた大統領命令による国会解散命令を使用して不信任案を拒否、国会解散へ持ち込むつもりであった。しかし、パーペンが発言を求めると議長ヘルマン・ゲーリングはこれに気づかぬふりをして不信任案の審議を進めた。そこでパーペンは怒りで顔を青白くして命令書を掲げて叫んだが結局、不信任案は賛成512票、反対42票で可決された。パーペンは可決された後に議長席へ解散命令の書類を置いたが、ゲーリングは当初これを無視した上に不信任案が可決された内閣の構成員の署名入り書類は無効であるから受理できないとして嘲笑した。結局、大統領主導による内閣が国民の支持を失っていることが明らかになった。9月14日、パーペンはヒンデンブルクより許可を得ていた国会抜きの政権運営について閣僚らに説明を行なうためにノイデックで閣議を開いた。しかし、司法相フランツ・ギュルトナー、外相コンスタンティン・フォン・ノイラート、蔵相ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク、労働相ヒューゴ・シェッファーらがこれを拒否、農相のマグナス・フォン・ブラウン、経済相ヘルマン・ヴァルムボルトは曖昧な態度を取った。さらにナチ党と中央党がヒンデンブルクを憲法違反の疑いで告訴する計画を立てていたため、パーペンは国会抜きの政権運営を断念、選挙は11月6日と決定された。ヒトラーはこの解散に我れを忘れるほど有頂天であったが、ナチ党が共産党と組んだ事が選挙に良くない影響を与えるとグレゴール・シュトラッサーやフリックらは考えていた。選挙が公示された後、これまでの選挙などでナチ党には職員の疲労と財政的問題が存在した。さらに大企業や金融資本らはパーペンが譲歩したことにより、パーペン支持の態度を表しはじめていた。そのため、フンクは以前より警告していた活動の過激化、ヒンデンブルクへの協力の拒否などにより選挙には警戒感を強めていた。さらにナチ党は投票日の少し前には労働組合や社会主義者が支持していないベルリン交通公社のストライキを共産党とともに支援したが、これにより資本家らが警戒感を強め、ナチ党への資金援助を取りやめた。そのため、投票前日までナチ党は死に物狂いの募金活動を行なわなければならなかった。さらにパーペンはこの違法ストライキについて「国民全体に対する犯罪」行為であるとして激しく非難、今後、国家の治安を乱すものには断固たる態度で対処することをラジオで演説した。この混乱は選挙前日の11月5日まで収まる事はなかった。1932年11月6日に投票が行われた。これまで目覚ましい大躍進を続けてきたナチ党の躍進が初めて止まった。ナチ党にとっては唯一議席を後退させた選挙となった。原因は選挙直前に起こったベルリンのゼネラル・ストライキにナチ党が参加して財界に危機感を持たれたせいではないかといわれるが、一方でナチ党と共同してゼネストを組織していたドイツ共産党の方は更に議席を増加させている。停滞気味の中道や穏健左派政党は更に微減したが、保守・右派のドイツ国家人民党は議席を伸ばした。ナチ党も議席を減らしたとはいえ第1党を確保したことには変わりはなく、国民の極右(ナチ党)と極左(共産党)への二極分化をますます進めたに過ぎず、それまで存在した中産階級諸政党が消滅した事により、増え続ける失業者や共産党員を目の当たりにした資本家たちが支持した結果となった。この結果を受けた社会民主党党首ヴェルスは11月10日の党委員会において「今年行なわれた選挙を通じて我々は『ヒトラーを倒せ!』を合言葉に戦った。そして5回目においてヒトラーを打ち倒す事に成功したのだ」と語った。しかし、社会民主党左派であるケムニッツ地区委員長カール・ベッヒェルは「わが党が12席失うだけで共産党はわが党を上回る議席を得る事になった。これは共産党が宣伝活動するのに有利な状況だ。もしそうなったらわが党に忠節を守ってきた同志らは国民の意思が共産党に向いているとしてわが党から去ることになるだろう」と語り、警告していた。さらに共産党も同じ結論に達しており、共産党中央委員会は「革命的飛躍」が成し遂げられ、選挙において勝利したと結論付けていた。この点についてはソビエト共産党中央機関紙「プラウダ」でも同様の見解が示された。しかし、「フォス新聞」の論説委員ユリウス・エルバウは異なる見解を示しており、共産党の躍進はヒトラーへの贈り物であり、共産主義の躍進におびえる人々がナチ党を支持することになるだろうと評した。11月8日、パーペンは外国通信社協会において選挙結果について「選挙の結果、政府活動に対する理解が深まり、真の国民的結集が実現する事を期待する。そしてそれが実現した時には私がこれまで強調してきているように人事問題は全て解決するだろう」と述べたが、内相ガイルはこれを弱腰であるとしてパーペンを強く非難、「独裁的政治を行なうに当たり、諸政党が許容するかどうか」協議することをパーペンに求めた。しかし、閣僚は一人たりともガイルを支持しなかった。さらにキング・メーカーであった国防相クルト・フォン・シュライヒャー将軍は憲法修正作業を延期して各党と協議することを提案、これが認められた。11月13日、パーペンはヒトラーとの面会を行い選挙後の「情勢について語り」あった。しかし、ヒトラーはここで多くの条件を掲げたため、合意することはなかった。さらにシュライヒャーもパーペンを無用と判断、辞職を迫った。結局、11月17日にナチ党・社民党・共産党のいずれからも支持を得られないフランツ・フォン・パーペン首相は辞職した。しかし後任の首相がすぐに決まらず、12月3日までパーペンが首相代行を続けた。ヒンデンブルクは国会の第1党を占めるナチ党のアドルフ・ヒトラーにパーペンとの和解(=パーペン内閣の副首相就任)を求めたが、ヒトラーは首相職以外受ける気はないと拒否した。結局この後、ヒンデンブルクはシュライヒャーを首相に任命して「大統領内閣」を続けたが、ナチ党も社民党も共産党もシュライヒャーを支持せず、すぐに進退きわまった。シュライヒャーは、国会を解散して選挙日を定めずにそのまま国会を事実上停止して軍部独裁政治へ移行することを、1933年1月23日に企図したが、ヒンデンブルクの反対で失敗した。そしてヒンデンブルクは1933年1月30日にアドルフ・ヒトラーを首相に任命することとなるのである。首相に就任したヒトラーは、ナチ党が過半数の議席を獲得していなかったため、わずか2日後の2月1日にヒンデンブルク大統領に要請して国会を解散させた(→1933年3月ドイツ国会選挙)。

出典:wikipedia

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