加藤 章(かとう あきら、明治35年(1902年)11月 - 昭和57年(1982年))は日本の実業家。元加藤商事会長。大正12年(1923年)東京商科大学専門部を卒業後、父業の建材卸売業を継ぐと共に山陰の経済界発展に寄与した。昭和26年(1951年)以来米子商工会議所副会頭を務めた。昭和45年(1970年)藍綬褒章、昭和51年(1976年)勲四等瑞宝章を受章。米子国際ホテル、赤碕生コン各社長、加藤商事、山陰生コンクリート各会長、米子信用金庫理事なども務めた。明治35年(1902年)11月、米子・茶町に生まれた。豊吉の長男。父・豊吉は、加藤が生まれる二年前に愛知県からはるばる米子にやって来て仕事を始めたばかりだった。米子中学(現在の米子東高校)を経て、大正12年(1923年)東京商大専門部(現在の一橋大学)卒業。昭和12年(1937年)家業を継承し加藤豊吉商店代表社員となる。昭和24年(1949年)山陰日日新聞取締役次いで昭和25年(1950年)社長、昭和26年(1951年)代表取締役に就任。加藤の生涯を回想したものとしては、次男威による回想記『父よ静かに眠れ』(山陰経済新聞社、平成7年刊行)がある。大正12年(1923年)、東京商大卒業と同時に米子に帰って、豊吉の創業した建築材料卸売業に従事。昭和10年(1935年)合名会社設立、代表社員、昭和38年(1963年)加藤商事株式会社に組織変更して取締役社長。以後昭和57年(1982年)に亡くなるまで社長を務め、この間米子商工会議所副会頭、米子国際ホテルなど十指に余る会社の重役、県選挙管理委員など県市の公職を歴任。また、米子唯一の海運業を経営し、山陰機帆船組合理事長を務めたことは彼の事業活動がいかに広範多彩であったかを物語る。加藤によれば「大東亜戦争が始まってね、当時商工会議所を戦争に協力さす組織にするため解散させ、鳥取県商工経済会というものに組織を替えるということになりましてね。米原章三さんが会長になり、野坂さんが専務理事にお成りになって、私が米子商工会議所の番人みたいなものですが、米子支部長ということになりました。昭和18年9月だったと思います。昭和20年3月までの3年間私は会頭だったわけですわ(笑)。従業員も今覚えているのは坪内とか畠中とかいました。女子職員も1~2名で総勢4~5人だったかなあ。戦後は進駐軍が米子にやって来て、会議所や中電、市役所の建物を見て歩き、結局会議所の建物が進駐軍に接収されちゃいました。以来2年位はあそこに居たのでしょうか。従って戦後の仕事は、もっぱら軍の犯罪者のための交渉に当るといったもんでした。また彼等が国への土産に、日本女性の派手な着物を欲しがり、一般民家に行って要求したりするものですから、会議所へ何んとかしてくれと苦情が持ち込まれました。そこで、各家庭からそんな着物の供出をお願いして、バザーを催したりしたこともありました。その当時市役所には英語の通訳が居りませんでしたから、野坂市長の要請でその仕事を勤めたこともありました。」という。趣味はテニス、洋画、スキー。宗教は曹洞宗。住所は米子市明治町。(愛知県、鳥取県米子市茶町・米子市万能町・米子市明治町・米子市祇園町)昭和3年(1928年)、西伯郡資力調査会編『西伯詳覧』には、前年度における営業収益税納入者と税額を記している。
出典:wikipedia
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