キャンプ淵野辺(きゃんぷふちのべ、Camp Fuchinobe)とは、かつて神奈川県相模原市に所在した在日米軍施設。1945年(昭和20年)9月、アメリカ軍が旧陸軍機甲整備学校を接収し、訓練場区域を除いた部分をキャンプ淵野辺(淵ノ辺)として使用を開始した。当初は横浜技術廠(YED)相模工廠などに勤務する軍人・軍属の住宅施設として主に使用され、事務所や兵舎・家族住宅のほか、倉庫、家具修理工場、軍用犬舎、乗馬場、ピクニック広場、プール、テニスコート、野球場、ボウリング場、PX、図書館、学校(フチノベ・エレメンタリースクール)などが設けられた。また、アメリカ国家安全保障局太平洋代表部(NSAPACREP)在日事務所が開設され、アメリカ大使館、府中空軍施設(東京都府中市)の米太平洋軍電子情報収集センター(PACOM ELINT Center)、また上瀬谷通信施設(神奈川県横浜市瀬谷区)の米海軍保安群(USNSGA Kamiseya)、さらにキャンプ・ドレイク(埼玉県朝霞市)のノースキャンプで当時活動していた米陸軍保安局日本通信隊(USASACUJ)および第500軍事情報群(500MI)などと連携し、情報収集・諜報活動を行う重要拠点としても機能した。基地内には複数の受信用ロンビックアンテナが設置され、1960年代半ばには微弱な電波を傍受する際の障害となる雑電波の発生を防止するために、基地周辺の建築物の高さ、機械の操作などを制限する「電波障害防止制限地域」として指定するよう在日米軍側から要求された。これに対して急速な人口増加とともに市街化が進んでいた相模原市では反発が起き、基地の全面返還を求める動きへとつながった。その後、1960年代末から70年代初めにかけて、アメリカ国防予算の削減や、ニクソン・ドクトリンによるアメリカ軍の海外展開兵力削減方針、首都圏を中心とした日本国内の都市問題(基地周辺の市街化)対策などの一環として在日米軍部隊や基地の再編・調整が行われる中で、キャンプ淵野辺の機能は縮小されて施設の遊休化が目立つようになり、電波障害防止制限地域指定問題は解消した。さらに1973年(昭和48年)1月の第14回日米安全保障協議委員会で1974年(昭和49年)度内を目途とした全面返還が合意され、キャンプ座間等への代替施設の建設・提供を経て1974年(昭和49年)11月30日に全面返還に至った。なお、返還後には不審火によって戦時中に機甲整備学校として使用されていた建物が焼失したほか、アメリカ軍のヘリコプターが跡地に不時着する事故が発生した。キャンプ淵野辺は跡地を国利用地、地元利用地、将来の需要に備えた留保地に三分割し、その処分にあたっては有償とする「三分割有償処分方式」が適用される初のケースとなった。これは大規模なアメリカ軍基地の返還に伴う部隊や基地の整理統合・移転に際して国が負担した費用を捻出するとともに、地元と国との間での跡地利用計画の競合を抑制し、また米軍基地の跡地が存在しない他の地方公共団体との間の公平化を図ることなどを目的に定められた跡地の処分方針であった。この方針に対し、基地の存在によって都市形成を妨げられてきた地元の要望を反映した跡地利用が制限され、土地取得にかかる財政負担も膨大なものとなるとして、相模原市における抗議にとどまらず、他の米軍基地跡地を抱える地方公共団体の議会でも反対の決議や意見書が採択された。また、渉外関係主要都道県知事連絡協議会、防衛施設周辺整備全国協議会などの関係団体を中心に、大蔵省に対し方針の撤回を求めて積極的な要望活動が行われたが、大型都市公園・スポーツ施設の建設を中心に跡地の全面利用を目指した相模原市の計画案は見直され、処分条件の緩和を受けて三分割有償方式にもとづく跡地利用が行われた。現況は、国利用分として国民生活センター、国民年金保養センターさがみの、東京国立近代美術館フィルムセンター相模分館、宇宙航空研究開発機構(JAXA)、神奈川県警総合研修センターが建設され、地元利用分として市立弥栄小学校、市立弥栄中学校、市立由野台中学校、県立弥栄東・西高校、市立淵野辺公園、市立博物館が建設されている。なお、留保地は1995年(平成7年)に市立博物館が建設された以外は未利用の状態が続いていたが、土地の活用を行わず長期間留保を継続することへの懸念も出てきたため、国が2003年(平成15年)に「原則利用・計画的有効活用」へと方針を変更したことから、2010年(平成22年)現在は整備・利用計画の検討・作成が進められている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。