ポール・ニザン(Paul Nizan, 1905年2月7日 - 1940年5月23日)は、フランスの作家、哲学者。フランスの人口学・歴史学・家族人類学者のエマニュエル・トッドは孫にあたる。1905年2月7日、アンドル=エ=ロワール県トゥールで生まれる。1917年、名門アンリ四世校でジャン=ポール・サルトルと出会う。その後サルトルとともに高等師範学校に進んだ。ここでレイモン・アロンとも知り合う。1926年から1927年まで、イエメンのイギリス領アデンに家庭教師として滞在した。1927年、帰国後、アンリエットと結婚し、フランス共産党に入党した。1929年、アグレガシオン(哲学)にサルトル、ボーヴォワールと同時に合格。1932年に大学の専任教授となった時、フランス共産党の候補者として選挙に出馬。折から開かれたロマン・ロラン、アンリ・バルビュス、ゴーリキーらのアムステルダム国際反戦大会を契機とするアムステルダム・プレイエル運動が広がる中、妻とともに、1934年のモスクワでの第1回作家会議から1年間のソ連に滞在し、モスクワのマルクス・エンゲルス研究所で作業するかたわら、フランスの作家の窓口となった。この間、雑誌『リテラチュール』、革命的作家芸術家協会(A.E.A.R)の機関紙『コミューヌ』、バルビュスの『ルモンド』、『ウーロップ』などに寄稿した。1932年に出版された『番犬たち』では、御用哲学者たちを痛烈に批判した。同書は、そこで上げられた御用哲学者を自由を忘れたブルジョアの番犬とし、例えばレオン・ブランシュヴィックは「ソルボンヌの番犬」と呼ばれた。ルイ・アラゴン、アンドレ・マルロー、ベルトルト・ブレヒトらとともに、1935年、反戦・反ファシズムを掲げた文化擁護国際作家会議を支えた。1935年から1937年まで当時のフランス共産党の機関紙「リュマニテ」、さらに1937年から1939年までフランス共産党系の新聞「ス・ソワール」に寄稿した。スペイン市民戦争についても週刊「ルギャル」の国際通信員として取材、フランス共産党中央委員会理論機関誌『カイエ・デュ・ボルシェヴィズム』(後の『カイエ・デュ・コミュニズム』)にもレポートした。『陰謀』で1938年、アンテラリエ賞受賞。人民戦線の『ヴァンドルディ』にも寄稿した。しかし、1939年のモロトフ=リッベントロップ協定によるフランス共産党内の混乱の中で、9月25日離党することになった。1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻に伴い、動員に応じてダンケルクの戦いに配置されようとしていた5月23日に北フランスのパ=ド=カレー県オードリュイク()で戦死した。1940年3月に、フランス共産党のモーリス・トレーズ書記長は、コミンテルン西欧ビューローの支配下にあった『国際展望』誌で、ニザンを裏切り者、警察のエージェントとして非難した。戦後の1949年にルイ・アラゴンの自伝的小説『レ・コミュニスト』のなかでは、ニザンをモデルにした人物がスパイであるかのように描かれた。ジャン=ポール・サルトルは、ニザンの著書『アデン・アラビア』の復刻版(1960年)に序を書いて擁護した。さらに、1966年、アラゴンは、自著『レ・コミュニスト』改訂版の刊行に際して、ニザンに汚名を着せる部分を削除した。1967年、日本共産党中央委員会文化部世界革命文学選編集委員会は、ニザンの『トロイの木馬』(野沢協訳、『アデン アラビア』も収録)を「世界革命文学選」の一冊として、同党と関係の深い新日本出版社から刊行した。フランス共産党がニザンの名誉回復を図るのは、1970年代の後半になってからだった。日本では、1965年に鈴木道彦訳の『陰謀』が集英社の『世界文学全集 20世紀の文学』に収録されて以来、1966年から『ポール・ニザン著作集』(全11巻)が刊行され、2008年、池澤夏樹個人編集『世界文学全集』(河出書房新社)に小野正嗣訳の「アデン、アラビア」が収録されるなど、人知れず根強い人気がある。ちなみに、「アデン、アラビア」の英訳版は、1968年に初めて出版されている。
出典:wikipedia
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