川村 清雄(かわむら きよお、嘉永5年4月26日(1852年6月13日) - 昭和9年(1934年)5月16日)は、明治期の洋画家。幼名は庄五郎、諱は修寛(ながひろ)、通称清兵衛、号に時童。明治洋画の先駆者のひとり。近代日本絵画が洋画と日本画に分かれていく最中にあって、両者を折衷し、ヴェネツィアなどで学んだ堅実な油画技術をもって、日本画的な画題や表現で和風の油画を描く独特の画風を示した。江戸麹町表二番町法眼坂上において、御庭番の家系で御徒頭を勤める川村帰元修正の長男として生まれる。川村家は、初期の御庭番の17名の1人・川村新六を祖とし、曽祖父・修富の代から別れた分家であるが、曽祖父・祖父と奉行職を務め御庭番家筋の中でも名門の一つであった。祖父川村修就(ながたか)は初代新潟奉行、大坂町奉行、長崎奉行などを歴任した優秀な幕臣で、後に勝海舟は三河武士の美風を残した侍の一人として挙げている。祖父の活躍が長かったため、父帰元はあまり出世していないが、後の明治25年(1892年)『旧事諮問録』(岩波文庫)にて自身の体験を詳細に語り、御庭番に関する貴重な記録を残した。7歳の時住吉派の絵師住吉内記に入門。2年後祖父の大坂東奉行就任に伴い大阪に赴き、南画家の田能村直入に教えを受け、江戸に戻ると田安家の絵師で花鳥画を得意とした春木南溟に師事する。文久3年(1863年)英学留学のため開成所に通い、その画学局で高橋由一、川上冬崖、宮本三平から西洋画法を学ぶ。ただし、これらはあくまで武士の嗜みとしての習い事であり、清雄は絵を描くのは好きだったものの、この頃は当然のように父達の跡をつぎ御庭番になるものと考えており、将来画家になるとは思っていなかった。一方、後年清雄は祖父が長崎奉行だった繋がりから、幼少の頃から身近にコーヒーやバター、フランネルなどがあり、これが油絵を書く原因となったと回想している。また、祖父は絵画に関する造詣が深く、各地の遠国奉行を歴任する中で、その土地の優秀な画家たちに多くの作品を描かせたといい、この祖父の優れた審美眼と芸術的才能が、清雄に受け継がれて開花したと言えるだろう。明治元年(1868年)徳川家達の奥詰として使え(いわゆる将軍御学友)、翌年家達に従い静岡へ移住する。ちなみに、静岡移住士族の美男美女番付「花競見立相撲」では、前頭に清雄の名が載っている。大久保一翁、勝海舟らの斡旋により、明治4年(1871年)3月、徳川宗家給費生として清雄ほか5人で渡米する。船中、下等船室での待遇の悪さに耐えかね、大半の日本人客が上等に移った後でも、「見苦しき事甚だし」とし、船底で寝起きし、船内の様子をスケッチに残している。本来は政治や法律を学ぶための留学だったが、渡米前後に周囲から画才を認められ、大久保一翁は旅立つ清雄に「迷わなくて何でも一つ是非やってこんぢゃならん。お前は絵が好きだから絵だけやって来ていいから、邪道に迷わないようにしろ」と後押しされた。後に清雄の妹房子と結婚する外山正一の勧めもあって画家になることを決意する。日本公使館の書記官で画家のチャールズ・ランマンに学び、この時、ランマン宅でホームステイをしていた津田梅子の看病をしたが、麻疹をうつされて困ったという。明治6年(1873年)パリへ転じ、アレクサンドル・カバネルの弟子・オラース・ド・カリアス(Horace de Callias)等に学び、アカデミズムの歴史画制作の有様とその思想を吸収して行ったと思われる。この年、明治政府は海外留学生の一斉帰国を命じたが、川村は私費留学生として残る。また翌年頃に、ヴィル=ダヴレーに住むカミーユ・コローを訪問したとも言われ、後の清雄の風景画にその影響を見ることが出来る。明治9年(1876年)2月イタリアに移り、ヴェネツィア美術学校に入学する。同年、パリでは清雄と一緒に生活し、一足先に帰国していた宇都宮三郎が、紙幣頭の得能良介に推薦してくれたおかげで、清雄は紙幣寮官費留学生として採用され、月給10円と年間授業料として1000円の給料を受けられることになった。当地では留学生としての責務を果たすべく基本図像画・建築図・装飾図案のコースを履修し、辞令に従い日本に定期的に作品を送っている。その傍らヴェネツィア派の巨匠たちに学び、特にティエポロを崇敬したという。異国の学校生活にも溶け込み、後にヴェネツィアの現代生活と風景に着目した絵を描いて名を馳せたエットレ・ティート()や、社会批判に満ちた作品で名声を得たオレステ・ダ・モリン(Oreste da Molin)と親交を結ぶ。清雄は後年までヴェネツィアでの生活を懐かしみ、日本に帰った後もその情景をしばしば描いた。明治14年(1881年)再三の留学延期願いが却下され帰国する。その去り際、師匠格として交流があったスペインの画家・マルティン・リーコ(リコ)・オルテガ()から、「日本趣味を失わないように」と餞の書簡を渡されている。リーコはジャポニズムを好み、清雄に「汝は日本人である。日本人は実に意匠に富んで、筆に器用なものを持っている。それを捨てて無闇に西洋を取りたがるのは間違いだ。日本人は日本のを建ててゆかなくちゃいけない」と語った。こうしたリーコの言葉を清雄は後々まで自問し、「日本人らしい油画とは何か」という壮大なテーマに終生取り組むことになる。翌15年(1882年)大蔵省印刷局に彫刻技手として勤務するも、一年を待たずして辞職する。理由として、恋愛がらみやお雇い外国人キヨッソーネとの確執、川村と同時に青年工数十名を解雇していることから、官吏と職工との衝突が考えられる。明治16年(1883年)勝海舟から徳川家代々の肖像画制作を依頼され、勝の援助により画室「心華書房」を建設する。勝から清雄の顔が児童のようだからという理由で「時童」の号を与えられ、一時は勝の家に寄宿する。明治18年(1885年)麹町中六番町で画塾を開き、東城鉦太郎を助手として弟子に教えた。教え子として、石川欽一郎、桜井忠剛、塚本律子、織田一磨らがいる。なお、弟子ではないが清雄に私淑し「清雄二世」と自称した鈴木烏川という絵師もいる。明治22年(1889年)明治美術会創立に参加、同会解散の後は明治34年(1901年)、東城鉦太郎、石川欽一郎、石原白道、二世五姓田芳柳らと巴会を結成する。明治29年に東京美術学校に西洋画科が設置されるが、これに清雄は加わっていない。これは清雄が幕臣出身で、美術学校が黒田清輝や久米桂一郎らの薩摩藩や佐賀藩出身だったのと対照をなしている。反面、藩閥政治に反感をもつ旧幕臣たち、特に海軍関係者の間に熱心な川村ファンを多く作ることにもなった。また、清雄の義姉縫子と結婚した江原素六の斡旋により、三井系をはじめとした実業界にもファンを獲得している。昭和9年(1934年)、天理教祖中山みきの肖像画制作のため赴いた天理市で、脳血栓により死去。戒名は大洋院殿心華時童清雄大居士、墓は新宿二丁目にある正受院。清雄が留学中に受けた西洋画教育は、フランスのアカデミック美術や、ヴェネツィア派の系譜を引く壮麗な装飾画といった極めて正統的なものだった。しかし、帰国後の清雄は日本的伝統を重んじ、絹や屏風、金箔、銀箔など日本画の材料と手法を積極的に取り入れ、日本家屋に適した縦長・横長の画面形式を用い、季節感を生かし、筆触の冴えた独特の画風を示した。反面、清雄は晩年まで明部を厚塗りし、暗部を薄塗りするなど、西洋の伝統的な油画技法を用いて描いている。そのため、絵の具の固着力は良好で、油画らしい緻密なマティエールを持っており、保管環境が劣悪な作品でも損傷の程度は低い。多くの洋画家は、晩年になると油絵具の粘着性を嫌い、テレピンなどの揮発油で水彩のように薄めて描く例がしばしば見られるが、清雄は例外であった。清雄は油はポピーオイルを用い、リンシードは殆ど使わなかった。筆は油彩のものと面相筆を半々か面相をやや多く用い、ペインティングナイフもよく使った。白は、シルバーホワイトを常用して、ジンクホワイトは全く用いなかった。ところがこうした清雄の作画姿勢は、当時の日本の美術界に確立しつつあった純粋美術としての概念規定を基準とするとやや外れており、「是真的油絵、似非光琳的装飾画、俳画的作品」であり、「接ぎ合わせなり、鵺なり」と厳しい評価を浴びせられる場面もあった。一方で、清雄の和風洋画を好意的に評価する声もあり、後述する『新小説』で名を連ねて仕事をしたこともある鏑木清方は、「川村氏は、明治期洋画界の先覚で、油絵の是真と云われ、油彩で抱一から是真、省亭と伝わった江戸好みの工芸趣味を特色とした人で、鮮麗な色彩と渋い味わいとを巧みに調和させた特異な存在だった」と述べている。清雄自身は柴田是真を尊敬していたが、「似非是真」や「油画の是真」と呼ばれることに不満を持ち、「是真の上を今一層往かなくちゃならんと思っております」と述べ、別の談話では今の日本画は脆弱なものばかりだが、自分は古法眼(狩野元信)、又平(岩佐又兵衛)、惟然(「伊年」即ち俵屋宗達)、光琳のような強い作品を描きたいと語っている。一方で、清雄には本の装幀装飾家としての側面もあった。特に『新小説』の表紙を、通常は長くても1年で交代となるところを、明治32年から44年の12年間で足掛け6年間担当しており、同誌が清雄を高く評価していたことが窺える。当時の雑誌の表紙は図案的な模様や、日本画的な線描を主体とする絵が多く、日本画・浮世絵系の画家のみならず、洋画家の和田英作や浅井忠、小山正太郎らも例外でなかった。しかし、清雄は4,5回しか刷れず色数に制限がある当時の石版画において、その性質をよく理解し、積極的に水彩・油絵的な絵画表現を取り入れた特色ある装丁を施した。これは清雄持ち前の美的センスもさることながら、印刷局で彫刻技師として働いた経験が活きたことや、明治後期の美術印刷はそれまでの木版から石版に重心が移り、丁度技術レベルがピークに達している時期と重なっており、清雄の絵画的表現を正確に印刷できる石版工が育っていたためだと考えられる。清雄作品をまとまった数所蔵しているコレクター・美術館として、福富太郎コレクションや栃木県の実業家青木藤作のコレクションが寄贈された那珂川町馬頭広重美術館をはじめ、静岡県立美術館、笠間日動美術館、目黒区美術館、江戸東京博物館、京都の星野画廊などが挙げられる。
出典:wikipedia
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