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朱引

朱引(しゅびき)とは、江戸幕府が江戸の範囲を示すために使った用語であり、地図上に朱線で囲った地域として示されたことに由来する。一般に「大江戸」として認識されているのが、この朱引の範囲であり、現在の山手線の周辺と隅田川東岸の下町地域(墨田区および江東区)を合わせた地域にほぼ一致する。「朱引」は1818年に初めて定められ、その呼称は明治時代に至るまで使われた。江戸城築城以来、江戸の市域は拡大を続け、19世紀初頭にはすでに、その範囲は不明確となっていた。幕府目付・牧野助左衛門(まきのすけざえもん)は1818年(文政元年)8月、市域の確定を求める「御府内外境筋之儀」についての伺いを出し、それを受けて同年12月、老中安部正精(あべまさきよ)によって示された幕府の見解が朱引である。「旧江戸朱引内図」(1818年、東京都公文書館所蔵)はこの答申に基づいて作成され、江戸の範囲はその地図上に、江戸城を中心とする朱色の線(朱引線)で囲まれた区域として示されている。これは、歴史上初めて正式に示された江戸市域(大江戸)の範囲であり、「朱引内(しゅびきうち),」、「御府内(ごふない)」、などとも呼ばれる。この外側は朱引外(しゅびきそと)と呼ばれる。朱引の範囲(大江戸)は、「四里四方」といわれ、東は平井、亀戸周辺、西は代々木、角筈周辺、南は品川周辺、北は千住・板橋周辺までである。現在の行政区画では次の範囲に相当する。朱引図(旧江戸朱引内図)には朱線と同時に黒線が引かれていたが、これは墨引(すみびき)と呼ばれ、町奉行所支配の範囲を示していた。墨引は、目黒付近で朱引の外側に突出する例外を除いて、朱引よりも更に内側の、江戸城を中心としたより小さな環状域である。1869年(明治2年)2月19日、東京府は、新たな朱引を定めた。この明治期の朱引は、皇居を中心として、朱引の内側を「市街地」、外側を「郷村地」と定めるものだった。同年3月16日には、朱引内に50区の区画が制定された(五十番組制、五十区制)。1871年(明治4年6月13日)、再改正によって範囲を縮小された朱引内は44区に再編成(朱引内四十四区制)され、1878年(明治11年)の郡区町村編制法の施行(東京15区の制定)まで続いた。

出典:wikipedia

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