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北号作戦

北号作戦(ほくごうさくせん)は、太平洋戦争(大東亜戦争)末期にフィリピンの戦いで敗れた大日本帝国海軍が東南アジアに取り残されていた残存艦艇を日本本土に脱出させた輸送作戦である。日本軍のシーレーンが崩壊する中、この作戦に参加した艦艇6隻に燃料と重要資源を搭載、輸送船やタンカーの代替とした。北号作戦は、1945年(昭和20年)2月10日から20日にかけて行われた日本軍の撤収、及び輸送作戦である。日本海軍の歴史において事実上最後の成功を収めた作戦。作戦名は、同時期に一般輸送船により行われていた資源強行輸送の「南号作戦」に対応して命名されたものである。また指揮官松田千秋第四航空戦隊司令官により「任務完遂」を意味する完部隊と命名されていた。この作戦の半月前、南シナ海においてこの作戦と同様の航路を取ったヒ86船団がアメリカ海軍の機動部隊に捕捉されてほぼ全滅していた。極めて危険な作戦で最悪は部隊の全滅も覚悟されていたが(後述)、損害を受けずに完全な成功を収めたことで、キスカ島撤退作戦と同様に「奇跡の作戦」などと評される。南シナ海における連合軍の通商破壊作戦の本格化によって、日本の軍需・民需輸送船の損害が増大し、南方からの資源輸送が極めて困難となっていた。またシンガポールに在泊していた水上戦力が日本本土と切り離され、これらの戦力が本土防衛に参加できず遊兵化する恐れがあった。そのため、これらの高速・重武装の戦闘艦艇を用いて資源輸送を行い、かつ内地へ撤収させる必要に迫られた。ただし、戦闘艦艇といえども潜水艦や航空機の支援もないことから安全な航海は望めない状況だった。3ヶ月前の1944年(昭和19年)11月21日には金剛型戦艦1番艦金剛が日本本土への帰還中に米潜水艦シーライオンⅡの雷撃で撃沈された。12月3日、日本本土へ帰投中の金剛型3番艦榛名と空母隼鷹が米潜水艦のウルフパックに襲われ、隼鷹と駆逐艦槇が大破した。同年12月13日にも同じく日本本土に戻ろうとした重巡洋艦妙高が米潜水艦バーゴールの雷撃で大破し帰国を断念していた。さらに12月19日には特攻兵器桜花をフィリピンへ輸送中の雲龍型航空母艦1番艦雲龍が米潜水艦レッドフィッシュの雷撃で撃沈された。さらに潜水艦だけでなく米機動部隊も東シナ海に出現し、1945年(昭和20年)1月上旬にはヒ87船団とヒ86船団が第38任務部隊によって壊滅的被害を受けるに至った(グラティテュード作戦)。加えて米機動部隊(第3艦隊)を率いるウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督はレイテ沖海戦(エンガノ岬沖海戦)で取り逃がした小沢機動部隊の残存戦艦2隻(伊勢、日向)を撃沈しようと、個人的な闘志を燃やしていた。日本海軍では、南西方面に残る艦艇・部隊の再編を実施していた。1945年(昭和20年)2月5日附で第五艦隊(司令長官志摩清英中将)および第二遊撃部隊は解隊される。残存部隊(巡洋艦《足柄、羽黒、大淀》等、第四航空戦隊、第二水雷戦隊)および第一南遣艦隊、第二南遣艦隊、第十三航空艦隊を中核として第十方面艦隊(司令長官福留繁中将、参謀長朝倉豊次少将)が新編された。大本営海軍部は1945年(昭和20年)2月4日、シンガポール方面の大型艦について今後の行動方針を示した。第四航空戦隊(伊勢、日向、大淀)は物資人員を搭載して内地帰投、重巡洋艦部隊(足柄、羽黒)はシンガポール方面に残り緊急輸送任務や敵水上艦隊迎撃等に投入、第二水雷戦隊(霞、朝霜、初霜)は四航戦または船団護衛として内地帰投、重巡2隻(高雄、妙高)は応急修理を実施して機会があれば内地帰投、艦体前部喪失・応急艦首装着の駆逐艦天津風は船団護衛に協力して内地帰投、というものである。これらの方針は第五艦隊解隊と共に各艦に内示された。2月6日、各隊・各艦はリンガ泊地を発ち7日シンガポール着。2月10日、大本営は四航戦と二水戦に対し、正式に内地帰投輸送作戦実施を下令。これを受けて第十方面艦隊司令長官福留繁中将は同日以後の「完部隊」出撃を命じた。参加艦隊は、第四航空戦隊(伊勢型戦艦《日向、伊勢》、軽巡洋艦《大淀》)、第二水雷戦隊(駆逐艦霞《二水戦司令官古村啓蔵少将座乗》、朝霜、初霜)で構成されており、旗艦は第四航空戦隊旗艦日向で同戦隊司令官の松田千秋少将が指揮した。前月から第五戦隊に編入されていた大淀は、北号作戦実施に際し第四航空戦隊に編入されている。だが「航空戦隊」とは名ばかりで戦艦2隻(日向、伊勢)はカタパルトすら撤去しており、艦隊の搭載機は大淀の零式水上偵察機2機だけだった。そこで大淀搭載の水上偵察機や基地航空隊が「完部隊」の対潜哨戒を担当、また海南島から福州周辺を第1駆逐隊(野風、神風)、福州から内地を駆逐艦汐風が護衛するという計画が立てられる。作戦前、「完部隊」司令官松田千秋少将および野村留吉日向艦長達は第十方面艦隊司令長官福留繁中将から「二度と諸君らに相見えることは無いだろう」と告げられていた。前述のように、部隊はシンガポールにて、航空燃料用のガソリン・生ゴム・錫などの当時稀少な物資を目一杯積み込んだ。航空戦艦に改造されていたものの搭載機を持たなかった伊勢型戦艦2隻(日向、伊勢)では、艦後部の広大な飛行機格納庫が物資の主要積載場所となった。大淀は航空機格納庫(作戦司令部施設)を燃料庫に改造した。駆逐艦はもとより大淀や両戦艦も、甲板上にまで可燃性の高いガソリンを詰めたドラム缶多数が搭載されたため、たとえ軽微な攻撃であっても被弾すれば極めて危険な状態だった。軍令部は「半分の艦が日本本土に戻れれば上出来で、全滅の可能性もある」と予測したが「伊勢、日向、大淀は運が強いからどんな作戦でも成功する」とする意見もあった。完部隊(指揮官:第四航空戦隊司令官松田千秋少将)搭載物資は以下の通りである。日向(伊勢)はそれぞれ、航空揮発油ドラム缶4994個(5200個)、航空機揮発油タンク内100トン(〃トン)、普通揮発油ドラム缶326個(伊勢は搭載せず)、ゴム1750トン(〃トン)、錫820トン(1750トン)、タングステン144トン、水銀24トン、輸送人員油田開発技術員等440名(551名)。大淀は輸送人員159名、ゴム50トン、錫120トン、亜鉛40トン、タングステン20トン、水銀20トン、航空揮発油ドラム缶86個、航空機揮発油タンク内70トン。霞、朝霜、初霜の3駆逐艦はゴム・錫3隻合計140トン。松田少将(四航戦司令官)によれば、燃料を少しでも節約するために艦隊速力を16ノットに抑えた。完部隊は1945年(昭和20年)2月10日夕刻、在泊艦艇に見送られシンガポールを出航。すでに護衛戦闘機や哨戒機などの支援は望めない状況だった。完部隊はフィリピンのマニラ方面に突入すると見せかけたのち、北上して日本本土へ向かう。アメリカ軍は作戦を暗号解読で察知し、付近の自軍に迎撃命令を発していた。途中何度かアメリカ陸軍航空隊機による空襲やアメリカ海軍の潜水艦(バーゴール、ブロワー、フラッシャー、バッショー等)による接触・攻撃を受けた。しかしいずれの攻撃も回避、または事前に撃退に成功した。2度にわたるアメリカ軍機による攻撃には、2度とも近隣に発生していたスコールに隠れて攻撃を回避することに成功した。2月12日昼前、朝霜が米潜水艦(ブラックフィン)を発見して爆雷を投下した。夕刻、大淀は水上偵察機1機(2号機)を射出し、陸上基地からも九三六海軍航空隊や足柄搭載水上偵察機が対潜哨戒に従事した。大淀2号機は艦隊直掩を実施したのち、カムラン湾に向かった。2月13日、ブラックフィンの報告を受けたアメリカ陸軍航空部隊はB-24重爆多数を投入したが、雲に覆われた完部隊を認識できず、あきらめて去った。日向や霞のレーダーが水上目標を探知。続いて米潜水艦3隻(ブロワー、バーゴール、フラッシャー)が相次いで魚雷多数を発射するが、1本も命中しなかった。伊勢は魚雷8本を発見し、回避に成功した。内1本を高角砲の射撃で爆破した。夕刻、日向は米潜水艦バッショーに対し36㎝主砲による砲撃を実施、効果はなかったがバッショーは潜航したため襲撃の機会を失った。2月14日昼頃、天候が悪化する中で馬公市(台湾)からやってきた第1駆逐隊(野風、神風)が完部隊に合流する。悪天候のため、旧式の神風型駆逐艦や峯風型駆逐艦では速力18ノットの戦艦についてゆくのもやっとだった。約1時間後、アメリカ軍大型爆撃機が数十機が飛来したが、悪天候のため完部隊を捕捉できず、あきらめて帰投した。夕刻、完部隊の前方に米軍第七艦隊が航行しているとの情報があり、大淀は水上偵察機1機(1号機)を射出。だが誤報であった。2月15日未明から朝にかけて完部隊は不審な影を発見、各艦は水上見張り用の二十二号レーダーを射撃用に用いる準備をしたが、二度とも中国のジャンク船団だったという。2月15日夜に馬祖島で仮泊、燃料補給を実施(日向→霞《船体接触、損傷軽微》、伊勢→初霜、大淀→朝霜)。ここで完部隊は第1駆逐隊と分離した。台湾海峡を通過中に、既に落伍していたとも伝えられる。第1駆逐隊はシンガポールに向かった。完部隊は日付変更と共に出発。暗黒と悪天候のため、峯風型駆逐艦汐風は完部隊からはぐれてしまった。同時刻、偶然樅型駆逐艦蓮が北上する第四航空戦隊と遭遇した。感激した堀之内(蓮艦長)は四航戦からの誰何信号に「われ蓮、今より貴隊を護衛せんとす」と発信して右正横3000mに占位したが、戦艦の速力について行けず蓮は30分程で後落したという。2月16日夜から17日朝にかけて、完部隊は舟山島泊地に仮泊。出港後、黄海を横断。18日夜から19日朝にかけて朝鮮半島南岸で仮泊。同日夜には下関に到着、六連泊地で仮泊。翌2月20日、完部隊6隻(日向、伊勢、大淀、霞、初霜、朝霜)は呉に到着。輸送作戦は完璧な成功を収めた。大淀偵察機2機も無事に母艦へ戻っている。艦艇研究家木俣滋郎によれば、完部隊(大淀)が回避した潜水艦は英米合計26隻におよぶという。本作戦時の伊勢艦長の中瀬泝少将は、戦後の『軍艦伊勢全国大会祭典』で述べた祭文中で「超へて昭和二十年二月の北号作戦は昭南より航空燃料を満載し敵の勢力下三,五〇〇海里を突破する危険極まりなき行動なりしを以て、中央に於ても十中八九その生還を期せざり由。」と語っている。このように連合艦隊司令部などの海軍上層部では失敗を予測していたが、部隊がまったく損害を受けず全艦無事に帰還したことを知り、狂喜乱舞したとされる。連合艦隊司令長官豊田副武大将も完部隊の労苦を労った。松田少将も、軍令部の富岡定俊少将から感謝されたと回想している。本作戦は連合国軍にとっても意表を突かれた結果であり、戦後、松田少将がアメリカ海軍第七艦隊の参謀へ本作戦について訊ねたところ「いや、あれはすっかりやられた」という答えが返ってきたという。しかしながら6隻の艦での輸送でありながら、物資の量としては中型貨物船1隻分に過ぎなかった。専用の輸送船ではない以上は仕方ないことであるが、この程度の量の物資の輸送に成功したことを狂喜せねばならないこと自体が、当時の日本の窮状を示していたと言える。2月23日、第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は、二水戦旗艦を霞から阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧に変更した。2月25日、大淀は呉練習戦隊に編入されて練習艦となった。3月1日、第四航空戦隊は解隊。予備艦となった日向に対し、日向の野村留吉艦長は「霊あるものと信ずる軍艦日向の為に万酷の涙流る」と嘆いている。2隻(日向、伊勢)には燃料が残っており、これらは大和型戦艦1番艦大和に移された。大和はこの燃料を元に菊水作戦に参加し、坊ノ岬沖海戦に臨んだ。同海戦で北号作戦に参加した駆逐艦2隻(霞、朝霜)は沈没、7月下旬、3隻(伊勢、日向、大淀)は呉軍港空襲で大破着底した。同時期、初霜も舞鶴で触雷し、着底して喪われた。

出典:wikipedia

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