LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

ベルリンの壁崩壊

ベルリンの壁崩壊(ベルリンのかべほうかい)は、1989年11月9日に東ドイツ政府が東ドイツ市民に対して、旅行許可書発行の大幅な規制緩和を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことをきっかけに、ベルリンの壁の国境ゲートが開放され、翌11月10日には東西ベルリン市民によって実際に壁の破壊が開始された一連の事件のこと。略称として壁崩壊()という。東欧革命を象徴する事件として有名である。第二次世界大戦後の、ドイツのソビエト連邦とイギリス、フランス、アメリカ合衆国による東西分割占領によって生まれた分断国家の東ドイツは、ソ連からの大きな経済援助や西ドイツからの借款を受けたことにも助けられ、社会主義国の中では最も経済発展を遂げ「社会主義の優等生」と呼ばれた。またその中でも「ベルリンの壁」で東西に断絶された東ベルリンは、「ベルリン危機」などで東西冷戦の最前線にさらされながらも、西側諸国の支援の下で繁栄する西ベルリンに対抗すべく「社会主義のショーウィンドウ」としての立ち位置から、かつ東ドイツの首都として繁栄を続けていた。 しかし、1970年代後半の第二次石油危機以降、西ドイツをはじめとしてイギリスやアメリカ、日本をはじめとする西側諸国が経済構造の転換を進めたのに対して、計画経済、党官僚の支配の下で硬直化した東側陣営では経済の構造改革が出来なかった。1980年代には東ドイツ経済も世界屈指の経済大国となった西ドイツには大きく水を開けられ、抑圧的な政治体制もあって東ドイツ国民は不満を募らせるようになっていった。一方、ドイツ社会主義統一党(SED)のエーリッヒ・ホーネッカー書記長(国家評議会議長兼務)は、ソ連の歴代政権から支援を受けつつ、ハンガリー人民共和国やポーランド人民共和国で社会変革の動きが強まってからも、秘密警察である国家保安省(シュタージ)を動員して国民の束縛と統制を強めていた。他の東欧の社会主義国と違って、分断国家である東ドイツでは「社会主義のイデオロギー」だけが国家の拠って立つアイデンティティであり、政治の民主化や市場経済の導入といった改革によって西ドイツとの差異を無くすことは、国家の存在理由の消滅、ひいては国家の崩壊を意味することを東ドイツ首脳部は知っており、1980年後半に東欧に押し寄せる改革の波に抗い続けていたのである。1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して「ペレストロイカ」政策を推進して以来、ソビエト連邦内のみならずその影響圏である東欧諸国でも民主化を求める声が高まり、他の東欧諸国や東ドイツ国内でも民主化推進の声が高まっていた。しかし、ホーネッカーら東ドイツ首脳部は強硬姿勢を崩さず、SEDの文化科学担当書記・政治局員でSEDのイデオロギー担当だったは「わが国では、既に改革は進んでいる。隣人が壁紙を張り替えたからと言って、同じことをする必要はない」と主張し、1988年には東ドイツ指導部はペレストロイカを伝えるソ連の雑誌『』を発禁処分とした。これは、東ドイツ国内の知識人の不満を一気に高めることになった。こうして市民の政府に対する不満が高まる最中の1989年5月7日に行われた地方議会選挙では不満を持った少なからぬ数の有権者が統一候補リストに対する信任投票に反対票を投じたが、指導部は選挙結果を賛成票が98.85%であると改ざんして発表し、市民の不満を更に高めた。また、6月4日に起きた天安門事件に対して東ドイツ政府・SED・人民議会が中国当局の対応への支持を表明したことも、東ドイツ市民の怒りを買っていた。1987年にアメリカ大統領ロナルド・レーガンがベルリンを訪問した際、ベルリンの壁の前で演説し、「Mr. Gorbachev, tear down this wall.(ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい)」と演説で訴え、2年後の壁崩壊に影響を与えた要因の一つとされている。1989年5月2日、既に改革派が民主化を進めていたハンガリーでネーメト・ミクローシュ内閣がオーストリアとの国境線の鉄条網撤去に着手し、鉄のカーテンが綻び始めた。6月18日にはポーランド人民共和国で複数政党制による自由選挙が実施され、他の東欧諸国に先んじて民主化を果たした。夏になると多くの東ドイツ国民はハンガリー、オーストリア経由で西ドイツへの亡命が出来ると考え、夏の休暇を利用してハンガリーに出国した。この時、東ドイツ首脳部は最高指導者のホーネッカーが急性胆のう炎で療養生活に入っていたために指導者不在の状態になっており、何も手を打つことが出来ない状態であった。治安問題担当の書記で政権ナンバー2と目されていたエゴン・クレンツ(党政治局員・国家評議会副議長兼務)は8月11日に一時復帰したホーネッカーに対し、出国者数を報告し、国民の大量出国問題を党の政治局で討議するよう進言したがホーネッカーは、と言ってクレンツの進言を意に介さなかった。さらにクレンツはホーネッカーから長期休暇を命じられて10月1日まで政権中枢から遠ざけられた。ホーネッカーは療養生活に戻ると、保守派のギュンター・ミッターク書記以外は政治局員でさえも近付けなかった。8月19日に、東ドイツ国民のハンガリーを経由した大量亡命、いわゆる「汎ヨーロッパ・ピクニック」が成功すると、ベルリンの壁が持つ意義は相対的に低くなり、東ドイツ国民はハンガリーやチェコスロバキアに殺到し、プラハやブダペストの西ドイツ大使館の周辺にも溢れかえるようになった。その後これらの東ドイツ国民は西ドイツ大使館の敷地内に収容されたものの、その収容人数は日々増すばかりであった。ハンガリーのホルン・ジュラ外相は東ドイツ政府に対してハンガリー国内にいる東ドイツ国民を処罰しないことと、西ドイツへの移住許可に前向きに対応するよう迫ったが、東ドイツ政府は何の反応も示さなかった。9月になっても東ドイツ国民の出国は止まらなかった。9月10日には、ハンガリーのネーメト内閣が国境の全面開放を決定し、11日午前0時をもって東ドイツとの協定(当時の欧州の東側諸国は査証免除協定を結ぶと同時に、相手国の国民が自国経由で西側に逃亡するのを防ぐ相互義務を負う協定を結んでいた)を破棄して国境を開放し、国内にいる東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツへ出国させた。翌日のSED政治局会議では出席者はハンガリーの対応を非難したが、ホーネッカーがまだ療養中で不在だったために結局何の対策も取られず、ハンガリーに対して何も報復することも出来なかった。既に政治局員の間でも市民の流出が続いて東ドイツの存立が危うくなってきていると認識はされるようになっていたが、結局それが討議されることも無かった。そうしている間にも、東ドイツ国内では医師、電車やバスの運転手、高等教育を受けた若い労働者などが次々に出国し、東ドイツのあちこちで交通機関の運休や医療の崩壊、工場の閉鎖などの社会的混乱が起きていた。こうした中、イギリス首相マーガレット・サッチャーはミハイル・ゴルバチョフ書記長に、ソビエトのリーダーとしてベルリンの壁崩壊を阻止するために出来得る限りのことをするよう要請し、次のように語った。9月26日、療養生活から復帰したホーネッカーは政治局会議を開催したが、10月7日に予定される建国40周年記念式典の準備を指示しただけで、出国者問題には触れなかった。9月30日にはプラハの西ドイツ大使館に残っていた東ドイツ国民の西ドイツへの出国が許可されたが、これも式典前に目障りな問題を処理してしまおうというだけのことであった。プラハから東ドイツ市民を乗せた列車がドレスデン中央駅に到着した際には、それに乗ろうとするドレスデン市民と人民警察の間で衝突が発生した。10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖した。これによって、東ドイツ国民がチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア経由で出国することは不可能になった。逃げることが出来なくなった東ドイツ国民は不満を体制批判に転化させるようになり、ライプツィヒを拠点にデモ(月曜デモ)が激化していくことになった。ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソビエト連邦政府からの支持を得ることであったが、10月7日の東ドイツ建国40周年式典を訪問したソ連共産党のゴルバチョフ書記長は、軍事パレードの後に(東ドイツ政府の迎賓館として使用されていた)で行われたソ連・東ドイツ両国の党幹部の会合で演説し、自国のペレストロイカの現状を報告した後、「遅れて来る者は人生に罰せられる」とホーネッカーに対する批判とも取れる言葉を述べた。これに対して演説を行ったホーネッカーは、自国の社会主義の発展をまくしたてるのみであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じったような薄笑いを浮かべて一堂を見渡すと、舌打ちをした。ゴルバチョフがホーネッカーを支持していないのは東ドイツの他の党幹部達の目にも明らかだった。ゴルバチョフは人民議会での演説でも先に発表した新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する発言をしたのみで東ドイツ政府の支持には言及しなかった。また前日の6日夜に行われたパレードでは、動員されたドイツ社会主義統一党の下部組織・自由ドイツ青年団(FDJ)の団員らが突如として、ホーネッカーら東側指導者の閲覧席に向かって「ゴルビー! 私たちを助けて」とシュプレヒコールを挙げるハプニングがあった。これを見たポーランド統一労働者党の第一書記はゴルバチョフに若者たちの話している内容が理解できるか尋ねたところ、ゴルバチョフはドイツ語は良くは知らないが、分かるような気がすると答えた。ラコフスキは「『ゴルバチョフ、我々を助けて』と懇願しているのですよ」と答えた後、次のようにゴルバチョフに教えた。7日夜に共和国宮殿で行われた晩餐会の席でもゴルバチョフは、東ドイツを賛美し自画自賛するホーネッカーの乾杯の挨拶を聴きながらそのすぐ脇で手厳しく批判の言葉を述べていたという。ホーネッカーが自画自賛しているその時、共和国宮殿の周りではデモ隊が抗議集会を行っていた。ゴルバチョフは晩餐会が終わるとそのままシェーネフェルト空港へ直行し、そそくさと帰国してしまった。クレンツによれば、この時ゴルバチョフは周囲に居たSEDの党幹部達に「行動したまえ」と、暗にホーネッカーを退陣させるよう囁いたという。こうしてゴルバチョフに見捨てられ、忠実なはずの党の青年組織からも公の場で反目されたホーネッカーは、ドイツ社会主義統一党内での求心力も急速に失われ、党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。10月9日にはライプツィヒの月曜デモは7万人に膨れ上がり、市民が「」()」と政治改革を求める大規模なものとなった。ホーネッカーは警察力を使って鎮圧しようとしたがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団指揮者のクルト・マズアらの反対に遭い、また弾圧に協力してくれると期待していた在独ソ連軍が動かないことが判明して失敗に終わった。こうして東ドイツ国内外での混乱が拡大すると、危機感を募らせたクレンツやギュンター・シャボフスキー(政治局員、党ベルリン地区委員会第一書記)らは、まず10月10日から11日にかけて行われた政治局会議でホーネッカーに迫って、今までの政治体制の誤りを事実上認める政治局声明を出させた(社会主義統一党の機関紙『ノイエス・ドイチュラント』には12日に掲載された)。今までの自分の政治を否定される格好になったホーネッカーは、12日に中央委員会書記、全国の党地区委員会第一書記を集めた会議を招集し、自身への支持を取り付けて巻き返そうとした。しかし、ドレスデンでの混乱に直面したハンス・モドロウ(ドレスデン地区委第一書記)ら各地区の第一書記からホーネッカー批判の声が上がり、全くの逆効果に終わった。勢いづいたクレンツ、シャボフスキーらは閣僚評議会議長(首相)のヴィリー・シュトフやソ連の指導部らとも連絡を取り、密かにホーネッカーの追い落としを画策した。10月16日、ホーネッカーは再び月曜デモに対して武力鎮圧を主張したが、国家人民軍(東ドイツ軍)参謀総長のフリッツ・シュトレーレッツ大将(SED政治局員)は「軍は何もできません。すべて平和的に進行させましょう」と言ってホーネッカーの命令を拒否した。もはや軍も、ホーネッカーには従わなくなっていた。10月17日、政治局会議でいつものように議事を進行し始めたホーネッカーに対し、突如シュトフ首相がホーネッカーの解任を提案した。ホーネッカーの書記長解任にはホーネッカー以外の政治局員全員が賛成を表明し、ホーネッカーは自らの解任動議を可決せざるを得なかった。10月18日にホーネッカーは正式に退陣し、クレンツが後任となった。しかし、元々クレンツはホーネッカーの子飼いの部下であり、今でこそホーネッカーに反旗を翻したものの、国民はおろか社会主義統一党の党員達からでさえ信頼されていなかった。さらにクレンツは一党独裁制の枠の中で緩やかな改革を行おうとしたが、国民の反発は強く、11月4日には首都の東ベルリンでも百万人以上が言論・集会の自由を求める大規模なデモが起こり、東ドイツ政府は根底から揺さぶられる事になった。もはや混乱は収拾が付かない状態に陥っており、クレンツも十分に状況を把握出来なくなっていた。1989年11月6日、東ドイツ政府は新しい旅行法案を発表した。しかし、この法案では出国の際には相変らず国の許可を要する等様々な留保条件が付けられていたため、既にそれまでのように党の決定に対して従順では無くなっていた人民議会によって否決された。議会の否決を受けてクレンツらは新たに暫定規則(政令)で対処することにした。11月8日から開かれた党の中央委員会で政治局員はいったん全員が辞任した。その上で、首相のヴィリー・シュトフらの引退と改革派のハンス・モドロウらの政治局入りが決定し、モドロウを後継の首相に任命することが決まった。この後ようやくクレンツは、東ドイツ国内の世論に押される形で党と政府の分離、政治の民主化、集会・結社の自由化、市場原理の導入などの改革を表明した。しかしこの日から行われた中央委員会は混乱していた。出席者からは工場で怒った労働者が党に反抗し始めていることが報告され、さらに経済学者国家計画委員長によって東ドイツの財政が莫大な対外債務を抱えて破綻寸前になっていることが報告された。これまで東ドイツが社会主義国では一番の工業力・経済力を持っていると信じていた党員達は当惑と失望、ホーネッカーらに対する怒りの感情を抱いた。これらの問題や、各地で起きているデモへの対応などを巡って中央委員会の出席者たちはお互いを非難し、罵り合うような状態であった。1989年11月9日の午後3時過ぎに、クレンツは中央委員会で前日から続く非難の応酬戦を中断し、「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を読み上げた。それは以下のようなものであった。この提案は「暫定的」の文言を削除したうえで、中央委員会の承認を受けた。当時、社会主義統一党のスポークスマン的な役割を担っていたシャボフスキーは、18時からの記者会見のために会議の途中で退席した。その際シャボフスキーはクレンツからA4版2枚の書類を渡され、「こいつを発表しろよ。こいつは大当たりするぞ」と言われたという。シャボフスキーは、記者会見が始まって1時間ほどたった頃、内容をよく把握しないまま国民の大量出国問題に対し「我々はもう少々手を打った。ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。では申し上げよう」と言うと、クレンツから渡された報道発表用の書類を取り出し、「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表した。この案は中央委員会の承認は受けていたが、未だ閣僚評議会(内閣)の閣議では決定されておらず、正式な政令にはなっていなかったのだが、シャボフスキーは閣議決定されているものと勘違いしていた。この記者会見場で、記者が「(この政令は)いつから発効されるのか」と質問したところ、上記の通り翌日の11月10日の朝に発表することが決められていたにも拘らず、それを伝えられていなかった(シャボフスキーに渡された文書は10日に報道発表するための文書だったため、上記の政令案と違って、発効期日は書かれていなかった)ため、シャボフスキーは「私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということです()」と答えてしまった。この発言を受け、ほどなく国境ゲートで、通過しようとする市民と指令を受け取っていない国境警備隊との間で当該指令の実施を巡ったトラブルが起きる。マスコミによって「旅行が自由化される」の部分だけが強調されたことも、混乱に拍車を掛ける(なお、シャボフスキーの発言の後、政令は正式に閣議決定され、東ドイツ国営通信が政府報道官の発表として伝えている)。この記者会見の模様は、夕方のニュース番組において生放送されていたが、これを見ていた東西両ベルリン市民は(東西ベルリンでは放送が相互にスピルオーバーするため、東西市民は互いのテレビ番組を視聴することが可能であった)半信半疑で壁周辺に集まりだした。一方、国境警備隊は指令を受け取っておらず、報道も見ていなかったため対応できず、市内数カ所のゲート付近ではいざこざが起き始めた。この時、ベルリン北部のボルンホルマー通りにある検問所の司令官は、後に「ベルリンの壁を開放した男」と呼ばれることになる中佐であった。シュタージにも所属していたイエーガーは、シャボフスキーによる自由往来の発表を耳にして仰天した。イエーガーはシャボフスキーの記者会見が始まった18時頃に上官から警備を引き継いでいたが、その1時間ほど後のシャボフスキーの発言と共に検問所に続々と民衆が集まって来た。イエーガーは「シャボフスキーが言ったのだから」と詰め寄る群衆に規則ではビザとパスポートが要るのだから出直すよう言ったが、群衆は「ゲートを開けろ、ゲートを開けろ、壁を撤去しろ」と叫びだした。ボルンホルマー通りの検問所には、「より攻撃的な」連中を捜し、その姓名を控えた上でパスポートの写真の上に特別なスタンプを押して通過させろという命令が下された。このスタンプを押すことは東ドイツの市民権を剥奪し、帰国不可にすることを意味していた。21時20分頃イエーガー中佐は、この方法で250-300人を通過させたが、さらにその背後には数千人の殺気立った群衆がゲートを圧迫していた。一方、ベルリン市の中央部にあるチャーリー検問所は地下鉄の駅に近いため群衆が続々と集まっていた。膨れ上がった群衆に、さして多くはない国境警備隊は太刀打ちできなかった。チャーリー検問所の司令官メル大佐は何度も司令部に電話したが、現場に居ない上官は待機命令を出すだけで、責任逃れに終始したため責任を押しつけられた現場の警備隊は板挟みに陥り、対応に困り果てた。また、同じ1989年6月4日の天安門事件の影響もある上に、すでに東ドイツの全ての軍警はあらゆるデモに対して武力制圧をすることを拒否していたため、武力をちらつかせての威嚇や武力制圧という手段はまず不可能で、事態収拾の策は尽きていた。党本部の書記長執務室にいたクレンツは、市内に6か所ある検問所すべてが群衆に囲まれているという報告を受けた。クレンツはこの群衆を押しとどめるのはもはや無理であると感じていた。11月9日22時30分頃、ボルンホルマー通りの検問所には2万を超える群衆が詰めかけていた。イエーガー中佐は何度も上官に指令を仰いだが「待て」と言われるばかりであった。興奮状態下での市民の暴走や圧死による群集事故の発生を恐れたイエーガー中佐は上官に「これ以上検問所を維持することは出来ない」と伝え、独断で部下にゲートを上げさせると、群衆に手を振って通過を促した。こうして、ついに東西ベルリンの国境は開放されることになった。一時間後にはチャーリー検問所でも、メル大佐が同じ決断を下し、独断でゲートを開かせた。夜半までに全検問所が開放され、全ての国境警備隊には撤収命令が下された 。本来の政令はあくまでも「旅行許可の規制緩和」がその内容であって東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であった。東ドイツ国営テレビは繰り返し「旅行には申請が必要です」と放送していたが、それを顧みる者はいなかった。混乱の中で東側、西側の検問所ともに許可証の所持は全く確認されることがなかったため、許可証を持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大量に徒歩や東ドイツの国民車であるトラバント、ヴァルトブルクなどで西ベルリンに雪崩れ込んだ。西ベルリンの市民も騒ぎを聞いて歴史的瞬間を見ようとゲート付近に集まっており、祝いの花や酒を片手に抱き合ったり、一緒に踊ったりあり合わせの紙吹雪をまき散らしたり、壁の周辺で歓迎の歌を歌うなど東ベルリン群衆を西ベルリン群衆が歓迎する様子が各所でみられた。また世界各国から集まったテレビカメラがこの風景を「緊急ニュース」という形で世界中に伝えた。なおこの大騒ぎはそれから三日三晩続いた。 その頃、党幹部達の住宅地区にいたシャボフスキーの妻イリーナは、大半の党幹部達の家に灯りが無く、既に寝付いていたことに気付いた。イリーナは、夫の発言が引き起こしたことが体制の崩壊につながると予感し、テレビでの騒ぎは何かと尋ねる年老いた母親と以下のような会話を交わしていた。数時間後の11月10日未明になると、どこからともなくハンマーやつるはし、建設機械が持ち出され、「ベルリン市民」はそれらで自主的に壁の破壊作業を始めた。壁は東側によって建設された東側の「所有物」であるが、東側からは壁を「ベルリン市民」が壊していい旨の許可は一切出されていない。しかし数日後からは東側当局によって、重機などを用いて正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになった。こうして1961年8月13日に建設が始まった「ベルリンの壁」は、建設開始から28年後の1989年11月10日、ついに破壊された。ベルリンの壁は、「冷戦」「越えられない物」「変えられない物」の象徴だった。これは西ドイツ国民も誰も予想しておらず、事件当時、西ドイツ首相のヘルムート・コールは外遊先のポーランドに滞在中であったが、このベルリンの壁開放のニュースに接し、急遽ワルシャワからベルリンへ向かった。この後東西ベルリンの境界だけでなく、東ドイツと西ドイツの間の壁や有刺鉄線で閉ざされた国境も開放されることとなった。ポルシェ、BMW、メルセデス・ベンツを自国に擁する西ドイツ市民から見ると、酷く時代遅れな東ドイツ製のトラバントやヴァルトブルクに乗った東ドイツ市民が相次いで国境を越え西ドイツに入ってきた。西ドイツ国民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え、中には彼ら一人一人に花束をプレゼントする者まで現れた。こうした国境線にも越境を阻止する壁や有刺鉄線などが張られていたが、これらも間もなく壁と同じく東西ドイツの軍警の手によって速やかに撤去された。東ドイツ国民が乗っていたトラバントは、それから長くの間東西ドイツ融合の象徴として扱われることとなった。11月13日、ハンス・モドロウ内閣が発足した。モドロウは政治・経済の改革を表明し、23日には社会主義統一党がホーネッカーの不正調査の開始、在野勢力への円卓会議開催の呼びかけ、憲法第1条に定められている「党による国家の指導」条項の削除を表明し、一党独裁制を放棄した(12月1日に憲法改正) 。12月3日、社会主義統一党は緊急中央委員会総会を開催し、クレンツ以下政治局員・中央委員は自己批判の声明を採択して全員辞任し、ホーネッカー、シュトフ、エーリッヒ・ミールケ(前国家保安相)らは党を除名された。クレンツは6日に国家評議会議長も辞任し、わずか2か月足らずでクレンツ政権は終わった。12月8-9日に開かれた社会主義統一党の党大会は、党名を社会主義統一・民主社会党(SED-PDS)に改名し、1990年1月にはクレンツやシャボフスキーも党から追放された。こうして社会主義統一党の一党独裁制は崩壊し、モドロウは政治・経済の改革を表明すると同時に早急な東西ドイツ統一を否定し、条約共同体による国家連合を提唱した。しかし、壁の崩壊後1日約2,000人の東ドイツ国民が西へ流出し、東ドイツマルクの価値は10分の1に暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済は崩壊していった。12月、モドロウはコールに対し150億ドイツマルクの支援を要請したが、コールはこれを拒否した。また、知識人たちは「民主的な社会主義国家」としての存続を模索していたが、民主化の過程で明るみになったホーネッカーら社会主義統一党の旧幹部達の不正や贅沢行為に一般労働者たちは怒り、社会主義そのものに対して否定的になっていった。軍や警察の機能は停止し、国民を抑圧していた国家保安省の出先機関が群衆に襲撃されるようになっても、東ドイツ政府は何の手を打つことも出来なかった。1990年初頭には市民の70%が東ドイツ国家の存続を望んでいたが、ライプツィヒの月曜デモでは「()」と言う声が挙がるようになり、2月になると東ドイツが自力ではもう長く存続出来ないと認識されるようになった。結局、東ドイツの旧政権幹部たちが恐れていたように、「社会主義のイデオロギー」が崩壊した東ドイツは国家として存続できなくなり、崩壊していったのである。ベルリンの壁崩壊に対して、ソビエト連邦、アメリカ合衆国、東ヨーロッパなどから祝辞を送られ、次の政治目標には、1945年5月8日のソビエト連邦とイギリス、アメリカ、フランスによるドイツ分断以降、ドイツ人にとっては悲願である東西ドイツ統一が設定されその気運が高まった。フランス大統領フランソワ・ミッテランは、ベルリンの壁崩壊に反対していたイギリス首相マーガレット・サッチャーに、統一ドイツはアドルフ・ヒトラーよりも広大な領土を手に入れるであろう、そしてその結果にヨーロッパは耐えなければならないことになると語った。ソビエト連邦の最高指導者であったゴルバチョフは、東西ドイツ統一には時間がかかると想定していた上に、東ドイツが北大西洋条約機構(NATO)に参加することを恐れていた。アメリカ合衆国の大統領であったジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)も、統一がそれほど早い時期に実現するとは考えていなかった。西ドイツ首相のコールですら、早急な統一には無理が生じると考えていた。東ドイツのモドロウ政権は円卓会議を開き、自由選挙の実施、新国家のための新憲法草案の作成まで決定していた。しかしながら1990年3月、東ドイツにおいて最初で最後となる自由選挙が行われ、西ドイツのコール首相が肩入れした速やかに東西統一を求めるキリスト教民主同盟を中心とした勢力が国民の支持を受けて勝利すると、それまでの社会主義統一党政権が主張していた東西の対等な合併ではなく、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツ(ドイツ民主共和国)を編入する方式(東ドイツの5州を復活し、それを自発的にドイツ連邦共和国に加入させる)で統一が果たされることに決定した。こうして東西ドイツの統一は、ソ連、ヨーロッパ諸国、アメリカ、そして西ドイツ首脳が考えていたよりもはるかに速いスピードで進められた。この驚異的なスピードで進んだドイツ再統一の原動力は、ベルリンの壁が崩壊した事によって生み出された「歓喜」と「感動」、そして東ドイツの国家としての崩壊であった。結局、ベルリンの壁崩壊から満1年も経たない1990年10月3日、悲願の東西ドイツの統一が実現した。10月3日の統一式典では、ベルリンの旧帝国議会議事堂に「黒・紅・金の三色旗」が揚げられ、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏された。しかし、この「感動」と「歓喜」の情熱の渦はコールが想定したとおりの弊害をもたらした。東ドイツでは1989年11月10日以後、自分達は2つに分裂したうちの片方である「東ドイツ国民」ではなく統一された「ドイツ国民」であるという意識が大きくなっていった。これが早急なドイツ統一を支持する背景となった。統一後の経済的な不安が想定されて然るべきであるが、壁の崩壊直後に西ドイツ政府が西ドイツを訪問する東ドイツ市民に対して渡した一時金はこの不安をかき消す事を助長した。ドイツの再統一は、東ドイツ市民を無条件で裕福にするかのような幻想を生み出した。結局「ドイツ再統一」のスピードが余りにも速すぎたことは、その後の経済的混乱によって実証される事になった。世界屈指の経済大国であった旧西ドイツと旧東ドイツの経済格差は一時的な幻想では覆い隠せないほど歴然たるものが存在した。現在でも東西の所得格差は残されたままである。また旧東ドイツでは資本主義に適応できなかった旧国営企業の倒産によって失業者が増加し、旧西ドイツでは旧東ドイツへの投資コストなどが足かせとなって景気の低迷を招いた。このため東西双方で市民の間に不満が高まることになった。"東西ドイツの統一に関する法的な見方については「ドイツ再統一」を参照すること。"ゴルバチョフは従来から冷戦の緊張関係を緩和させる新思考外交を展開していたが、ドイツの東西分裂とベルリンの壁の存在は、冷戦の代名詞でもあり、いくら緊張緩和といってもベルリン問題を解消しない限り「冷戦の終結」とはいえない状況であった。ところが、ベルリンの壁が崩壊したことで、東西ドイツの統一に一応の目処が立った。壁崩壊から1か月後の1989年12月3日、アメリカの父ブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフの両首脳がマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言した。ベルリンの壁崩壊は、既に民主化を果たしていたポーランドやハンガリーやブルガリアのみならず、東ヨーロッパ全域に波及した。1989年11月17日には、チェコスロバキアでビロード革命が発生し、ポーランドのワルシャワではチェーカー(KGBの前身)の設立者フェリックス・ジェルジンスキーの銅像が三つ裂きにされて撤去された。そして、マルタ会談の直後の12月16日にはルーマニア革命 (1989年)が発生した。また、東欧同様、ソ連の衛星国であったモンゴルでも、壁崩壊後の一ヵ月後の12月10日、サンジャースレンギーン・ゾリクを中心とする民主化デモが発生した。1990年にかけて民主化運動は進展し、モンゴル人民革命党の一党独裁体制が崩壊し新憲法制定、複数政党制の導入が実現した。そして、ベルリンの壁崩壊から2年後の1991年8月20日にはバルト三国が独立し、1991年12月25日には共産主義の元祖であったソビエト連邦自身まで崩壊した。ベルリンの壁崩壊から20周年に当たる2009年には、ドイツ国内でもイベントが開かれた。式典ではドイツのアンゲラ・メルケル首相、フランスのニコラ・サルコジ大統領、ロシアのドミトリー・メドベージェフ大統領、イギリスのゴードン・ブラウン首相、 アメリカのヒラリー・クリントン国務長官らがブランデンブルク門を東から西にくぐって友好を演出した。ただしバラク・オバマ大統領は出席しなかった。冷戦終結の立役者となったポーランドのレフ・ヴァウェンサ元大統領、旧ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ両元大統領も姿を見せた。「ベルリンの壁崩壊記念日」の2009年11月9日には、ドイツ政府主催のイベントがベルリンで開かれ、このイベントでは、ベルリンの壁に見立てた発泡スチロール製のドミノ約1000個を倒すイベントも行われた。このイベントでは、ヴァウェンサがドミノ倒しの火蓋を切った。2009年10月31日には、ジョージ・H・W・ブッシュ(父ブッシュ)、ゴルバチョフ、コールの3人がベルリンで再会した。このイベントにおける3人の発言は、以下の通りである。壁崩壊から四半世紀となる2014年11月9日にも記念行事が行われ、かつてのベルリンの壁沿いの一部に灯りを点けた白い風船を配置し、夜に一斉に空へと風船を飛ばす「リヒトグレンツェ(,)」というイベントが行われた。また、ゴルバチョフは5年前と同様にベルリンを訪問した。上述のように、東ドイツのホーネッカー政権退陣とベルリンの壁崩壊に功績のあったゴルバチョフは、と挨拶した。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。