ウィリアム・ジョセフ・シーボルド(William Joseph Sebald, 1901年11月5日 - 1980年8月10日)は、アメリカ合衆国の外交官。1952年から1954年まで駐ビルマ大使、1957年から1961年まで駐オーストラリア大使を務めた。1901年にメリーランド州ボルチモアで誕生。1922年に海軍兵学校を卒業。海軍兵学校時代は日本語を学んだ。1918年から1930年まではアメリカ海軍に所属し、第一次世界大戦に参加。日本で海軍語学官を務めた。1925年から3年間は駐日アメリカ大使館武官部に所属した。1933年、メリーランド大学で法学士号を取得。その後、日本で弁護士業を開業。1942年から1945年までアメリカ海軍に所属し、第二次世界大戦に参加。第二次世界大戦では、予備役将校として最初にアメリカ海軍情報局に所属。続いてアーネスト・キング大将配下の戦闘情報特別部門に所属。終戦後の1945年、東京駐在連合国最高司令官政治顧問団特別補佐役を務め、1946年に特別試験で正式に外交官の資格を取得。1947年から1952年まではジョージ・アチソンの後を継いで駐日政治顧問および連合国軍最高司令官総司令部外交局長を務めた。また対日理事会におけるアメリカ代表の役割もジョージ・アチソンから継承し、シーボルドは対日理事会において議長も務めた。シーボルドは連合国軍最高司令官総司令部における国務省代表として機能し、1947年から1951年にかけてはダグラス・マッカーサー元帥の代理人も務めた。シーボルドは駐日時代、50万人超の日本人捕虜を日本に帰還させる主導的役割を担った。1949年にはバターワース国務次官補に対して、竹島は日本の領土である勧告とする電報を送付した。1951年には南西諸島や小笠原諸島の信託統治に関して、日本の過度な反感を買う行為は慎むべきと論じた。シーボルドは事実上の駐日大使としての役割を果たし、外交・領事業務についても処理した。1952年から1954年まで駐ビルマ大使。1954年から1957年まで極東担当国務副次官補。1957年から1961年まで駐オーストラリア大使。1980年にフロリダ州ネイプルズで肺気腫により死亡。
出典:wikipedia
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