日本横断運河(にほんおうだんうんが)は、1960年代に日本で計画された運河である。中部横断運河とも呼ばれた。揖斐川と琵琶湖を利用して伊勢湾と敦賀湾とを運河で結び、1万トン級以上の大きさの船舶を通そうという計画であった。中京地域を中心に議論が進められ、中部運河の仮称で呼ばれていた。1990年代には変更案として淀川と琵琶湖を利用して大阪湾と敦賀湾とを運河で結ぶ案が検討された。現在は翻案となる本州横断運河が構想されている。運河のルート案の一つは、次のようなものだった。伊勢湾岸から約25キロメートルの区間は揖斐川を利用し、その地点(岐阜県内)から滋賀県長浜市(当時の長浜市域)北方の琵琶湖岸までの約44キロメートルの運河を開削。そこから塩津(当時西浅井村、現在長浜市)まで約20キロメートルは琵琶湖上を利用し、塩津から敦賀湾岸までは約19キロメートルの運河を開削するもの。全長約108キロメートルとされた。その他に、揖斐川に岐阜港を設け、トンネル方式で琵琶湖を通らず敦賀湾につなげるルートが運輸省で検討された。計画が実現すると、伊勢湾と敦賀湾との間を航行するのにかかる時間は、関門海峡を経由する航路の36時間に対して、北行きで14時間、南行きで20時間と半分程度に短縮されるはずであった。また、時間短縮効果以外にも、海のない岐阜県が海に直結する、太平洋側に比べて発展の遅れた日本海側の発展を促進する、琵琶湖の増水被害を減少させるなどの効果があるとされた。1959年のセントローレンス海路開通により日本でも運河の認知が高まり、北栄造福井県知事が積極的な姿勢を示したことから本格化した。当初は敦賀湾から琵琶湖を経て大阪湾とつなぐ構想だったが、平田佐矩四日市市長などの推進により計画が進むこととなった。計画の経緯は、次のようなものだった。1961年(昭和36年)5月、当時自由民主党副総裁であり岐阜県出身者でもある大野伴睦が三重県四日市市を訪れた折、平田佐矩市長から大運河構想を聞き、それについての協力を要請された。9月13日、北伊勢工業地帯開発協議会において、運河建設の可能性を検討するための調査をコンサルタント会社(パシフィックコンサルタンツ)に依頼すること、調査費は愛知、三重、岐阜、滋賀、福井の5県で分担することなどが話し合われた。この調査の結果は1962年(昭和37年)1月に発表された。1962年(昭和37年)8月、5県の知事と四日市、名古屋、敦賀の3市長により「中部運河計画協議会」が結成された。また、5県選出の国会議員により「中部運河建設促進議員同盟」が結成され、大野伴睦が会長に就いた。大野は「私の政治生命をかけて運河完成に努力する」と言明した。国の昭和38年度予算には1,000万円の調査費が計上され、これは昭和39年度予算では倍増された。ところが1964年(昭和39年)の大野の急死、昭和40年代の海運不況、さらには経済効果に対する疑問などのため、計画は実現に至らなかった。
出典:wikipedia
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