ルイストン()は、アメリカ合衆国メイン州アンドロスコッギン郡に位置する都市であり、州内第2の都市である。人口は2010年国勢調査で41,592人であり、2000年の35,690人より2.5%増加した。ルイストン・オーバーン都市圏の2つの主要都市の一つである。ポートランド・ルイストン・サウスポートランド複合都市圏の一部でもある。ルイストンはメイン州の南中部に位置する元は工業の中心地であり、アンドロスコッギン川を挟んで対岸にはオーバーン市があり、また川の滝線がある。ルイストンとオーバーンは一体のものと考えられることが多く、ルイストン=オーバーンと呼ばれ、口語的には"L-A"あるいは"L/A"と短縮され、両市合わせた人口は59,647人になる。ルイストンには全米有数のリベラルアーツであるベイツ・カレッジ、聖ピーターと聖ポールのバシリカ、南メイン大学のルイストン=オーバーン・カレッジ、および2つの重要な地域総合病院であるセントラル・メイン医療センターとセントメアリーズ地域医療センターがある。ルイストン地域には元々アンドロスコッギン族、またの名をアロサガンタコック族と呼ばれるインディアンが住んでいた。アンドロスコッギン族はアベナキ・ネーションの一部族だった。1690年のフィリップ王戦争の時にこの地域から追い出された後、カナダのセントフランシスに移動したが、1759年にロジャース・レンジャーズによって破壊され、現在はオダナクとなっている。ルイストン地域を含む土地特許は1768年1月28日に、ペジェプスコット領主のメンバーであるモーゼス・リトルとジョナサン・バグリーに、1774年6月1日までに50家族を住まわせるという条件で与えられた。バグリーとリトルが現在の町の名前であるルイストンと名付けた。1770年秋、ポール・ヒルドレスがルイストンに入植した最初の者となった。1795年には公式に町として編入された。この時期から残っている家は少なくとも4軒あり、現在は国定歴史史跡に登録されている。ルイストンの歴史の初期は緩りとだが着実に成長した時代だった。しかし1800年代初期から半ばにはアンドロスコッギン川の水力に助けられて工業が勃興するには最適の立地であることが分かった。1809年、マイケル・リトルが滝の側に大規模な製材所を建設した。これは1814年に放火によって消失したが、後に建て直された。1836年、地元の企業家達、特にリトル家やその友人達が、下記の趣意書でアンドロスコッギン滝ダム・閘門・運河会社を設立した。この会社は後にルイストン水力会社として再編され、新株の発行でボストンの投資家達を惹き付けた。その中にはトマス・J・ヒル、ライマン・ニコルズ、ジョージ・L・ウォード、アレクサンダー・デウィットおよびベンジャミン・E・ベイツ(ベイツミルやベイツ・カレッジの名前のもと)がいた。彼等はアンドロスコッギン川沿いに運河や幾つかの繊維工場を建設する資金を出した。このことがルイストンの町を小さな農業町からマサチューセッツ州ローウェルをモデルにする繊維の都市へ変革する契機になった。ベイツミルは1850年代から21世紀に到るまでルイストンで最大の雇用主であり続けた。ルイストンの人口は19世紀に急増した。1849年には鉄道が敷かれた。それと共に運河や工場を建設するために少なからぬアイルランド人労働者が市内に入ってきた。南北戦争のときに繊維に対する需要が高まり、ルイストンは強力な工業基地になった。1870年代からは鉄道がカナダまで延びて、さらに多くのフランス系カナダ人が流入し、それまでの「ヤンキー少女繊維労働者」に取って代わった。それ以来市内人口に占めるフランス系アメリカ人の比率が高くなった。フランス系アメリカ人は中心街に入り、そこは「リトル・カナダ」と呼ばれるようになった。1840年から1890年、ルイストンの人口は1,801人から21,701人にまでなった。この途中の1863年、ルイストンは市政を布いた。土地のコーラ・シュラインが1891年に組織化され、リスボン通りのマソニック寺院でフリーメイソンの最初の集会が開かれた。この集団は1980年から1910年にサバタス通りに州内最大の友愛会組織本部であるコーラ聖堂を建設した。建築家ジョージ・M・コームズがこのムーア様式建築を設計した。市の指導者達はポートランドのローマ・カトリック教区が移って来られるように大聖堂の建設を決めた。聖ピーターと聖ポールの教会建築は1905年に始まり、1938年に終わったが、その費用はルイストン住人の数多い少額の献金によるものだった。メイン州では最大のローマ・カトリック教会であり、ルイストンで最も著名な目印になっている。ポートランド教区はルイストンに移らなかったが、この教会は2004年にバシリカになった。主要大都市圏以外では数少ないバシリカの一つになっている。第一次世界大戦後、ルイストン、ニューハンプシャー州のマンチェスター、コネチカット州のウォーターバリー、マサチューセッツ州のフォールリバー、ヘイブリル、ローレンスおよびローウェルのようなニューイングランドの工業都市における繊維産業の利益が上がらなくなった。事業は近代的技術を活かした低コストの動力を求めて南部に移転し始めた。ルイストンの水車技術は水力発電、安い輸送費(綿花の大半は南部から輸送されていた)および南部の安い労働力に敗れてその座を譲っていた。1950年代後半からは、ルイストンの繊維工場の多くが閉鎖し始めた。このことでルイストンの中心街が次第に荒廃し放棄されていった。中心街にあったウールワース、W・T・グラント、S・S・クレスギー、J.C.ペニーおよびシアーズローバックのようなチェーン店が閉店するか、ルイストンあるいはオーバーン郊外のショッピングモールに移転した。ルイストン市の象徴的存在であり1世紀以上も営業を続けていた4階建ての百貨店B・ペック&Co.が1982年に閉店した。企業と仕事が市内から無くなると市民もそれに続いた。人口は増加を止め、1970年以降は緩りと、1990年代は急速に減少し始めた。高い失業率と中心街の沈滞を生んだ1980年代の経済不況に続いて、幾つかの重要な出来事が経済と文化の復興の時期に繋がった。これには歴史あるベイツ・ミル・コンプレックスの用途転換もあった。ベイツ・ミルが滞納税が払えなくなった後の1992年に、市がこれを引き継いだので、面積1,100,000平方フィート (102,000 m) の巨大敷地を維持していく市の必要性について長年続いた納税者の怒りは、2回の住民投票を行うことになった(1つは非結合でもう1つは結合)。住民はこの資産を維持して私企業の開発者に売却することで再開発を求める必要性をしっかりと支持した。2001年、市は工場建物の3棟を地元の開発者に売却した。プラッツ・アソシエーツは続いて2003年に、ミル5と小さな支援建物1棟を除いて、ベイツ・ミル・コンプレックスを売却した。その後の4年間でプラッツが工場建物を再開発した後、多くの企業が繁栄してきた。2004年5月、ルイストン市は中心街地域の都市再開発計画を公表した。この計画は連邦政府の10年以上にわたって供給される地域社会開発包括的補助金を使って、19世紀の工場労働者住宅街数ブロックを解体し、最新のインフラを伴う新しい通りを配置し、持ち家で低密度の住宅を建設し、一つの地区を貫く大通りを建設するものである。影響のある地区の多くの住人は、この計画の詳細が当初ほとんど知らされないままに公表されたと感じた。彼等は「ビジブル・コミュニティ」と呼ぶ地区集団を結成して、計画の遂行に積極的に関わっており、新しいバスケットボールコートの位置に関する情報や、メイン州最大の全コンクリート造りスケート公園の創設に関する評価などケネディ公園の再設計について地区と市当局の間の協力が生まれてきた。現在の中心街にはオックスフォード・ネットワークスの新しい本社があり、地元で光ファイバーの2,000万ドルをかけた更新、新しい自動車部品店、アンドーバー・カレッジのキャンパス、ノースイースト銀行の本店、駐車場、および国定歴史史跡に指定され新たに改修されたメイン・サプライ会社ビルがある。この施設は現在キーバンク・プラザの事業サービスセンターと呼ばれ、地元商工会議所、ルイストン・オーバーン経済成長委員会が入り、多くのサービス会社が革新的に配置されている。この地域の再生は地元、地域、および全国的認知を得てきた。2002年、さらには2006年、メイン州経済および地域社会開発局の事業投資および拡張リストに拠れば、ルイストン・オーバーン地域が州内経済開発活動をリードしてきた。事業を誘致し維持する費用に関して2006年にKPMGインタナショナルが行った調査では、ルイストンがニューイングランドの地域社会では第1位、アメリカ合衆国全49地域社会の中では24位にランクされた。ルイストンはナショナル・シビック・リーグから2007年全米都市賞を受賞した。この全国的な賞では、「都市住民が共に働いて地域社会に拡がる挑戦を同定して取り組み、測定可能で通常とは異なる成果を得た地域社会を認める」ものである。毎年10都市のみがこの賞を得ている。1967年にオーバーン市がこの賞を得て以来、メイン州では久しぶりの受賞となった。1999年、国連難民高等弁務官事務所の要請で、アメリカ合衆国政府はソマリアのバンツー少数民族から推計12,000人の難民を再定住させアメリカ合衆国国内の都市を選ばせる準備を始めた。アメリカ合衆国に早期に到着した者の大半はジョージア州のアトランタに近いクラークストンに入ったが、アトランタ市は犯罪率が高いという問題に直面したと主張した。ルイストンというメイン州の小さな町が犯罪率は低く、良い学校や安価な住宅があるという情報が間もなく拡がりケニアの難民キャンプにまで届いた。その後ソマリ人がこの元工場町にポツポツ現れる様になり、間もなく数ヶ月の間に数百人のバンツー族が大挙して到着した。2006年、ニューヨーカー・マガジンのウィリアム・フィネガンのリポートでは、ソマリ移民がルイストンに到着してから5年経った時点でも、その成人の50%以上が雇用されていないと見積もられている。2008年のメイン州労働局の報告でも未雇用率51%を確認した。2002年10月、当時の市長ローリエ・T・レイモンドはソマリ地域社会の指導者達に宛てた公開状を書き、市の公益事業に負の影響を予測し、これ以上ルイストンに移住することを奨励しないと伝えた。この書簡で人々を怒らせ、地域社会の指導者達や住人が市長に抗議したので、全国的な注目を浴びた。バンツーの移民が居ることを支援する人々と、これに反対する人々双方によってルイストンの町でデモが行われた。ルイストン住人の電話や郵便で寄せられた声では、20対1で市長の書簡を支持していた。2003年1月、市長が意図したことを支持する白人至上主義者集団がルイストンでデモし、ベイツ・カレッジや「メニー・アンド・ワン・コアリッション」の組織で約4,000人のその反対デモが続いた。白人至上主義者集団の呼びかけには32人が応じただけだった。この呼びかけの日に市長は州外に出ており、州知事や他の高官が出席した。2006年、ルイストンにあるモスクで信者達が礼拝しているときに、冷凍し切断されたブタの頭が投げ込まれた。イスラム教ではブタが不浄のものとされ、豚肉を食べることを禁じているので、町のイスラム教徒社会に対する攻撃と考えられた。このときの容疑者はその行動を認め、冗談だったと主張した。この男は後に自殺した。ルイストンのメイン通りはアメリカ国道202号線、メイン州道11号線と100号線になっている。市バス:オーバーン市と協同でシティリンクすなわちパープル・バスシステムを使っている。月曜日から土曜日まで、午前6時から午後5時半まで、9つの路線を運行している。料金は1人1.25ドル、6人で6.25ドル、1ヶ月定期は30ドルであり、高校生は1人1.25ドル、1ヶ月定期は15ドルである。また高齢者と障害者は1人0.6ドル、11人で6ドル、1ヶ月定期は15ドルである。中心街のシャトルバスは唯一無料の路線である。ルイストンとオーバーン両市の中心街を走っている。シティリンクの駅はオーバーンにある。リスボンまで行く唯一の線を運行している。シティリンクの利用客は年間約235,000人である。タクシーの運行会社が4社あり、中でもシティキャブ会社が地域最大である。その他にウェスタン・メイン交通システムがメイン州西部全てで運行している。2000年にオープンしたフランス系アメリカ人伝統センターは元のセントメアリーズ・パリッシュにある。ここではピアノとケルトのシリーズのようなフランス系アメリカ人に関わる芸能と文化的展示のための行事を行っている。多様なプログラムには地元や国際的な人物が登場している。またフランス系アメリカ人の歴史的工作物や文書を展示する博物館として、また小さな図書館としても機能している。ルイストンには公共劇場もあり、年間を通してシーズン当たり6件から8件の劇を上演している。中心街のメイプル通りにあるが、元はパーク通りにあった。あらゆる種類の劇を上演しており、世界中からの俳優が出演している。事務所はオーバーンのグレートフォールズ・プラザにある。グレートフォールズ気球祭は毎年8月の週末に行われる行事である。気球の上昇、ゲームおよび遊園地式の乗り物が出る。気球の昇降場所はルイストンとオーバーンのアンドロスコッギン川に面した幾つかの公園である。アメリカやカナダ中から観光客が訪れる。市内再出しの年間行事と言われている。元はフェスティバル・ド・ジョアと呼ばれていたフェスティバル・フランコファンは毎年アンドロスコッギン川岸コリシーで開催され、フランス系アメリカ人の遺産を祝うものである。この祭ではフランス系カナダ人音楽家の公演があり、フランス系カナダ料理が出される。毎年7月4日に開催される自由祭では、ツインシティの間にあるアンドロスコッギン川のグレートフォールズ上に花火が打ち上げられる。打ち上げ場所はオーバーンのウェストピッチ公園である。見物場所としてルイストンでは退役兵公園、鉄道公園、マーデンス駐車場、オーバーンではロカスト通りのカントリーキッチン駐車場およびグレートフォールズ・プラザが挙げられる。パトリック・デンプシー・チャレンジは毎年開催されているが、その始まった都市には癌研究のために100万ドルの寄付が集められた。この行事にはツール・ド・フランスに参加した者を含め世界中の競技者を集めている。利益は全てセントラル・メイン医療センターのパトリック・デンプシー癌治療センターに収められる。ポートランドを所在地とし、ルイストンのメイン通りに支局を置くCBS系列とNBC系列のテレビ局各1局がある。FMラジオ局 WFNK はルイストンで免許を取得したが、ポートランドから放送を流している。ベイツ・カレッジのラジオ局 WRBC は大変人気があり、市民参加型のラジオ局である。ルイストンのスポーツの中心はアンドロスコッギン川岸コリシー(元セントラル・メイン市民センターと呼ばれた)である。ケベック・メジャージュニア・ホッケーリーグで唯一アメリカのチームであるルイストン・メイニアックスが試合を行っている。ここでは毎年州内A級とB級の高校ホッケー選手権大会が開催されている。ルイストン市はフランス系カナダ人の伝統によって、アイスホッケーの試合に強い情熱を示す都市として知られている。ルイストン高校とセントドミニク地域高校は州内の歴史でもA級高校ホッケー選手権大会の半分以上に出場してきた。1965年、モハメド・アリとソニー・リストンのヘビー級ボクシング・タイトルマッチがルイストンで行われた。当日の観客数は2,434人に過ぎず、ヘビー級タイトル試合の観客数としては最小記録になっている。ルイストン・メイニアックスはルイストンのバーチ通りにあるコリシーを本拠にするプロのホッケーチームである。ケベック・メジャージュニア・ホッケーリーグのTELUS中部地区に属している。リーグに属する18チームの中で唯一アメリカにある、すなわちカナダ以外のチームである。本拠地は2003年にケベック州のシャーブルックからルイストンに移された。2006年から2007年のシーズンでは東部で1位になり2007年プレジデントカップを獲得した。2007年メモリアルカップにも参加した。現在のオーナーはマーク・ジャストとジョエル・ブーシャードである。これまでNHLのドラフトにも選手を送り出してきた。ルイストンの公共教育は最近ファーウェル小学校とペッティングヒル学校に新しい建物を建設してきた。現在は600人収容のガイガー小学校を建て直している。トマス・J・マクマホン学校を建て直す計画が立てられている。市内には、アメリカ合衆国でも最も権威有る小型カレッジの一つであるベイツ・カレッジがある。ルイストンはに位置する。アメリカ合衆国国勢調査局による報告では、ルイストンの市域全面積は35.2平方マイル (91.1 km)、このうち陸地が34.1平方マイル (88.3 km) であり、水域は1.1平方マイル (2.8 km)、水域率は3.13%である。市の西側境界を流れるアンドロスコッギン川に水を注いでいる。川向こうはオーバーン市であり、グリーン、サバタスおよびリスボンの町と境を接している。州内最大の都市で文化の中心でもあるあるポートランドと州都オーガスタの間に位置している。以下は2006年の国勢調査推計による人口統計データである。言語による分類
出典:Modern Language Association Data Centerソマリア移民関連
出典:wikipedia
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