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板井圭介

板井 圭介(いたい けいすけ、本名は四股名と同じ、1956年3月21日- )は、大分県臼杵市出身で、かつて大鳴戸部屋(現存せず)に所属していた元大相撲力士。最高位は西小結(1989年5月場所)。現役時代の体格は178cm、139kg。得意技は突き、押し、叩き。小学生の頃から中学校卒業までは、野球をやっていた(主に右翼手だったという)。しかし、当時実業団相撲で活躍していた兄・義美を追って、大分県立大分水産高等学校(現・大分県立海洋科学高等学校)に入学してから本格的に相撲を始めた。同高等学校の相撲部ではそこそこの実績を残し、卒業時には宮城野親方(元横綱・吉葉山)からのスカウトを受けた(日本大学や駒澤大学などからの勧誘もあった)。しかし「まだプロ入りする自信がない」などの理由でこれを断り、高校卒業後、直ちに黒崎窯業(現・黒崎播磨)に就職。同社の相撲部では国体青年の部で優勝するなど活躍した。在職中の1975年には朝日山部屋入門が持ち上がったが、朝日山部屋のお家騒動に巻き込まれ入門は立ち消えとなった。退職後の1978年、大鳴戸部屋(師匠は元関脇・高鐵山)に入門。実業団時代には闘鶏に凝っており、競技用の鶏まで飼っていたという。同年9月場所で初土俵を踏んだが幕下付出の申請をせず、前相撲から取った。実業団相撲で4年以上養った実力は伊達ではなく、序ノ口から三段目まで3場所連続優勝し、26連勝(当時本割形式で行われていた前相撲を含むと29連勝)という当時のデビューからの最多連勝記録を打ち立てた(2012年1月場所で、常幸龍貴之が更新。ちなみに連勝は、元小結・大錦が止めた)。翌年9月、序ノ口から僅か5場所で十両にスピード昇進(戦後では土佐豊、常幸龍と並ぶ1位タイ)。十両昇進を機に、四股名を「板井」から師匠の現役名と同じ「高鐵山(こうてつやま)」に改めた。その後も順調に番付を上げ、1980年9月場所、初土俵から丸2年で新入幕を果たした。しかし新入幕の場所では、足の関節を傷めた影響で全く振るわず、すぐに十両へと陥落。翌年5月場所では再入幕したが、この時も左膝の怪我により不本意な成績に終わり、1場所で十両に下がった。それから間もなく、四股名を元の「板井」に戻している。その後は一時、幕下にまで番付を落としていたこともあった。1983年3月場所にて4度目の入幕を果たしてからは長く幕内の地位を守り、1989年3月場所では東前頭7枚目で11勝4敗と好成績を挙げて殊勲・技能両賞を受賞。ちょうど場所中に33歳の誕生日を迎えた板井は、潮錦(1959年5月場所)以来となる33歳以上の高齢での三賞初受賞を果たした。翌場所、自己最高位となる小結に昇進(同場所では3勝12敗と大きく負け越し、三役経験はこの1場所のみで終わっている)。前述の通り膝が悪く、巡業中でもほとんど稽古をしていなかった(ある巡業でぶつかり稽古をしていたところ、「倒れ方を知っているのか」と噂が立った)が、立ち合いのタイミングの取り方は天才的と評した親方もいた。1991年7月場所では、東前頭14枚目の地位で15戦全敗を喫し十両へと陥落(幕内皆勤全敗は、これ以降、現在(2016年1月場所後)まで誰も記録していない)。途中休場した翌9月場所中、廃業を表明した。初土俵・新十両・新入幕・廃業がすべて同じ9月場所でのことだったという、珍しい経歴を残している。また同年5月場所では、2日目に「昭和の大横綱」と言われた千代の富士と対戦して敗れ、結果として彼の現役最後となる白星を提供している(翌3日目に貴闘力に敗れた後、引退を表明したため)。当初は現役を引退し、年寄・春日山を襲名することが確実だったが、日本相撲協会が年寄襲名の申請を却下したため廃業せざるを得ない事態となった。なぜ協会が年寄襲名を認めず廃業させたかについては、「土俵上のマナーが悪かったから」「廃業後、物議を醸した八百長相撲の主犯格として協会から目をつけられていたから」「 『15戦全敗』 という無様な成績を記録したから」といった憶測が流れたが、その真相は現在でも謎のままである。また、春日山は借株で襲名する形式で手続きしたため、所有者と揉めた可能性もある。その後、廃業力士としては異例の、国技館の土俵上においての断髪式を行った。廃業後は一時、東京都江戸川区内で相撲料理の店を経営した。2008年現在、ガラス工をしていると語っている。廃業の直因は一説に、「ここ数年巡業に参加していない力士がいる」と勧告されたことであるという。当時の中立親方(元横綱・栃ノ海)がある時巡業で「ちっとは稽古しろ」と促すと「いや、自宅のベランダで四股を踏んでますよ」と反駁するなど、膝の負傷があったとはいえ稽古態度は悪かったとされており、金城と並んで不良力士と評する向きもあった。横綱・大乃国との取り組みでは両手の掌部にウレタンなどのパッドを入れ、その上からテーピングで前腕部までをグルグル巻きにして、あご先への張り手(というより、骨法の掌打のような奇襲攻撃)一発で勝ったことがある(奪った金星3個は、全て大乃国からのもの)。この怪しげなテーピングについては「卑怯」「見栄えが悪い」「みっともない」と協会内部・マスコミなどで問題視され、板井の年寄襲名が認められなかった一因とも言われている。また一方では大乃国がガチンコ力士だったため、そのような行為をしたとも言われる。大乃国は板井のことを心底嫌っており、引退から数年後のインタビューでは、「1人顔面を張ってくる力士がいた。あまりに腹が立つので組み止めたら両肘を極めて、土俵の外に出さずにそのまま腕を折ってやろうかと思ったほどだ」と語っている。1991年9月、当時の理事長である二子山親方(元横綱・若乃花)が年寄と関取全員を対象として「無気力相撲」を議題とした緊急会議を開き、そこでは出羽海(元横綱・佐田の山、当時監察委員長)が現役力士達(及び当時の若い年寄衆)による金銭の絡んだ星のやり取りの横行を指摘した。出羽海はその緊急会議で「仲介者は厳罰を受ける」と示唆し、同年同月に板井は年寄襲名を却下されて廃業の憂き目に遭った。師匠の大鳴戸親方(元関脇・高鐵山孝之進)が廃業後大相撲の「八百長」を告発し、板井が千代の富士グループの仲介・工作人(中盆)として八百長を行っていたと主張したが、板井は沈黙を守った(ちなみに板井は千代の富士に全敗している)。板井は1980年代に新宗教GLAに入会し、その後、八百長の真実を明かすことは神から与えられた自らの使命であると認識するようになった。そして、大鳴戸の死後の2000年1月、外国特派員協会の講演で、自らも「八百長」を告発し物議を醸した。2008年には日本相撲協会と週刊現代を発行する講談社との間で争われている八百長記事をめぐる裁判の中で、現代側証人として出廷し、「(2000年1月八百長を告発したのは)とあるサッカーの試合のチケットを貰ったお礼」と証言した。また、現役時代に北の湖(元横綱)との取り組みの中で、自ら八百長を持ちかけたことを証言した。同年には自身が現役時に記帳した八百長管理用のノートに基づいた暴露本を出版した。この一連の告発については上述した1991年9月の緊急会議、年寄襲名却下との因果関係が指摘されている。2011年2月の大相撲八百長問題を前後して板井は音信不通となっており、安否が掴めていなかったが、2011年2月27日放送のたかじんのそこまで言って委員会に顔にモザイクを入れて出演した。同番組中で、病気によりやせたと語った。                                                                                                   

出典:wikipedia

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