陶山 篤太郎(すやま とくたろう、1895年4月4日 - 1941年9月28日)は詩人、実業家。昭和初期に政治家としても活動した。1895年、神奈川県橘樹郡川崎町(現・川崎市)砂子生まれ。1913年(大正2年)に横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)卒業。1919年(大正8年)の雑誌『太洋の周辺』の同人になり、1924年(大正13年)に詩集「銅牌」を刊行する。また、労働学校の講師になり、労働者の教育に従事する。1932年(昭和3年)に社会民主党から川崎市会議員選に出馬して、最高点で当選し、副議長を務める。1938年(昭和13年)に9月21日から1939年11月21日まで、川崎市会の副議長を勤める。後に神奈川県会議員に当選して、東京府と神奈川県の水利紛争でも大きな役割を果たす。1937年4月30日第20回衆議院議員総選挙に、神奈川2区で政治革新協議会より出馬する。1940年、吉川節子(陶山節子)と結婚する。詩人としての活動では、北原白秋、与謝野晶子らと童謡詩人会を結成したり、高村光太郎と親交を結ぶ。高村は後に、陶山のために銅碑を立てている。1941年肺結核で死去する。大日本赤誠会の顧問も務める。
出典:wikipedia
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