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衣笠映画聯盟

衣笠映画聯盟(きぬがさえいがれんめい、1926年4月 設立 - 1928年6月 解消)は、かつて存在した日本の映画製作プロダクションである。新字体表記衣笠映画連盟。衣笠貞之助が主宰した。衣笠貞之助は1926年(大正15年)、満30歳を迎え、かねてから「三〇になったら何かやらなければいかん」と考えていたことから、同年4月、マキノ・プロダクションを退社、衣笠映画聯盟を設立する。ムービーカメラを所有していた衣笠は「テントを張ってライトをつけてやれば、日本映画は出来る」との発想で独立し、これに俳優の井上正夫、小説家の横光利一、川端康成、岸田国士ら、「新感覚派」と呼ばれた若手文士から賛同を得た。衣笠は当時助監督の犬塚稔の紹介で松竹キネマの白井信太郎に会い、松竹下加茂撮影所の使用許可と資金援助をとりつけ、同年5月5日から同撮影所に籠もり、『狂つた一頁』の撮影を開始した。食うや食わずの困難を続け、『狂つた一頁』は1か月ほどで完成、衣笠監督は完成フィルムを抱えて自ら東上して必死で駆け回り、東京築地の松竹本社で蒲田の監督たちを寄せての試写にこぎつけたが、誰もこの作品を称賛せず、営業部も良い返事をしなかった。が、経緯を察した松竹の大谷竹次郎社長がこのフィルムを買い取ってくれ、合わせて下賀茂撮影所での時代劇製作を勧めてくれた。この頃、松竹は現代劇は人気があったが、蒲田で作る時代劇が一向にパッとしなかった。そこで、蒲田に代えて京都の下賀茂での時代劇製作に注力しはじめていたのである。同年9月24日、東京・新宿の武蔵野館(現在の新宿武蔵野館)で公開。岩崎昶が絶賛したほか批評的には好評を得たが、興行的には不調で1万3,000円(当時)程度の欠損を抱えた。同聯盟は債権者の白井のために、大谷社長の勧める時代劇映画を制作。『照る日くもる日 第一篇・第二篇』、『麒麟児』等の商業作品を松竹キネマから受注制作した。明けて1927年(昭和2年)、同聯盟は松竹キネマの新人俳優・林長丸(のちの長谷川一夫)を預かり、林長二郎と改名、『稚児の剣法』でデビューを飾った。同作は、助監督・脚本家の犬塚稔の監督昇進第1作でもあった。三日でこの長二郎主演作の脚本を仕上げた犬塚を監督に抜擢したのは白井所長であり、キャメラマンに衣笠聯盟の円谷英一を推薦したのは犬塚である。新人の林長二郎は、当時阪妻プロで破格の勢いだった阪東妻三郎をして「おれがこわいと思うのはこの男だけだ」と言わしめたほど抜きんでており、同作は大ヒットし、林長二郎は多数の女性ファンを獲得。林長二郎を作り出したことによって、連盟は大谷の厚意に報いることとなった。このころ、同聯盟の脚本部には三村伸太郎、冬島泰三、監督部には小石栄一、山崎藤江、俳優部には千早晶子、浦波須磨子が加わった。1928年(昭和3年)、衣笠は『海国記』の撮影において、九州地方や北陸地方の海岸へのロケーション撮影を敢行、数百人のエキストラを動員して大モブシーンを演出した。さらに『十字路』を製作、同年5月4日に公開の後の同年6月、同作をかかえてソビエト連邦経由でドイツへ経ち、同聯盟は解消となった。同聯盟からは、犬塚稔のほか、山崎藤江、星哲郎が映画監督としてデビューした。フクロウをシンボルマークとし、大・小道具の係は皆、フクロウを描いた半纏を着、銀紙を貼った照明板の裏にもフクロウの絵がついていた。このフクロウの絵は、少人数だった衣笠映画聯盟が夜間撮影の連続だったことにちなんでいる。全作製作。特筆以外の全作監督は衣笠貞之助、特筆以外の配給は松竹キネマである。

出典:wikipedia

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