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河崎 (伊勢市)

河崎(かわさき)は三重県伊勢市の地名。一丁目から三丁目まである。郵便番号は516-0009。人口は1,870人(2010年1月31日現在、住民基本台帳人口)。伊勢湾を渡ってきた伊勢神宮の参拝客が上陸する河岸(かし)を中心に室町時代から江戸時代にかけて発達した町で、町屋や土蔵などの歴史的景観が残されている。伊勢市の中北部・山田の北部に位置し、地形的には沖積平野上にある。河崎の中央東寄りを勢田川(せたがわ)が南北に流れ、左岸(西岸)に一丁目と二丁目、右岸(東岸)に三丁目がある。各丁目とも現在は主に住宅地として利用されている。勢田川沿いの道筋約800mに古民家が立ち並ぶ。北は船江、東は神久(じんきゅう)、南は吹上、西は宮後(みやじり)と接する。市立小・中学校に通う場合、学区は以下のようになる。豊受大神宮(伊勢神宮外宮)の鳥居前町山田の北方にある河崎が、歴史の表舞台に登場するのは中世以降のことである。現在河崎と呼ばれている地域は鎌倉時代には「河辺里」だったとする説があるが定かでない(後述)。中世に勢田川西岸に民家ができたと見られ、北条氏の遺臣である左衛門太夫宗次が田畑を開墾し、宅地を開いたという。左衛門太夫宗次は後に河崎氏を名乗るようになり、開拓地に関門を置いて城郭さながらの町を築いたとされる。1439年(永享11年)の『道後政所職事記』には「箕曲継橋両郷代官職」に補任された七郎兵衛督が「除河崎」とされたという記述があり、この頃には河崎が地名として定着したようである。ただし、勢田川河口の大湊の入港記録である『船々聚銭帳』の1565年(永禄8年)分には「川崎」と表記されている。法楽寺に残る史料によると当時の河崎は法楽寺の「河崎領」であり、2人に半分ずつ分け与えられたという。この時代には、神社(かみやしろ)などとともに河岸として整い始めたと考えられている。『宇治山田市史』には「当地の古名を河邊ノ里と称したと云ふ説の多きに対し、全く別所だと断じた説も多くある」と記載されているように、河辺里(河邊の里)と河崎が同じ場所であるか、はっきりとしない。現在の郷土史家の見解では、河辺里を河崎に比定する説はあまり支持されていないが、ここでは両論を併記する。江戸時代になると河崎町あるいは山田河崎町と称するようになり、隣接する船江町と合わせて上中之郷として「山田十二郷」に加入した。これより山田奉行から公認を受けた自治組織・山田三方の施政下に置かれるようになる。この頃の河崎は日本各地から集まる物資を売りさばく問屋が軒を連ね、山田最大の商業地区を形成していた。具体的な物資の内容について『五鈴遺響』は、米・柴(雑木)・薪・魚・塩・蔬菜であるとし、大変繁盛していると記している。1628年(寛永4年)春には、山田奉行所が御囲穀倉という非常用の米蔵を建てた。諸国から物資が集まるだけでなく、志摩国の海産物や伊勢平野の農産物の積み出し港としても機能したという。更に河崎は、物資の集散地としての役割にとどまらず、三河国以東から伊勢湾を渡り勢田川を遡(さかのぼ)って訪れた参宮客の上陸地点でもあった。当時の賑わいは「勢田の流の入舟出舟、わけて賑ふ御蔭年」という謡われた。これらの水運を利用して伊勢参宮をすることは「川筋参宮」と呼ばれ、参宮船は太鼓を打ち鳴らしながら入港したため、「どんどこさん」と呼ばれていた。文人の頼山陽は、河崎から母と共に二見浦へ渡り、当地を詠んだ詩を残している。当地の遊郭で作られた「河崎音頭」は、外宮と内宮(皇大神宮)の中間付近にある古市に伝播し“伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ”の歌詞で知られる伊勢音頭となった。伊勢音頭は参宮客が「荷物にならない伊勢土産」として故郷に伝えたため、日本各地に広まった。明治時代になると山田を「神都」とすべく、河崎にあったすべての寺院が廃寺となった。1889年(明治22年)に入り町村制が施行されると、宇治山田町の1つの地区となる。1906年(明治39年)、宇治山田町が市に昇格。初代市長・北川矩一は当地から輩出された。川筋参宮は1893年(明治30年)の参宮鉄道(現JR参宮線)の開通による交通網の発達で明治末頃に見られなくなった。産業構造の変化も影響し、河崎は衰退していったが、神都線(路面電車)が河崎駅を設置したので、古市ほどの劇的な衰退はなかった。宇治山田市は第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月に空襲を受けた(宇治山田空襲)が、河崎町は戦災を逃れた。しかし、高度経済成長の時代に入ると陸上輸送が主流となり、河崎の物資集散地としての地位も失われた。1957年(昭和32年)、市立伊勢総合病院が河崎町に開院。(1980年〔昭和55年〕に移転。)1966年(昭和41年)、河崎に住居表示が導入、丁目が設定された。1974年(昭和49年)7月7日、集中豪雨によって洪水が起き、勢田川流域を中心に甚大な被害が出た。これは発生した日にちなみ「七夕水害」と呼ばれている。翌年から国の事業による勢田川改修が始まった。この河川改修では川幅の拡張が検討され、1976年(昭和51年)川に面した89戸の立ち退きが求められた。ここで河崎の住民が立ち上がり、町並み保存運動を開始する。この運動は結実し蔵は守られた。一時期の停滞の時期を経て、1999年(平成11年)には活動団体が「NPO法人伊勢河崎まちづくり衆」となった。2002年(平成14年)には同法人の活動拠点「伊勢河崎商人館」が開館、2004年(平成16年)には伊勢の伝統工芸品である伊勢春慶を復活させるべく、「伊勢春慶の会」が発足した。伊勢河崎商人館の開館により、河崎は観光地として注目が集まっている。しかし、観光地として成長するには観光客向けの商店・飲食店がまだ少ないことが課題である。近畿日本ツーリストの『'05-'06 伊勢 鳥羽 志摩 松阪』には、戦国時代に河崎宗次が開発したことにちなんで命名したとあるが、『宇治山田市史』によれば、宗次が河崎を名乗るようになったのはこの地に来てからであり、文字通り「川の崎」にあることに由来するという。河崎のまちづくりは住民の町並み保存から始まった。1979年(昭和54年)に「伊勢河崎の歴史と文化を育てる会」が発足、財団法人ナショナルトラスト協会の調査団が訪れた。1982年(昭和57年)には「河崎まちなみ館」が開館するなど周辺の活性が見られたが、その後活動は停滞する。活動が復活したのは1996年(平成8年)の河崎地区での伊勢市によるワークショップで、市が歴史文化交流拠点として河崎を位置づける方針を示した。1999年(平成11年)に中心となる組織「伊勢河崎まちづくり衆」が発足、2002年(平成14年)に河崎を代表する酒屋だった小川酒店を改築した「伊勢河崎商人館」を誕生させた。この小川酒店はマンション開発の危機にさらされていた。河崎のまちづくりの目標はあくまで「いつまでも住み続けられるまち」であり、それを失ってまでの観光開発は行わない旨を表明している。

出典:wikipedia

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