ブランデンブルク門(ブランデンブルクもん、)は、ドイツ・ベルリンのシンボルとされている門である。正面部は の東に面しており、ミッテ区に属している。高さは26m、幅は65.5m、奥行きは11mの、砂岩でできた古典主義様式の門である。ベルリンはかつて星型要塞に囲まれた城郭都市だったが、市街地の要塞外への拡大と軍事的価値の減少に伴い、1734年にプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は要塞の廃止を命じた。その代わりに市街地全体を大きく取り囲むようにが設けられた。ベルリンから各地に向かう街道と壁が交差するところには、14か所(のちに18か所に増える)の関税門が設けられ、それぞれ「ハンブルク門」「シレジア門」「ポツダム門」「アンハルト門」などと呼ばれ、ブランデンブルク門も関税門のひとつであった。どの門も、街道の先にある都市や地方の名前が門の名前になっており、ブランデンブルク門の場合はホーエンツォレルン家(ブランデンブルク辺境伯から、プロイセンの地を得てプロイセン王国の王、ドイツ帝国の皇帝となった)がベルリンに遷都するまで、ブランデンブルク辺境伯国の首都だったブランデンブルクに通ずる道を扼する役割を担っていた。1868年に税関壁の取り壊しとともに門も多くが姿を消していく中、ブランデンブルク門は残された。現在、城壁や都城の門は跡形もなくなったが、ベルリンには『~Tor(門)』という地名はそこかしこに残されている。ブランデンブルク門から東に向かうとウンター・デン・リンデンを経て王宮へとつながっており、プロイセン王族が、ベルリン市外に出てポツダムやティーアガルテンに向かう時には必ずこの門を通過する、ベルリンの正門と言っても過言ではない位置付けだった。ブランデンブルク門はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建築家によって古代ギリシャ風で設計され、1788年から3年間の建設工事を経て1791年8月6日に竣工している。これといった竣工式も行なわれないまま門は開通、供用に付されたという。門はアテネのアクロポリスの入り口にあったプロピュライアの門を模した物で、当時ドーリア式円柱だけが残っていたプロピュライアの創建時の姿を想像してそのままベルリンに再現した(実際は三角形の破風がプロピュライアの上にはあったと思われるが、ラングハンスは水平の屋階を載せている)。さらに門の上には、彫刻家が制作した四頭立ての馬車(クアドリガ)に乗った勝利の女神ヴィクトリアの像を乗せた。もとは平和の勝利を記念する「平和門」としての位置づけであったが、完成直後にナポレオン・ボナパルトによりベルリンは征服されブランデンブルク門はナポレオンのパレードの舞台と化し、ヴィクトリア像はフランスへ戦利品として持ち去られた。その後のナポレオン戦争によりプロイセン軍がパリを占領すると、ヴィクトリア像は再度ベルリンに持ち帰られ門の上に戻された。門は戦勝と凱旋のシンボルとなり、門のあるカレ広場(四角形広場の意)はパリ広場に改名され、ヴィクトリアの持つ杖には勝利を記念して鉄十字紋章が取り付けられた。門の前は列強の大使館やホテル・アドロンなどの壮麗な建築群が並ぶベルリンの中心地のひとつとなった。ブランデンブルク門はベルリン市街戦で損傷し廃墟となった。第二次世界大戦後は東ベルリンと西ベルリンとの境界線が門のすぐ西側に引かれ、門は東ベルリン側になった。門は1957年に東ベルリンにより修復されたものの、ヴィクトリアの持つ杖の先は、社会主義国らしくなるよう平和の象徴であるオリーブの枝に変えられた。それでも門を通っての東西ベルリンの往来は活発だったものの、1961年に東ドイツが国民流出を防ぐためベルリンの境界線を封鎖し、後に「ベルリンの壁」と呼ばれる壁を建設すると、門の前を壁が通る形となったため、門は東ベルリン西端の行き止まりとなり通行できなくなった。門の前にあった廃墟はすべて撤去されて何一つ建物のない無人地帯となった。1989年にベルリンの壁が崩壊し、再び門の下を通行できるようになった。ヴィクトリアの持つ杖の先は再び鉄十字に戻り、門は2000年12月から巨額の資金をかけて清掃と改修工事が行われた。周囲では1990年代から2000年代にかけてホテルや大使館などの再建が進み、門はベルリンを代表する観光地となっている。また、ドイツ東西の分離と統合のシンボルとしてドイツのユーロ硬貨の裏面に彫られている。ブランデンブルク州の州都ポツダム、メクレンブルク=フォアポンメルン州の小都市にも、それぞれ同名のブランデンブルク門が存在する。は七年戦争の戦勝記念碑として1771年に落成した。一方、は15世紀頃に建てられ、当時の城塞都市の一部であった。
出典:wikipedia
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