河尻 秀隆(かわじり ひでたか)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。黒母衣衆筆頭で、のちに織田信忠の補佐役及び、美濃岩村城主や甲斐府中城(甲府城)城主も務めた。秀隆および河尻氏に関係する文書は少なく、事跡の多くは『信長公記』や『甲陽軍鑑』、徳川氏関係の記録に記されている。秀隆の河尻氏は美濃出身の土豪の一族である。醍醐源氏の一派である肥後河尻氏との関係は不明。また、『信長公記』によると、織田大和守家(清洲織田氏)の家臣に河尻姓の人物(河尻与一)が見られるが、秀隆との関係は不明である。秀隆は当初は織田信武(織田大和守)に仕えた。後に織田信秀に仕えた。天文11年(1542年)8月、16歳で信秀に従って第1次小豆坂の戦いに参加した。天文17年(1548年)の第2次小豆坂の戦いに参加した。信秀没後は織田信長にも仕え、黒母衣衆の筆頭を務める。永禄元年(1558年)、信長が弟の織田信勝(信行)を謀殺するために清洲城へ呼び寄せたときには、信勝の殺害を実行したとされる。永禄3年(1560年)5月に桶狭間の戦いに参加する。永禄7年(1564年)に美濃攻めに参加、永禄8年(1565年)夏の美濃猿啄城攻略で武功を立てる。9月28日夕方、美濃堂洞城攻めで天主に1番乗りを果たす。永禄12年(1569年)9月の伊勢北畠氏攻めに参加する。元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いにも参加し、戦後には磯野員昌が守る佐和山城攻めで付城の一角である西彦根山に布陣した。同年9月の志賀の陣にも参加している。元亀3年(1572年)1月、美濃岩村城の城主であり信長の縁戚である遠山景任が子供が無いまま病死した為、信長は織田信広、秀隆らを派遣し、5男の坊丸(織田勝長)を遠山家の養子に据えた。しかし秀隆たちが引き揚げた後、10月に岩村城は武田信玄の西上作戦に伴い秋山虎繁の攻撃を受ける。信広、秀隆らは再び援軍として派遣されるも虎繁の前に敗北を喫し、岩村城は秋山虎繁の求婚により事実上の城主であった信長の叔母・景任正室のおつやの方が開城し、坊丸は人質として甲斐に送られた(元亀3年、岩村城の戦い)。天正2年(1574年)、前年に元服を終えたばかりの信長の嫡男・織田信忠の補佐役となり、同年2月、武田勝頼が明知城を落城させると最前線である神箆城に河尻秀隆が、小里城に池田恒興がそれぞれ守備を任せられた(天正2年、岩村城の戦い)。同年6月、伊勢長島一向一揆攻めに参加した。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにも信忠を補佐して参陣し、信忠に代わって信忠軍の指揮を執った。同年11月、信忠が岩村城を落城させた際には、信長の命令に従い、投降した城兵を処刑し、捕らえた秋山虎繁・おつやの方を美濃に送っている。この時、信忠軍団随一の功労者として、岩村城5万石を与えられる(天正3年、岩村城の戦い)。これらの経緯から信忠家臣団の目付的立場にあったと推測されている。天正7年(1579年)には信忠に従って荒木村重の摂津有岡城攻めに参加し、その攻略に武功を立てた。天正10年(1582年)2月からの甲州征伐においては織田軍先鋒として岩村口から武田領に侵入し、軍監として信忠家臣団を統率している。大いに活躍し、その功績により戦後の3月29日に信長から穴山信君領の甲斐河内領を除く甲斐22万石と信濃諏訪郡を与えられた。甲斐統治において、武田氏統治時代と同じ甲府の躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市古府中町)を居城としたとされるが、『甲斐国志』『武徳編年集成』では甲府近郊の岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠にしたとする説もある。秀隆の甲斐統治はわずかな期間であったが、甲府盆地や富士北麓、都留郡において文書が残存し、黒印状を用いた広域支配を試みていたことが知られる。天正10年(1582年)6月2日、京都で信長が明智光秀に襲撃されて自害する本能寺の変が起こると、旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が起こる。同じ織田家中の同僚である森長可・毛利長秀らが領地を放棄し美濃へ帰還する中、道家正栄、滝川一益、河尻秀隆らは領国に留まった。当時駿河を領有し、甲斐の併合を企図した徳川家康は秀隆を美濃に帰そうと本多信俊を使者として送るが、秀隆はこれに応じず逆に信俊を殺害した。しかし、その後発生した武田旧臣らが扇動する一揆に抗し切れず、秀隆は甲斐国からの脱出を試みるも、岩窪において武田遺臣の三井弥一郎に6月18日に殺害された。享年56。秀隆の死により空域化した甲斐国は、相模の北条氏直との争奪戦、いわゆる「天正壬午の乱」を制した徳川家康が領した。山梨県甲府市岩窪町には秀隆の首塚とされる河尻塚(甲府市指定史跡)、あるいは屋敷跡が伝えられている。子の秀長は秀隆の遺領を森長可に奪われて相続できなかったが、羽柴秀吉に仕え転戦して知行を得た。のち関ヶ原の戦いで西軍につき敗戦、戦死または自害した。秀長の弟である鎮行はのちに江戸幕府に召し出され、子孫は200俵の幕府旗本として存続した。信長が信忠に「秀隆を父と思って何事も相談せよ」と述べたといわれ、信長から厚い信頼を寄せられていたことを示す記述がある。
出典:wikipedia
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