恒性皇子(こうしょう(つねなり)おうじ、嘉元3年(1305年) - 元弘3年/正慶2年5月10日(1333年6月22日))は、鎌倉時代の皇族。後醍醐天皇の皇子。母親は源親子、義母は大叔母でもある憙子内親王(昭慶門院)。別名は大覚寺宮、越中宮。大覚寺門跡となっていたが、元弘の乱で隠岐に配流された後醍醐天皇に連座し、1332年(元弘2年/正慶元年)に還俗させられた上で越中国射水郡二塚(現・富山県高岡市二塚)にある現在の気多社(悪皇寺宮)に流されて、幽閉された。しかし、翌年には後醍醐天皇が隠岐から脱出して倒幕の兵を挙げる。出羽・越後の倒幕勢が皇子を担いで北陸道から京都へ進軍しようとしているという噂を聞きつけた執権・北条高時は、皇子の北陸での挙兵を警戒し、越中守護・名越時有に皇子の殺害を命じる。時有の甥・名越貞持によって、皇子は側近であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通と共に暗殺された。なお、名越氏もこの約一週間後に放生津城で滅亡している。太子墓と呼ばれていた高岡市二塚にある皇子の墓は、1912年(明治45年)の皇太子(後の大正天皇)の北陸巡啓の際に宮内省による調査が行われ、同県で唯一の皇族陵に定められた。現在は宮内庁が管理している。墓陵の近くには皇子ゆかりの品を伝えている浄誓寺がある。
出典:wikipedia
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