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大地の歌

『大地の歌』(だいちのうた、 )は、グスタフ・マーラーが1908年に作曲した、声楽(2人の独唱)を伴う交響曲。連作歌曲としての性格も併せ持っている。「大地の歌」というメインタイトルに続き、副題として「テノールとアルト(またはバリトン)とオーケストラのための交響曲」("Eine Symphonie für eine Tenor und Alt (oder Bariton) Stimme und Orchester" )とあり、通常マーラーが9番目に作曲した交響曲として位置づけられるが、連作歌曲としての性格も併せ持っており、「交響曲」と「管弦楽伴奏による連作歌曲」とを融合させたような作品であるといえる。このため、交響曲としてはかなり破格の存在であり、「9番目の交響曲」であるという点も影響してか、マーラーは「第○番」といった番号を与えなかった(詳しくは第九のジンクスの項を参照)。なお、ウニヴェルザール出版社から出版されている決定版総譜には「大地の歌」とだけ記されていて「交響曲」とは全く記されていないところを見ると、歌曲集としての重みも非常に強い。後にこの作品に影響を受けて、ツェムリンスキーの「抒情交響曲」や、ショスタコーヴィチの交響曲第14番が生まれている。作曲は1908年。6楽章からなり、テノールとアルト(またはバリトン)が交互に独唱をつとめる。歌詞は、李白(悲歌行など)らによる唐詩に基づき、ドイツの詩人・翻訳家のハンス・ベートゲ(1876年1月9日 - 1946年2月1日)が自由に翻訳・編集した詩集『中国の笛』から7編の詩を選び、これをマーラー自身が適宜改変したものによっている。マーラーがベートゲの『中国の笛』に出会ったのは作曲の前年1907年秋(同書の出版は同年10月)と考えられるが、その年の夏、マーラーは長女マリア・アンナの死に遭い、自身も心臓疾患の診断を受けていた。同年暮れには、10年間務めてきたウィーン宮廷歌劇場の音楽監督を辞任し、渡米するという転機を迎えている。マーラーにとって、死が身近なものとなり、音楽活動だけでなく、実生活面でもヨーロッパとの訣別という心情があったと考えられる。こうしたもとで作曲された『大地の歌』は、前作交響曲第8番までの、音楽の多声的かつ重層的な展開によって獲得していた多義性は影を潜め、これに代わって、色彩的で甘美、かつ耽美的な表現が全面に打ち出されている。書法的にも和声的・ホモフォニー的な進行が顕著になっている。とはいえ、このような特徴は、すでに交響曲第8番や第7番でも萌芽的に見られていたものである。マーラーの作曲活動は、交響曲と歌曲が大きな柱となっているが、『大地の歌』はこの両者が融合された傑作として、マーラー作品のなかでは親しみやすい交響曲第1番、第4番とともに、早くから受容されてきた。同時に、この曲から聴き取れる東洋的な無常観、厭世観、別離の気分は、つづく交響曲第9番とともに、マーラーの生涯や人間像を、決定的に印象づけるものとなっている。演奏時間約60分。なお『大地の歌』という日本語の訳題について、柴田南雄は「おそらく前記レコード(1939年に日本で発売されたブルーノ・ワルター指揮のレコード - 引用者註)発売時の邦訳であろうが、時期からして、パール・バックの『大地』を踏まえて付けられたのは疑いない」と断定している。2005年8月に、水藍(Lan Shui)指揮のシンガポール交響楽団、梁寧(Ning Liang)(メゾソプラノ)と莫華倫(Warren Mok)(テノール)独唱による、中国語歌唱の録音がなされている(BIS)。マーラーはこの作品の全曲のピアノ伴奏による稿を遺している。オーケストラ稿とは小節数や音、歌詞などに相違がある。このピアノ稿は、ヴォーカル・スコアのように作品に付随して生み出されたものとは異なり、独立した作品として構想され、同時並行的に作曲が進められている。このような例は、他に『少年の魔法の角笛』、『亡き子をしのぶ歌』があり、この曲の歌曲的性格を示す。このピアノ稿はマーラー存命中に演奏・出版されることがなく、死後、自筆譜を妻アルマが所持していた。1950年代にアルマは自筆稿を画商のオットー・カリルに贈り、これがステファン・ヘフリングによって校訂され、1989年にマーラー全集の補巻として出版された。オーケストラ稿とピアノ稿との比較によって、構想の推移やマーラーの意図をある程度つかむことができる。この成果から、1990年にオーケストラ稿の改訂版が出版されている。マーラーは偶数楽章をアルトまたはバリトンの独唱にあてており、その選択は演奏者に委ねられている。初演の指揮者でマーラーの直弟子のワルターは、この曲をたびたび演奏しているが、バリトンでの演奏は一度きりだった。そのこともあって、現在では男声と女声の対比をつけるためにアルトで演奏・録音する例が圧倒的に多い。そのためバリトンでの演奏・録音の例は多くないが、クリップス、クレツキ、バーンスタイン、ラトル、サロネン、ケント・ナガノなどが指揮した録音がある。なかでもバーンスタインがバリトンにフィッシャー=ディースカウを起用してウィーン・フィルハーモニー管弦楽団と行った録音が知られている。全6楽章からなる。テノールとアルト(またはバリトン、以下同じ)が楽章ごとに交互に独唱する。柴田南雄は全体の構成を、第4楽章を中心とし、第3楽章と第5楽章、第2楽章と第6楽章(前半)、第1楽章と第6楽章(後半)がそれぞれ対応する対照的配置であるとしている。これに対し、諸井誠は第3・4・5楽章をスケルツォ楽章の三部形式と見なすことで、音楽的には全体を伝統的な4楽章制交響曲として捉えることができ、詩的内容からは、第1楽章と第5楽章、第2楽章と第6楽章、第3楽章と第4楽章が対応関係になっているので、第3・4楽章を中間展開部とする三部構成と捉えることもできる、としている。しかし第3・4・5楽章を典型的な歌曲集の形としてみなすことも可能である。アレグロ・ペザンテ イ短調 3/4拍子詩は李白「悲歌行」に基づくが、自由に改変されている。テノール独唱。ホルンの斉奏で始まり、劇的でペシミスティックな性格が打ち出されている。歌詞は3節からなり、各節は「生は暗く、死もまた暗い」という同じ句で結ばれる。この句は最初はト短調、2回目に変イ短調、3回目にはイ調(長調と短調の間を揺れ動く)と半音ずつ上昇して強調されている。諸井誠はこの第1楽章と次の第2楽章について、ソナタ形式として分析することが可能だとしている。Etwas schleichend. Ermüdet(やや緩やかに、疲れたように) ニ短調 3/2拍子詩は銭起「效古秋夜長」とされてきたが、近年は疑問視されており、張籍もしくは張継との説がある(これについては第2楽章「秋に寂しき者」の問題を参照)。ソナタの緩徐楽章のようである。アルト独唱。Behaglich heiter(和やかに、明るく) 変ロ長調 2/2拍子詩は李白「宴陶家亭子」に基づく。テノール独唱。ピアノ稿の題名は「陶製の亭」であり、ベートゲの題名をそのまま使っている。ベートゲは原詩の「陶家」(陶氏の家)を「陶器の家」と誤訳している。音楽は五音音階を用いて東洋的な雰囲気を醸し出している。コモド・ドルチッシモ ト長調 3/4拍子詩は李白「採蓮曲」に基づく。アルト独唱。ピアノ稿の題名は「岸辺にて」であり、ベートゲの題名をそのまま使っている。蓮の花を摘む乙女を描く甘美な部分と馬を駆ける若者の勇壮な部分が見事なコントラストを作っている。アレグロ イ長調 4/4拍子詩は李白「春日酔起言志」に基づく。唐詩の内容に最も忠実とされる。ここでも管弦楽の間奏部分などに五音音階が顕著に用いられている。テノール独唱。Schwer(重々しく) ハ短調 4/4拍子 拡大されたソナタ形式。アルト独唱。詩は前半部分が孟浩然の「宿業師山房期丁大不至」、後半部分が王維の「送別」によっている。ベートゲの詩は唐詩に忠実だが、マーラーが2つの詩を結合させた上、自由に改変、追加している。曲の最後は「永遠に」の句を繰り返しながらハ長調の主和音(ハ-ホ-ト)に至るが、和音に音階の第6度音のイ音が加えられて(ハ-ホ-ト-イ)となっているため、ハ長調ともイ短調ともつかない、閉じられない印象を残す(この和音は、ベルクのヴァイオリン協奏曲(変ロ-ニ-ヘ-ト)でも結尾に使われているほか、後にはシックスス・コードとしてポピュラー音楽でも多用される)。マーラーはこの部分にGänzlich ersterbend (完全に死に絶えるように)と書き込んでいる。この楽章のみで約30分の演奏時間を持つ、非常に長大な楽章である。マーラーが歌詞に採用したのは、ハンス・ベートゲ編訳による詩集『中国の笛-中国の叙情詩による模倣作』である。ベートゲは中国語を解さず、『中国の笛』は、既出版の『中国の叙情詩』(ハンス・ハイルマン)、『唐詩』(エルヴェ・ド・サン=ドニ侯爵)、『玉書』(ジュディット・ゴーティエ)からの翻訳(サン=ドニとゴーティエの詩集はフランス語)あるいは自由な模倣によっている。このため、原詩にほぼ忠実なものや自由な模作となっているものが混在しており、元となった唐詩については特定できていないものもある。19世紀末から20世紀初頭にかけて、マーラーの周囲ではウィーン分離派やミュンヘンでのユーゲント・シュティールなど、感情と感覚が結合した時代様式が盛んであり、これはドイツ・オーストリアにとどまらない、ヨーロッパの風潮でもあった。この時代には文学、絵画を含めた芸術分野で「死」をテーマとした作品が数多く生み出されており、同時に、エキゾチズム、とりわけ日本を含めた東洋への関心も高まっていた。ベートゲの『中国の笛』は、このような時代の所産であり、マーラーの『大地の歌』もまたこの系列に含めることができる。したがって、『大地の歌』には先に述べたように、無常観、厭世観、別離の気分が漂っているとしても、このことで、マーラー自身が東洋的諦観に達していたとは必ずしもいえない。しかしながら、人間は死んで地上からいなくなるが、大地は永遠に繰り返して花を咲かせ、緑に覆われるというイメージについて、マーラーは10歳代のころから手紙でこのことに触れている。第6楽章で、「永遠の大地」を強調する歌詞を追加したのもマーラー自身である。アルトゥル・ショーペンハウアーやフリードリヒ・ニーチェの著作を読んでいたマーラーが、唐詩の編訳に接して、これに自身のイメージと体験を重ね合わせていたことは間違いない。『大地の歌』は、交響曲第8番に次いで完成され、本来ならば「第9番」という番号が付けられるべきものだった。しかし、ベートーヴェンやブルックナーが第9交響曲を書いて世を去っていることを意識したマーラーは、この曲に番号を与えず、単に「大地の歌」とした。その後に作曲したのが純然たる器楽作品であったため、これを交響曲第9番とした。マーラーは続いて交響曲第10番に着手したのだが、未完に終わり、結局「第九」のジンクスは成立してしまった、というのが通説となっている。これとは逆に、つづいて第9交響曲を作曲すれば「10曲」として数えることができるために、交響曲としては破格のこの曲に、あえて「交響曲」の名称を与えてジンクスの「緩衝地帯」としたとする説もある。この説は、ブルックナーが実際には10曲以上書いていることからすると、説得力に欠ける。ただし、『大地の歌』が交響曲として「破格」という点では、明確にソナタ形式を用いた楽章を欠き、強い歌曲的性格と書法に加えて、『亡き子をしのぶ歌』同様、ピアノ稿も同時に作曲されていた経過からして、そのような判断がマーラー自身にあったとも考えられる。『大地の歌』に番号が付されていない理由として、上記のジンクス説は、この曲の性格とマーラーの心理の一面を物語るものではあっても、それがすべてとはいえない。これまでのマーラー作品は、マーラー自身によって初演され、出版までに楽譜に手が加えられる過程で、表現がより明確にされ、標題などの位置づけも練り上げられて完成度が高められてきた。しかし、先述の通り『大地の歌』はマーラーの死によって、それが果たされなかった。このことは、「第九」のジンクスが、現在まで神話的に語られる要因となっている。事実上のアレグロ・ソナタや緩徐楽章を持った歌曲集でもある。『大地の歌』に使用された歌詞は、前述の通り原詩が特定されているものについては、全て盛唐の詩人の作品によるものである。原詩の特定はベートゲによる追創作や底本の誤訳によって容易ではなかったが、中国文学者の吉川幸次郎やドイツ文学者の富士川英郎、音楽学者の浜尾房子らの努力によって、7編のうち6編の原詩が確認されている。歌詞で唯一原詩が特定されていないのがこの「秋に寂しき者」である。かつては銭起の「效古秋夜長(古の秋夜長に效(なら)う)」によるという説が一般的だったが、これは秋の夜の男女の相思の情を歌ったもので、「中国の笛」に収められている哲学的な詩の内容には程遠い。さらに、ベートゲが表記した作者名「Tschang-Ti」は漢字表記に直せばむしろ「張籍」ないしは「張継」であり、ベートゲは同じ「Tschang-Ti」の表記で張籍の「節婦吟」を忠実に訳して「中国の笛」に収めているので、このことからこの詩は張籍による可能性が高いと見られている。しかし、遺された張籍の作品に該当するものが見当たらないことから、ベートゲによる追創作の可能性が指摘されている。

出典:wikipedia

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