歌川 豊広(うたがわ とよひろ、安永3年〈1774年〉 - 文政12年12月21日〈1830年1月15日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。歌川豊春の門人。姓岡島、俗称藤三郎。一柳斎と号す。江戸の人で芝片門前町に住んでいた。豊春に入門し一柳斎と称して天明8年(1788年)頃から絵暦の作画を始める。前年秋、中村座の狂言と考証される二世小佐川常世のおさんと三世沢村宗十郎の茂兵衛を描いた細判錦絵がある。ともいわれる。ただし、その後、寛政の末までの間の作品の有無に関しては未詳。初代歌川豊国とは同門であったが、豊広の作品は豊国より地味で、それが美人画や風景画にも現れている。豊春門下では豊国に次ぐ実力者であったが、版本の挿絵が活動の主体で、寛政12年(1800年)頃から、文化7年(1810年)の頃にかけては主に敵討物の黄表紙や合巻、噺本の挿絵を多く手がけており、山東京伝や曲亭馬琴、十返舎一九らの作品に携わっている。豊国のように役者絵に没頭しなかったので、門人に初代歌川広重の様な風景画家が輩出することとなった。広重の師として若干の風景画も残している。豊国と比較すると作品数は極めて少ないが、寛政(1789年 - 1801年)末年から文化(1804年 - 1818年)期に描いた美人画には、清楚でどこか弱々しく淋しげな表情が見られ、すらりとした柳腰の独特な趣がある。縦二枚続は豊広の創案と考えられる。また、肉筆美人画には叙情性の豊かな優れたものが数多く見られる。文化3年(1806年)から文政10年(1827年)頃まで、曲亭馬琴に認められてその読本に数多くの挿絵を描いた。錦絵の代表作として、「豊国豊広両画十二候」や「江戸八景」などがあげられる。享年56。墓所は港区虎ノ門の専光寺。法名は釈顕秀信士。豊広の門人には「東海道五十三次」の作者として著名な歌川広重のほか、息子の歌川豊清、歌川広近、歌川広演、歌川広兼、鳥羽広丸、歌川広恒、歌川広昌、歌川広政、歌川直広、歌川豊熊、歌川芳広らがいた。歌川広昌は沼津で旅人宿「太平屋」を営み、文化のころ活躍している。また歌川広政と同一人ともいわれる。
出典:wikipedia
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