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亀田藩

亀田藩(かめだはん)は、出羽国(羽後国)に存在した藩で、岩城氏を藩主家とした。藩庁は亀田城(秋田県由利本荘市岩城亀田)に置かれた。岩城氏は常陸平氏の血を汲む名族であるが、戦国時代中期の当主岩城重隆は娘の久保姫を伊達晴宗に嫁がせ、その長男である岩城親隆を養子に迎え後継としたため、親隆とその子の岩城常隆は伊達氏の男系の血筋ということになる。小田原征伐直後に常隆が病死したが、常隆の実子である政隆は常隆の死後に生まれたため、佐竹義重の三男・岩城貞隆(実母は伊達晴宗の娘)が岩城家を継いだ。政隆は伊達氏に戻っている。戦国時代末期における所領は、磐城平12万石であった。関ヶ原の戦いでは東軍方になったが、貞隆が長兄の佐竹義宣に従って会津征伐に参加しなかったため、改易された。同様に改易された兄の蘆名義広や弟の多賀谷宣家は義宣の臣となり、久保田藩へ転封された義宣と共に秋田へ移ったのに対し、貞隆は岩城家再興を誓って江戸で浪人した。戦国時代の出羽国由利郡は、由利十二頭と呼ばれる小勢力が割拠していた地である。単独で戦国大名と呼べるほどの大勢力は存在せず、周辺の安東氏(秋田氏)、小野寺氏、大宝寺氏、最上氏らの抗争の舞台となり、離合集散を繰り返していた。由利郡のうち亀田では、赤尾津氏が勢力を持っていた。但し赤尾津氏の拠点は、後に亀田城が立地する高城山北麓ではなく、南麓にあったと考えられている。赤尾津氏は由利衆の中では比較的大きな勢力であったが、関ヶ原の戦いの後に改易され、一族は佐竹氏、最上氏、生駒氏などに仕えた。江戸時代初期の時点で、由利郡の大半は最上領になっていた。慶長20年(1615年)の大阪夏の陣に際し、貞隆は本多正信の組下として参戦し戦功を上げたことで、翌元和2年(1616年)に信濃中村藩(川中島藩)1万石へ再封された。元和6年(1620年)10月に貞隆が死去すると、長男の岩城修理大夫吉隆(後の佐竹義隆)が後を継いだ。元和8年(1622年)、最上氏が改易された後の出羽国由利郡に1万石を加増される。翌元和9年(1623年)に吉隆は出羽亀田へ政庁を移し、信濃国の領地も出羽へ替地された。これによって亀田藩が成立した。寛永5年(1628年)に吉隆が佐竹家の養子に入ったため、叔父の岩城但馬守宣隆(多賀谷宣家から改名)が2代藩主となって岩城家を継いだ。以降4代藩主岩城伊予守秀隆までは、佐竹家の男系血統であった。佐竹家は岩城家転封後の亀田藩の検地・城下建設などを全面的に支援したが、藩経営が安定してからも藩政への介入を続けたため、様々な争いが起きている。特に、久保田藩において年貢米輸送など水運の大幹線であった雄物川に、一部亀田藩領を通過する区間があり(現在の秋田市雄和新波・雄和向野)、亀田藩が通行を統制しようとした際は、激しい対立が起こった。これらに伴い、次第に久保田藩と亀田藩の間には相互不信が募っていくようになった。享保3年(1718年)、4代藩主の秀隆が嫡子のないまま没して貞隆・宣隆の系統が断絶した結果、佐竹家と岩城家の間に血縁関係はなくなった。佐竹家から養子を取る話はあったものの交渉がまとまらなかったため、仙台藩主の伊達家から岩城但馬守隆韶が養子に入り、5代藩主となった。続く6代藩主の岩城河内守隆恭は伊達政隆の直系の子孫であり、常隆の系統が150年ぶりに岩城氏当主へ返り咲くことになった。これ以降、亀田藩と仙台藩との関係が強まっていく。1868年(慶応4年)の戊辰戦争では、東北諸藩が結んだ奥羽越列藩同盟に亀田藩も参加した。しかし、12代藩主の岩城左京大夫隆邦は同盟締結前に新政府の上洛命令に東北諸藩で唯一応じて明治天皇に拝謁したほどの勤王派であったこともあり、久保田藩の呼びかけで本荘藩・新庄藩・矢島藩とともに同盟を脱退し、新政府側に与した。ところが、亀田藩は新政府軍の先鋒として強権的に酷使され、特に山口藩から派遣された監軍の山本登雲助(やまもと とものすけ)が小藩と侮り横暴な振舞をしたことで、亀田藩内部で新政府軍を「官賊」(官軍を名乗る賊徒)と見なす声が上がり始めた。そんな折、庄内軍の猛攻により矢島が陥落した後の軍議で、亀田軍隊長の神谷男也(かみや おなり)を山本が罵倒し鉄扇で殴打するという屈辱的な事件が起こった。更に本荘藩領が次々と陥落していく中、弘前藩からの援軍が到着し、本荘藩主六郷政鑑も反撃を主張しているにも関わらず、山本は本荘・亀田を捨てて秋田へ総退却することを命じた。これで激怒した亀田藩は、藩主を説き伏せて庄内藩と交渉し、8月8日に和議が成立した。その後、庄内軍に合流して秋田の新政府軍(奥羽鎮撫隊)と戦ったが、9月11日、久保田城まで3里(約12km)の距離に迫ったところで、佐賀藩・鹿児島藩などの援軍が到着し新型兵器も供給され勢いを盛り返した新政府軍から痛烈な反撃を受けた(椿台の大会戦)。また、この頃米沢藩・仙台藩が降伏したことで、新政府軍に南北から挟撃される可能性が生じた。そのため庄内軍も撤退し自領防衛に徹することになったが、庄内軍は亀田を見捨てず、亀田軍の撤退を見届けてから自らが撤退することで信義を見せた。9月21日、亀田に進駐してきた久保田藩兵が、山本の命令で亀田城に放火した。9月27日、庄内藩とともに新政府軍へ降伏した。降伏嘆願書は秋田の奥羽鎮撫隊総督府ではなく、越後征討軍参謀の黒田清隆へ提出した。黒田に対し、秋田と庄内に挟まれ主体的な行動を取ることが困難であった事情を考慮させることに成功し、最終的に2,000石の減封と藩主隆邦の隠居という寛大な処分で済ませることができて、明治時代に至った。外様、2万石。

出典:wikipedia

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