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角川春樹

角川 春樹(かどかわ はるき、1942年1月8日 - )は、日本の実業家、映画監督、映画プロデューサー、俳人、冒険家。角川春樹事務所会長兼社長、幻戯書房会長。「河」主宰。富山県中新川郡水橋町(現富山市)に生まれ、東京都杉並区に育つ。父は角川書店の創業者の角川源義、母は富美子(旧姓鈴木)。杉並区立杉並第五小学校・杉並区立天沼中学校から國學院大學久我山高等学校に進む。高校在学中は剣道部に所属。早稲田大学第二文学部史学専修を受験し合格したが、國學院大學理事の地位にある父の懇願で國學院大學文学部に進学。大学在学中は拳闘部に所属してボクシングに熱中。大学3年の時には、渋谷ハチ公前で全学連相手200人に一人大立ち回りを演じ、新聞沙汰になったこともある。「俺の魂はスサノオノミコト」だと主張。毎日、祝詞とお経をあげ、「私は絶対だ。私は完全だ。私は神なのだ。」と唱えている。結婚歴は6回、離婚歴は5回である。1965年、角川書店入社。1970年から映画『ある愛の詩』『いちご白書』の原作本を始めとして、洋画の原作やノベライゼーションを次々と刊行。フレデリック・フォーサイスを日本に紹介した。社長である父・源義の存命中は、信賞必罰を貫く父の方針のもと、社内での立場もかなり浮き沈みがあったというが、父の反対を押し切って出版に踏み切った『ある愛の詩』の成功が後継者の地位の確立に繋がっていく。さらに当時は既に過去の作家となっていた横溝正史のブームを仕掛け、映画製作に乗り出すと、1970年代後半から1980年代にかけて、角川映画で一世を風靡した。映画と書籍を同時に売り出す方法は「角川商法」などと言われ、出版業界と当時停滞していた日本映画界の風雲児としてもてはやされた。1979年の『悪魔が来りて笛を吹く』『白昼の死角』、1981年の『魔界転生』は、角川映画ではなく純然たる東映映画(角川春樹事務所は企画協力)であるが、手腕を見込んだ岡田茂東映社長が角川個人をプロデューサーとして迎え入れた作品である。古代船「野性号」を建造して対馬海峡西水道を横断。この航海の模様は書籍『わが心のヤマタイ国 古代船野生号の鎮魂歌』にまとめられている。1977年にはカヌー「野性号II」を作り、「南島民の日本列島への飛来」を再現するため、ルソン島から鹿児島までの航海を行った。この航海の模様は、ドキュメンタリー映画『野性号の航海 翔べ 怪鳥モアのように』(1978年)に残された。上記のように、多方面で旺盛な活動ぶりを見せたが、1980年代終盤には、「角川三人娘」といわれた薬師丸ひろ子・原田知世・渡辺典子が、突如角川に反発する形で相次いで独立すると、映画の勢いにも陰りが見え始めた。また社内でも、経営路線の相違でかねてから対立していた実弟の角川歴彦との確執が表面化し、テレビ番組等での奇行や発言も一部で問題化したことなどを端緒に、次第に内外での影響力は低下。遂には社長権限で歴彦を角川書店から追放(職を剥奪して解雇)した事が決定打となり、歴彦が取り仕切っていた角川メディアオフィスの従業員のほとんどが歴彦に続く形で退社するなどの一斉反発を招き、角川書店は致命的な大打撃を負う事となった。1993年8月29日、コカイン密輸事件で麻薬取締法違反・関税法違反・業務上横領被疑事件で千葉県警察本部(千葉南警察署)により逮捕される。その後、千葉刑務所に勾留される。角川書店社長を退任。代わって弟の角川歴彦が角川書店社長に就任。1994年、1億円の保釈金で保釈。2000年、最高裁で懲役4年の実刑確定。2001年、東京拘置所に拘置。八王子医療刑務所で服役。2002年、静岡刑務所に移監され、2004年に仮出所した。刑務所では、かなりイジメられていたという。保釈中の1995年、出版社としての現・角川春樹事務所設立。かつて角川書店から刊行されていて、飛鳥新社に売却されていた、ティーンエイジャーの女性向けファッション雑誌「Popteen」(ポップティーン)を買い取り、刊行開始する。「Popteen」の姉妹誌として増刊号として刊行されていた「BLENDA」(ブレンダ)を、2003年9月より月刊化。1997年より、1970年代の角川文庫を連想させるエンターテインメント文庫「ハルキ文庫」を刊行開始。ハルキ文庫からは後に、かつて角川文庫から刊行され絶版となっていた国内SFなども多数、復刊した。SFに関しては2000年から小松左京賞を主催。小松左京の個人誌「小松左京マガジン」の販売も担当している。ハルキ文庫については、2000年からハルキ・ホラー文庫を刊行開始。1998年からはハルキ・ノベルズ刊行開始。1996年7月、荒俣宏責任編集のオカルト系雑誌「ボーダーランド」創刊。その関係で、翌年からオカルト系の書籍を刊行する「ボーダーランド文庫」を創刊。雑誌「ボーダーランド」は1997年9月号で休刊。「19世紀末パリの都市文化が産み落とした 高等遊民(隠居的生活者)」を意味する「ランティエ」から、1998年から「ランティエ叢書」を刊行開始。また2004年末には「50代以上の、大人の男の和を極める」雑誌、「ランティエ。」を創刊。2005年2月号からは雑誌名を「ランティエ」と変更して新創刊。2005年からは映画製作に復帰。「男たちの大和/YAMATO」(2005年)、「蒼き狼 〜地果て海尽きるまで〜」(2006年)、「椿三十郎」(2007年)、「神様のパズル」(2008年)と、大作、話題作を続けざまに制作している(復帰第一作である「男たちの大和」こそ大ヒットとなったものの、以降の作品は興行収入では苦戦している)。1979年、生前に父・源義が創刊・主宰し、源義没後は継母の角川照子が主宰を引き継いでいた俳誌「河」の副主宰に就任。選者の立場になったことから急激に俳句への傾斜を深め、以後旺盛に俳句に関わる。1981年に第一句集『カエサルの地』出版、翌年に第二句集『信長の首』を出版。中上健次は『信長の首』について、従来の俳句の「四畳半的な、せまい世界」をぶち壊したと評し、散文家としてショックを受けたと語る。晩年の山本健吉からも激賞を受け、その登場は俳壇的事件として捉えられた。1986年に俳句総合誌『俳句研究』を買収したことも話題となる。第二句集『信長の首』は1982年芸術選奨文部大臣賞および第6回俳人協会新人賞を受賞。以降も多数の句集を出しており、1983年『流され王』で第35回読売文学賞、1990年『花咲爺』で第24回蛇笏賞、2005年『海鼠の日』で第5回山本健吉文学賞、同年『JAPAN』で第8回加藤郁乎賞、2007年『角川家の戦後』で第7回山本健吉文学賞を受賞している。2006年「河」主宰に就任。俳句にはリズム感と映像の復元力、自己投影が必要とする。代表句は「黒き蝶ゴッホの耳を殺(そ)ぎに来る」(『カエサルの地』)、「向日葵や信長の首斬り落とす」(『信長の首』)、「流されてたましひ鳥となり帰る」(『流され王』)、「存在と時間とジンと晩夏光」(『存在と時間』)など。特に第三句集『流され王』以降で民俗的伝統への傾倒を示し、あらぶる神々への共感が句の特色となる。「河」主宰就任時より、「盆栽俳句」にまみれた既成俳壇から訣別するとして「魂の一行詩」を標榜。2011年には東日本大震災を受けた震災句集『白い戦場』を出版した。父は角川書店創業者・角川源義。母は源義の最初の妻・冨美子。姉の作家・辺見じゅん、KADOKAWA会長の角川歴彦(異母弟と報道されることもあるが、同じ母から生まれている)が同腹の姉弟。その他、父の後妻である俳人・角川照子を母に持つ異母妹・真理がいて、春樹は可愛がっていたが、18歳で自殺した。春樹自身、5人の女性との間に6度の結婚歴(5度の離婚)があり、5番目の妻は、現ライターの角川いつか、6番目の妻は歌手のASUKAである。最初の3人の妻との間にはそれぞれ子どもが1人ずついて、1人目の妻との間の長男・角川太郎は、春樹が社長を務めていた時代の角川書店に在籍していた。2人目の妻との間の長女は元アイドルで、現ライターの角川慶子。角川春樹にはいくつもの伝説があり、本人や周囲の人間によって語られている。(その他、プロデュースした作品の多くにカメオ出演している)

出典:wikipedia

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