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モリエール

モリエール(Molière、1622年1月15日 - 1673年2月17日)は、17世紀フランスの俳優、劇作家。コルネイユ、ラシーヌとともに古典主義の3大作家の1人。本名ジャン=バティスト・ポクラン(Jean-Baptiste Poquelin)。悲劇には才能がなかったが、鋭い風刺を効かせた数多くの優れた喜劇を制作し、フランス古典喜劇を完成させた。自筆原稿や手紙は見つかっていない。また、南仏修行時代のモリエールの署名とされる物には同じ筆跡が一つとして無いなど、その生涯、特に青年期に関しては不明な点が多い。極めて裕福な家庭に生まれ育ち、青年期に演劇を志して劇団を結成するも運営に失敗、パリから逃げ出すように13年間の南フランス演劇修行の旅に出た。その甲斐あってパリ帰還後に大成功を収め、自身が率いる劇団はフランス国王の寵愛を獲得するまでに至った。彼が率いていた劇団がコメディ・フランセーズの前身であることから、同劇団は「モリエールの家("La maison de Molière")」という別名を持つ。1622年1月15日に現在のパリのサントノーレ通りに面した家で、富裕な商人であるジャン・ポクラン(Jean Poquelin、父27歳)とマリー・クラッセ(Marie Cressé、母20歳)の間に長男として生まれる。ポクラン家は先祖代々商業を営んでおり、モリエールの祖父の代からは室内装飾業者を営んでいた。母マリー・クラッセもパリの裕福な商家の出身で、一通りの読み書きの心得も有ったので、無学文盲の多い当時の庶民階級の女性としては、かなり高度な教養を身につけていた。モリエールがどのような教育を受けたのかは、同時代人による証言がいくつかあるものの、それらが食い違っているため、本当のところよくわかっていない。以下の教育に関する記述もあくまで一説である。1631年ころ、ジェズイット派の運営するコレージュ・ド・クレルモンへ入学。同年、父親ジャン・ポクランが「王室付き室内装飾業者」という肩書を買い取った。1632年、母マリー・クラッセが死去。マリーの財産目録によれば、モリエールが生まれてから10年で一家の財産が3倍に膨れ上がっている。翌年父親がカトリーヌ・フルーレットと再婚し、継母となるが、1636年に死去している。1633年9月、父親が家を購入し、転居。この家は当時の商業の中心地であった中央市場や、様々な芸人が集まっていたポン・ヌフ、フランス国内で最初に有名になったサロン、ランブイエ邸の近くであった。また母方の祖父ルイ・クラッセが芝居好きで、当時一流の劇場であったブルゴーニュ劇場(Hôtel de Bourgogne)に桟敷を持っていたので、度々祖父に連れられて出かけたりしていた。このような環境で育ったことが劇作家としての基盤となった。1640年ころ、コレージュ・ド・クレルモンを卒業。その後、オルレアンの大学に進学し、法律を学んだ。この頃、女優であり、彼にとっては初めての恋人であるマドレーヌ・ベジャールに出会ったようである。シラノ・ド・ベルジュラックらとともに、ピエール・ガッサンディに哲学を学んだとされるが、定かではない。1643年、大学を卒業。弁護士として活動する資格を得る。この翌年、父親の代理として国王ルイ13世に随行しナルボンヌへ出向くなど、父親の跡を継ぐつもりであったようだが、次第に心変わりし家業を継ぐことを断念して、「王室付き室内装飾業者」世襲の権利は弟へ譲り、演劇の世界で生きていく決意を固めた。マドレーヌ・ベジャールに出会い、恋に落ちたために、この決意を固めたとする説や、相思相愛の仲であるマドレーヌに会うために、気の進まぬ役を引き受けてナルボンヌへの旅に出たとする説がある。1643年1月3日、モリエールは書面を以て父親に世襲権を抛棄する旨を宣言し、その権利を弟の一人に譲渡したいと申し出た。そして母親の遺産の一部(630リーヴル)を劇団結成の費用に充てる為に至急支払ってくれるよう要求した。商人として社会的地位を一歩一歩高めてきた父親は驚き、親戚共々翻意を迫ったが、モリエールの決意を翻す迄には至らなかった。同年6月30日、マドレーヌ・ベジャールの母親マリー=エルベの家にて、劇団結成の契約書に署名が為された。マドレーヌが座長格、モリエールが副座長格に就任した。しかし、座員はベジャール三兄妹のジョセフ、マドレーヌ、ジュヌヴィエーヴ、そしてモリエールの他数名、しかも俳優としての実績があるのはマドレーヌだけという有様で、残りの者はモリエールを含め全員演劇は素人であった。その為かマドレーヌだけは好きな役を勝手に選ぶ権利が保証されていた。また、その契約書には、座員が脱退する場合には「初舞台以前なら3000リーヴルの罰金、以後なら4か月以前に届け出を必要とする。なお違反した場合には全財産没収」とあるなど、熱意だけは素晴らしかった。かくして劇団は結成されたが、活動拠点とする劇場を探す必要があった。結成されたばかりで資金的余裕などなく、あちこち探し回った結果、1643年9月にセーヌ川左岸のサン=ジェルマン街に古ぼけたジュ・ド・ポーム球戯場に借り受けることとなったが、三年契約で1900リーヴルも必要であった為に、母親の遺産の中から手切れ金同然に貰い受けた分では当然足りず、結局父親に借金を申し込む羽目に陥った。当時のパリにおいて常設劇場として使えるのはブルゴーニュ劇場とマレー劇場の2つしかなかったため、常設劇場を持つ資金力のない劇団は球戯場を借りて劇場として改装し、そこで興行を行うのがふつうであった。盛名座の借りた球戯場もその例外でなく、改装しなければならなかったため、演劇への熱意を抑えられない一同は早速活動を始めるためにルーアンへ赴き、10月から1か月の間興行を行った。ルーアンはコルネイユが居住していた町で、後々のモリエール劇団のレパートリーに彼の作品が多くみられることを考えると、コルネイユを意識していたのかもしれない。ブルゴーニュ劇場とマレー劇場の2つのみが当時のパリにおける常設劇場であったことは先述したが、マレー劇場を使用していた劇団(マレー座)は新興勢力として、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで成長しており、ブルゴーニュ座を脅かす存在となっていた。その勢いを削ぐためにブルゴーニュ座の座長は、マレー座の団員を大量に引き抜く策略に出て、それを見事に成功させたのだった。以上がモリエールらが盛名座を起こした際(1643年ころ)のパリにおける演劇事情であるが、マレー座が勢いをずいぶん削がれた隙を突いて、成功を目論んだのかもしれない。少なくとも、抱える劇団員の数で考えれば、十分マレー座に取って代わることは可能であった。パリで興行を行うことができたのは1644年1月1日のことであった。座長のマドレーヌは劇団結成前から有名で人気のあった女優であったため、初めのうちはそれなりに客を集めるのに成功した。その上、同月13日にはマレー劇場が火災で消失するなど、盛名座を取り巻く状況は好転していくかのように思われた。ところが、劇団の改装に多額の借金をした上に、想定以上に時間がかかったため経営が苦しくなっていった。これは、盛名座が専ら悲劇を上演にかけていたのも一因である。座長、副座長ともに悲劇を好んでいたためにそのようにしていたのだが、当時悲劇で評判を得ていたブルゴーニュ劇場に対抗できなかったのである。モリエールは金策のために東奔西走し、あちこちで借金を重ねたが、ついに退団者が出てしまった。12月19日には、経費削減のためにさらに借賃の安いジュ・ド・ポームに移るが、状況は好転しなかった。1645年には座長格に昇格したが、このころにはマレー座がそれまで以上の機能を持つ劇場を新築し、再出発していた。深刻な財政難に陥った劇団はいよいよ追い詰められ、4月には借金が焦げ付くことを恐れた債権者から訴えられてしまった。借金のために劇場は差し押さえに遭い、盛名座は完全に活動停止に追い込まれた。ところが、それだけでは済まなかった。同年8月2日には、142リーヴルの返済不可能な借金のために、モリエールが劇団の代表者としてついに投獄されてしまった。保釈金のおかげで、モリエールは幸いにも数日で出獄することができた。しかし団員として残ったのは彼を含めて5人だけで、そこに新加入の2人を含めて総勢7人での再出発となった。しかし借金のためにパリにいられなくなったので一行はボルドーへ赴いた。13年に及ぶ南フランス巡業の始まりである。ボルドーでの庇護を受けることに成功し、盛名座は公爵が所有していたデュフレーヌ劇団と合併した。1645年の年末、もしくは46年の年頭のことである。こうして盛名座は解散、幕を下ろしたのであった。17世紀のフランスには、地方を巡業を主とする劇団が200以上、様々な劇団を渡り歩く役者も1000人は存在したという。数多くある劇団のうち、20ほどの劇団のみが王侯貴族の手厚い庇護を獲得していたが、モリエールらが加わったデュフレーヌ劇団もまさにこうした劇団のひとつであった。南フランス巡業時代についてあまり詳しくはわかっていないが、1647年の秋にオービジュー伯爵の招きに応じてトゥールーズへ赴き、公演を行っている。同年にアルビ、カルカッソンヌなどでも公演をこなし、48年にはナント、フォントネー=ル=コント、49年にポワチエ、アングレーム、リモージュ、トゥールーズ、モンペリエ、ナルボンヌを巡業し、興行を行った。1650年にはラングドック地方の議会がペズナスで開催された為、会期中に街に滞在する参加者たちの退屈しのぎとして3か月間の契約で街から招聘され、興行を行っている。この際、ペズナスから謝礼金4000リーヴルが贈られ、それに対するモリエールの署名入り受取書が残されているため、およそこの時期に劇団の座長に就任したようである。同年にエペルノン公の不興を買い、庇護を失った。また、リヨンに拠点を据え、ここから巡業先へ出向くようになった。このころ、カトリーヌ・ド・ブリー、ならびにアルマンド・ベジャールが劇団に加入。アルマンドはムヌー嬢なる芸名の子役としての入団である。彼女は後にモリエールの妻となったが、そもそも彼女は誰の子供なのか、モリエールとその愛人マドレーヌ・ベジャールとはどういった関係なのかを巡って論争が行われてきたが、未だに決着はついていない。1652年末にはリヨンにて、コルネイユの音楽付き仕掛け芝居『アンドロメード』を上演している。この作品は1650年にパリで上演され、大成功を収めた作品で、リヨンでの上演においてはモリエールが空飛ぶ英雄のペルセを、マドレーヌ・ベジャールがヒロイン役を演じている。『アンドロメード』の序幕の舞台装置は、モリエールが後々制作する作品『ドン・ジュアン』や『プシシェ』に影響を与えている。パリで大流行していた音楽付き仕掛け芝居が持つ魅力に、モリエールが着目するきっかけを与えたという意味で、この上演の意義は極めて大きい。このころ、マルキーズ・デュ・パルクが劇団に加入した。カトリーヌ・ド・ブリーと揃って2人とものちに劇団の看板女優となり、17世紀を代表する屈指の名女優になった。マルキーズは大変な美貌の持ち主で、モリエールだけでなく、コルネイユやラシーヌなど有名無名を問わず、ありとあらゆる男性の心を惹きつける女性であった。その美貌によって、モリエールは助けられたこともあった。1653年には、かつてコレージュ・ド・クレルモンでの学友だったコンティ公の招待を受けて、別荘があるペズナスへ赴いた。コンティ公はフロンドの乱で敗北して以降、居城にこもり、ひたすら快楽にふけっていた。この年、愛人であるカルヴィモン夫人(ボルドー高等法院の評定官の妻であった)を喜ばせるために、劇団を呼び寄せて芝居を楽しもうと考えていたのだった。しかしいざ一行が到着すると、既に「コルミエ劇団」がカルヴィモン夫人に贈り物をして上演の契約に成功しており、一行はコンティ公に冷たくあしらわれた。愛人の言いなりだったコンティ公は、モリエールの劇団にはもはや関心がなかったのである。かかった旅費すら出してもらえそうにない冷たい態度に困ったモリエールは、仕方なくしばらくペズナスで芝居を行うことにした。コンティ公の秘書を務めていた詩人・サラザン(Jean=François Sarasin)はこの芝居を見て、マルキーズの美貌に惹かれ、何とかして劇団をこの地に留めたいと考えた。真正面から「劇団を変えてください」などと言うわけにもいかないので、コルミエ劇団とモリエールらの劇団を競合するようにそそのかし、カルヴィモン夫人にモリエールの劇団の方がいかに優れているかを説いて納得させたのだった。こうして、マルキーズの美貌に助けられて、モリエールの劇団はコンティ公の庇護を獲得したのである。これによって劇団の財政はますます安定し、人気も高まっていった。1655年には、モリエールの演劇人生を考える上で重要な作品が2つ、『粗忽者』と『相容れないものたちのバレエ』が上演された。『粗忽者』は初の本格的な自作の喜劇作品であった。テキストが現存する作品に絞って考えると、彼はこれまでに既に2作品を書いているが、当時の慣習として「喜劇」というのはおよそ3~5幕からなる作品のことを指したため、これが初の喜劇となった。コンティ公の御前で、モンペリエにて上演された『相容れないものたちのバレエ』は、コメディ=バレの前身と考えられる作品である。宮廷バレエはルイ13世の時代から非常にもてはやされたジャンルであったが、音楽と踊りが融合したこの演劇形態に早くからモリエールが着目していたことを示す作品である。このバレエは合作で、モリエール1人の手によるものではない。モリエールは構想段階から制作に関わり、テキストの一部を執筆したほか、2つの役をこなしたという。同年7月には作曲家のと協力して、『クリスチーヌ・ド・フランスに捧げる歌』を制作している。ダスシは『アンドロメード』の作曲をも担当しており、モリエールらと再会したのだった。ダスシはこの際に受けた歓待ぶりを、回想として記録に遺している:1656年11月、劇団の庇護者の1人であったオービジュー伯爵が亡くなった。それから間もなくのこと、1657年に同じく庇護者の1人であったコンティ公が突如カトリックへ改宗し、敬虔な信者となった。これまでの奔放な行いを深く悔い、カトリックの秘密結社である聖体秘蹟協会の一員となったのである。これと同時にモリエールらの劇団は庇護を失うどころか、「罪深い娯楽」として激しい弾圧の対象となった。このように相次いで庇護を失ったことは、当然劇団に影響を与えた。安定した収入を見込んでいたのに、その当てが消え失せたことで財政的な危機に直面してしまった。この財政危機がきっかけとなって、劇団はパリへの進出を、モリエールら盛名座の残党はパリへの帰還を決意したのだった。1658年、モリエールはパリ進出をもくろみ、その下準備を始めていた。パリの目と鼻の先の位置にあるルーアンで行った興行は大成功を収め、より一層の自信をつけた。ルーアンにはコルネイユ兄弟が居住しており、モリエールの彼らに対する敬慕の情もルーアンに立ち寄った動機の1つであるという。ルーアンに滞在中、パリでの庇護者を探す目的で、数回パリへ赴いている。13年にも及ぶ南フランスでの修業時代に、有力者の庇護を受けたり失ったりを繰り返していたモリエールは、演劇の腕を磨いただけではなく、有力者との交渉人としても腕が立つようになっていたのである。その結果、ルイ14世の弟であるフィリップ1世の庇護を受けることに成功し、王弟殿下専属劇団("Troupe de Monsieur")との肩書を獲得し、同年10月24日にはルイ14世の御前で演劇を行うことが許された。モリエールはこの御前公演において、まず初めにコルネイユの悲劇『ニコメード』を上演した。この公演には、数々のコルネイユ悲劇を上演し、パリで大成功を収めていたブルゴーニュ座の役者たちも臨席していた。彼らの得意演目を、その眼前で上演にかけるという大胆な行為に出たのである。『ニコメード』の上演を終えると、モリエールは国王陛下の御前に進み出て、『恋する医者』の上演を願い出た。幸いなことに『恋する医者』は国王陛下のお気に入るところとなり、こうして大成功のうちに御前公演を終えた。こうしてモリエールとその劇団は、国王と延臣たちに気に入られ、プチ・ブルボン劇場を使用する許可を獲得した。既にこの劇場はイタリア人劇団が使用しており、通常日(日、火、金曜のこと。17世紀フランスには特にこの曜日に観劇をする習慣があり、客入りがよくなるので、稼ぎ時であった)を除く曜日のみ使用できるという不利な条件であったが、かつての盛名座のように、劇場の賃貸料を気にする必要はもはやなくなった。それどころか、マレー座やブルゴーニュ座と比肩しうるほどの劇団にまでなったのである。1658年11月には、パリの観客の前にデビューしている。『粗忽者』、『恋人の喧嘩』を上演し、いずれも2、30回公演を重ねるなど、成功を収めたという。デビュー公演の興行成績としては十分に満足できるものであった。復活祭を迎えたところで、パリでのデビューシーズンを終えた。翌年度のシーズンに備えて、劇団は新たに5人の役者をメンバーとして迎えた。マレー座で喜劇役者として有名であったジョドレ、その弟レピー、ラ・グランジュ、デュ・クロアジー夫妻である。とりわけ、ラ・グランジュの加入は大きな意味を持つ。彼が入団直後からつけ始めた『帳簿』によって、劇団がパリの劇場で何を演じ、どれほどの興行成績を上げたか、さらに貴族の館での私的な上演の状況や劇団、並びにその団員にとっての重大事項などが、後世に伝わることとなった。ジョドレと交換するように、マルキーズ・デュ・パルクとその夫のグロ=ルネがマレー座に移籍してしまった。この行為の意味はよく分からないが、配役に対する不満があったのではないかとする説がある。この頃劇団はマルキーズと、カトリーヌ・ド・ブリー、マドレーヌ・ベジャールという3人の看板女優を抱えており、モリエールは彼女たちが配役に不満を抱いて対立しないように苦心していたのだった。パリで迎える2年目のシーズンは、1659年4月28日に始まった。ジャン・デマレ・ド・サン=ソルランやポール・スカロン、トリスタン・レルミット、ジャン・ロトルーらの作品など、すでに劇団のレパートリーになっていたものに加えて、『粗忽者』、『恋人の喧嘩』など自作品を日替わりで舞台にかけていたが、思うように興行成績を上げることができなかった。このような状況を打開するのに、大いに役立ったのが『才女気取り』である。同年11月18日にコルネイユの『シンナ』とともに初演された時には、興行成績がそれまでの平均の2倍以上に跳ね上がった。ほかの作家の新作上演の都合から何度か上演を休止しているが、それでも30回近く連続して公演を行うなど、大成功を収めた。この作品の人気を聞きつけて、自分の館に劇団を招いて私的な上演を行わせる貴族が次々と現れた。まさにモリエールは、パリ在住のあらゆる身分の観客たちのこころを捉えつつあった。国王ルイ14世は、この初演の際はピレネーに遠征中であったが、マリー・テレーズ・ドートリッシュとの婚約を取り決めてパリにもどってくると、1660年7月29日にヴァンセンヌ城に劇団を呼び寄せて本作を上演させた。3年目のシーズンを迎えようとしていた1660年3月末、ジョドレが老衰のために死去した。享年70歳。大切な役者を一人失ってしまった劇団であったが、それを補うようにデュ・パルク夫妻が劇団に戻ってきた。こうして3年目のシーズンを迎えた劇団は、同年5月28日に『スガナレル:もしくは疑りぶかい亭主』の初演を行った。この作品は前作の『才女気取り』ほどではないにせよ、それなりの成功を収めた。この成功にあやかろうと同作を無断で出版するヌフヴィレーヌなる作家が現れたが、この海賊版とモリエールの生前に発行された作品集に収められた作品が何から何まで同一であるため、ヌフヴィレーヌとモリエールは同一人物であるとして、この無断出版はモリエールの宣伝行為ではないかと考える研究者もいる。この作家ならびに海賊版を出版した書店とは後に和解しているので、当然、別の人物と考える者もいる。1660年10月11日、ルーヴル宮殿の拡張工事のためにプチ・ブルボン劇場の解体工事が始まった。拠点を失ったモリエールであったが、幸いにも庇護者であるフィリップ1世が兄であるルイ14世に話を通してくれたおかげで、代わりにパレ・ロワイヤルの使用権を与えられた。この劇場が生涯の本拠地となった。パレ・ロワイヤルは元々パレ・カルディナルと言って、リシュリュー枢機卿が建築した館であった。ルイ13世に寄進されていたが、受け取られることもなく長らく放置されていたため、改修工事が必要であった。そのため劇団は工事期間中、貴族たちの館を転々として私的な上演を行った。10月21日にはルーヴル宮殿で『粗忽者』と『才女気取り』を上演し、26日には病のため床に臥せていたジュール・マザランのために、彼の邸宅で同様の演目を上演した。マザラン邸での上演会には国王も密かに参加しており、劇団は報酬として3000リーヴルを与えられている。このころすでにモリエールとその劇団は、国王の寵愛を集める存在へとなっていたのだった。1661年1月20日、ようやくパレ・ロワイヤルが改修を終えて、劇場として使えるようになった。手始めに『スガナレル』や『才女気取り』を上演にかけて、観客たちの様子をうかがった後、同年2月4日に悲劇『ドン・ガルシ・ド・ナヴァール』を上演にかけた。劇作家としての技量を示す格好の本格悲劇として、周到に準備を進めてこの作品の初演に臨んだモリエールであったが、公演をわずか7回で打ち切るほど観客の評判は悪く、大失敗してしまった。モリエールはこの作品で主人公を演じたが、すでに喜劇役者として得ていた名声が、大きな障害となってしまったのである。この作品の台本はモリエールの生前中は出版されることもなく、1663年を最後にモリエールの生前は上演されなくなった。モリエールにとって『ドン・ガルシ・ド・ナヴァール』の失敗は予想外であった。その失敗の理由が自分の喜劇役者としての名声にあるのだから、成功するためには喜劇を制作するほかない。そうした考えに基づいて制作されたのが『亭主学校』である。復活祭の休み中から構想を練り始め、1661年6月24日、パレ・ロワイヤルにて初演が行われた。初演の成績はあまり振るわなかったものの公演を重ねるごとに評判を呼び、3か月に亘って連続32回の公演を行うなど、前作の大失敗を吹き飛ばす大成功を収めた。それ以上にこの作品が重要なのは、『才女気取り』以上に王侯貴族たちの関心を惹いたことである。この作品を財務卿ニコラ・フーケやルイ14世が上演させたことで、モリエール劇団は益々宮廷で人気を集めていった。この当時、財務卿フーケは、1661年3月に亡くなったばかりの宰相ジュール・マザランの後釜を狙っていた。そのためには王の歓心を買い、自身の存在感をより一層際立たせる必要がある。そのために思いついたのが、居城であるヴォー=ル=ヴィコント城にて豪勢な祭典を開催することであった。フーケがこのように考えていたところに、ちょうどタイミングよく『亭主学校』が成功を収めたのである。モリエール劇団は人気急上昇中の、まさに今話題の劇団であるのだからこれを利用しない手はない。こうしてフーケは、王のために上演させる『はた迷惑な人たち』をモリエールに作らせたのである。国王は、このフーケの祭典の数か月前に『四季のバレエ』なる演劇祭典を催していた。この祭典で国王は「春」に扮してバレエを踊った。冬を乗り越え、春がすべての自然の生命を生まれ変わらせるように、王の力で新しいフランスが作られる、これからは自身の力で永遠に続く春を実現するのだというメッセージを発するためである。フーケはこのメッセージを読み違え、国王の祭典を凌駕する、豪勢な規模のものを開いてしまった。結局フーケは国王の不興を買って、間もなく逮捕され、失脚してしまった。主催者がこのような顛末をたどることになった祭典において、1661年8月17日に『はた迷惑な人たち』は初演が行われた。本作はコメディ・バレの第1作目である。フーケのことは気に入らなかった国王であったが、本作についてはずいぶん気に入ったようで、同月フォンテーヌブロー宮殿に劇団を呼び寄せて再び上演させている。本作の「国王陛下への献辞」によれば、モリエールは王が提案した人物を新たに書き加えて、戯曲の中心に組み入れ、ますます出来が良くなったとのことである。同年11月14日には市民に向けて、パレ・ロワイヤルにて本作が公開された。国王陛下をはじめ、貴族たちに大評判をとったという本作の評判はパリ市民たちの好奇心を刺激し、彼らは期待を募らせていたのだった。音楽や舞踊と喜劇を合わせたこの作品は、演劇的な要素をすべて盛り込んだ、総合的なスペクタクルであった。これまでの演劇にはない新しさを持った本作の公演は大盛況で、39回連続公演を記録した。こうして、成功のうちに1661年度のシーズンは幕を下ろした。前年の1.7倍の興行収入を挙げている。1662年1月23日、アルマンド・ベジャールと結婚契約書を交わした。画像はその際のものである。モリエール40歳、アルマンドは20歳であった。アルマンドは、そもそも誰が両親なのかよくわからない(伝わっていないということ)女性である。マドレーヌ・ベジャールの関係と、父親は誰であるかという問題を巡って、モリエールの生前から長年に亘って議論が行われてきた。同時代の人々はマドレーヌとアルマンドを親子として考えていたようで、問題となっていたのは「父親は誰なのか?」という点のみであった。もし仮に父親がモリエールであるならば、即ちそれは近親相姦の罪を犯しているということである。現在でも罪となる近親相姦であるが、17世紀当時は「神と人に対する大逆罪」であり、火あぶりの刑になってもおかしくないほどのものであった。当然この点は、モリエールの敵対者たちに格好の材料を与えることになった。ルイ14世によってモリエールにそのような疑いがないことは公式に示されたが、それでも攻撃はやまなかった。。復活祭の休みを終えて1662年のシーズンが明けたが、とくに新作上演の予定もなく、客足が伸び悩んだ。市民向けの公演が低迷したのと対照的に、国王の劇団への関心は高まるばかりであった。劇団は国王の招聘を受けて5月上旬と6月下旬に、サン=ジェルマン=アン=レー城に赴いて公演を行っている。特に6月下旬の御前公演では、モリエール劇団が演劇祭典の主導権を与えられている。この演劇祭典の主導権は元々ブルゴーニュ座やイタリア人劇団に与えられていたもので、モリエール劇団にとってはこの上ない栄誉であった。ラ・グランジュの『帳簿』によれば、主導権を奪われたブルゴーニュ座は焦って皇太后に懇願し、この祭典に参加したとのことである。モリエールはパリに戻ってからも、客足を伸ばすためにあれこれ試したが、さほど効果を挙げられないまま時が過ぎていった。観客はモリエールの新作を求めていたのである。年末の12月26日になってようやく、新作である『女房学校』の初演を行った。この作品の成績は滑り出しから絶好調で、その好調を維持したまま翌年の復活祭までに31回連続で上演が行われるなど、モリエールが生涯獲得した成功の中でも、もっとも輝かしいものであった。こうして、華々しい大成功のうちに1662年度のシーズンを終えた。これに続く復活祭の休暇の間に、モリエールは国王から年金1000リーヴルを与えられ、その感謝を示すために『国王陛下に捧げる感謝の詩』を詠んでいる。『女房学校』の大成功によって、モリエールは演劇界にその名を轟かせ、不動の地位を獲得するに至ったのである。この『女房学校』及び、モリエールのわずか数年でのパリと宮中における大成功は、当然ながら同業者たちの嫉妬心を激しく炙りたてた。1663年になって、『女房学校』の内容を巡って、モリエールと作家たちの間で論争が起こった。喜劇の形を借りての応酬が特徴的なこの論争は「喜劇の戦争」とも言われる。以下は、この論争が辿った経緯を簡潔に記したものである。1663年3月に『女房学校』のテキストが出版された。この序文において「(敵対者たちの攻撃に答える芝居を)いったん書き始めてやめてしまったが、毎日完成はまだかと催促を受けるのでどうしようか迷っている。もしこの対話劇を上演する機会があればいいと思う」として、新作の発表を匂わせた。復活祭の休暇が明けてからも、まるでじらすかのように『女房学校』ならびに新作の上演は行われず、6月1日になってようやく新作である『女房学校批判』の初演が行われた。この作品はモリエールが敵対者たちの攻撃に答えてやり返す内容であったため、『女房学校』の後ろにくっつけて上演することでより一層の効果を生んだ。この上演方法や、観客の興味を数か月前に煽って期待させたことが功を奏して、同作品は『女房学校』に迫るほどの成功を収めたが、敵対者たちは当然激昂し、ますます攻撃を強めていった。ところがこの論争の勝者は、初めからモリエールであることが決まっているようなものだった。国王が彼の後ろ盾となっていたからである。10月にブールソーの『画家の肖像』が初演されて間もなく、モリエール劇団は国王の招聘を受けてヴェルサイユ宮殿に赴き、公演を行う機会を与えられた。ここで初演されたのが『ヴェルサイユ即興劇』である。『ヴェルサイユ即興劇』は「『女房学校』ならびに『女房学校批判』を擁護する芝居を書くよう王に依頼された」という体をとる作品で、モリエールはこの作品においても、敵対者たちを散々挑発した。特にこの作品と同月に公開された『画家の肖像』の作者、ブールソーへの攻撃は激烈である:同時に、この作品において「これ以上時間を無駄にするつもりはない」として、論争から下りることをも示したが、それでも攻撃は止まなかった。ブルゴーニュ座で悲劇俳優として有名であったモンフルーリは、国王に「自分の娘と結婚して、近親相姦の罪を犯している」としてモリエールを訴え、調査を懇請したが、国王は取り合わなかった。それどころか、1664年2月に生まれたモリエールの子供の名付け親となり、国王夫妻揃って代父母となるなど、自身がモリエールの後ろ盾であることを世に広く知らしめたのだった。ちなみにこの際生まれた息子は、国王から名前をもらって「ルイ」と名付けられたが、夭折している。1664年1月29日、『強制結婚』の初演がルーヴル宮殿にて行われた。『はた迷惑な人たち』に次ぐ第2作目のコメディ=バレエであるが、前作が「王の楽しみのために作られた喜劇」であったのに対して、今作は初めから「王のバレエ」として制作された。ルイ14世のために書かれるバレエはこれまでが制作してきたが、今回モリエールに初めてその大役が回ってきたのだった。もっともこれはバンスラードの独占を崩したというだけで、彼にも引き続き作品制作の依頼が行われており、モリエールとバンスラードの競作は1670年まで続くこととなる。モリエールのコメディ=バレエは「宮廷のために」制作される作品であるから、必然的に初演から市民向けの公演が行われるまでに少し空白期間がある。作品自体を見られなくても、評判くらいは市民たちの耳にも入ってくるから、その期待はどんどん膨れ上がっていくのである。それは『強制結婚』でも例外ではなく、2月15日にパレ・ロワイヤルでの上演が始まった時には、滑り出しからその成績は絶好調であった。ところが『はた迷惑な人たち』と比較して、バレエを躍るダンサーや音楽家への支払いがかさむ割に興行成績が伸びなかったので、わずか1か月、12回の上演で早々に公演を打ち切ってしまった。同年5月7日から13日にかけてルイ14世は、母后アンヌ・ドートリッシュならびに王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュのためと称して、実は愛妾ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールのために、ヴェルサイユ宮殿にて600人を超える貴族たちを集めて「魔法の島の楽しみ("Les plaisirs de l’ile enchantée")」なる祝祭を催した。この祝祭はヴェルサイユ宮殿と庭園の素晴らしさを貴族たちに印象付けることで、国王の力を誇示する目的を有していた。モリエール劇団も国王の命令でこの祝祭に参加したが、この祝祭は彼らのための祭りであると言っても過言ではないほど大きな役割を果たした。戯曲のみに絞っても、2日目に『エリード姫』を、5日目に『はた迷惑な人たち』を、6日目に『タルチュフ』最初の三幕を上演し、最終日に『強制結婚』を上演している。『エリード姫』は国王の制作依頼から上演までの時間が少なかったこともあり、途中まで韻文、残りは散文で制作されている。モリエールはこの作品によって喜劇だけではなく、上品で格調高い宮廷の趣味を満足させるような作品も制作できるという自身の技量を示し、大好評をとったことでそれを認められた。この作品の主役を妻・アルマンドに演じさせたことで、彼女の評価も一気に高まったが、その一方でマルキーズ・デュ・パルクが与えられたのは単なる端役に過ぎなかった。『はた迷惑な人たち』では華麗な舞踊を披露して大評判をとった彼女にとっては、このような配役は屈辱でしかなかった。この5か月後には劇団で重要な位置を占めていた夫も死去し、劇団にいる意味を見いだせなくなった彼女の不満は募るばかりであった。祝祭の6日目には『タルチュフ』が最初の三幕に限って上演された。この「第三幕目まで」という情報はラ・グランジュのつけていた『帳簿』に見える記述だが、不可解な点が多くあるため、この際に上演された作品の内容、形式を巡って議論となっている。もちろん決定的な証拠はないので、何の決着もついていない。『タルチュフ』の上演を巡っては、祝祭の一月前から聖体秘蹟協会を中心とするキリスト教信者たちが上演阻止のキャンペーンを張っていた。彼らは『女房学校』以来、モリエールの作品に反宗教的要素を見出し、彼を監視しており、新作の上演が近いことを聞きつけてそのような行為に及んだのである。ただ、モリエールはそのような妨害行為を指をくわえて見ているような男ではなかった。彼は妨害活動が行われていることを察知し、彼らによって上演阻止という目的が達せられる前に祝祭で、しかも国王陛下の御前で『タルチュフ』を上演したのである。以下はこの祝祭の公式記録が伝える本作についての記述であるこの記録を見ればわかるように、祭典で『タルチュフ』の初演は問題なく行われたが、即日上演禁止となってしまった。聖体秘蹟協会はキリスト教の秘密結社で、貴族の家庭に入り込み、良心の導き手としてカトリック信仰を守ろうとするなど、宮廷にもその影響力を浸透させていた。実際、国王夫妻は興味深そうに『タルチュフ』をご覧になったとのことだが、母后アンヌ・ドートリッシュはその諷刺に眉をひそめたという。この件について、モリエールの親友であったボワローが語ったとされる言葉が遺っている:これには宮廷内での対立も関係している。アンヌ・ドートリッシュに代表される「古い宮廷」が禁欲的で信仰に凝り固まっているに対して、ルイ14世に代表される「新しい宮廷」は快楽を追求し、それを正当化するために信仰を隠れ蓑として利用しようと考えていた。そのため『タルチュフ』を国王夫妻は「興味深そうに」ご覧になったのだが、「古い宮廷」ならびにキリスト教信者たちの圧力を無視しきれず、『タルチュフ』の上演を禁止したのであった。だが上演禁止といっても、あくまで公の席に限ったことであって、貴族の館などで行う私的な上演については何の罰則も設けられていなかったため、作品の観賞は続けられた。『タルチュフ』が完全な形で、つまり全5幕の形で初演が行われたのは1664年11月29日のことである。コンデ大公の館で上演された。モリエールは公の席でも上演できるように、国王に請願書を送るなどして画策したが、効果を挙げることはできなかった。「魔法の楽しみ」で大役を果たして帰ってきたモリエールの劇団に、新進作家のラシーヌが作品『ラ・テバイード』を持ち込んできた。ラシーヌは当初この作品を、悲劇を得意としていたブルゴーニュ座に上演してもらおうと考えており、上演の約束も取り付けていたが、ブルゴーニュ座の都合もあってすぐには上演してもらえなかったため、しびれを切らしてモリエール劇団に持ち込んできたのだった。モリエール劇団の方でも『エリード姫』の上演準備が万全ではないし、『タルチュフ』は上演禁止で演目に困っていたため、ちょうどよい申し出なのであった。1664年6月20日に初演を行ったが、サッパリ客足は伸びず、モリエールの初期のファルスである『飛び医者』や『袋に入ったゴルジビュス(スカパンの悪だくみの前身)』などをおまけとして上演につけることで、なんとか客足をつなぎとめる有様であった。モリエールも、その劇団も、喜劇には才能があっても、やはり悲劇には向いていなかった。新進作家のデビュー作としてはまずまずの成績を挙げたが、ラシーヌの自尊心は大いに傷つけられた。自身の作品がファルスなどと一緒に上演されたのに加えて、ブルゴーニュ座で上演していれば好成績を収めることが出来ただろうと考えていたからである。モリエールはこのころ、私生活においては極めて波乱に満ちた生活を送っていた。1662年に結婚した妻・アルマンド・ベジャールとの夫婦関係はうまくいかず、数年前から抱えていた胸部の疾患が悪化しており、健康状態も良くなかった。そこへ来て『タルチュフ』は上演を禁止され、その解禁を取り付けるための画策に労力を費やさなければならない。そのうえ6月の公演で無料入場者を拒否したために、パレ・ロワイヤル入り口では流血騒ぎが起こり、多額の見舞金を支払わされる羽目になった。9月には親友が、10月には南フランス修行時代から苦楽を共にしてきた団員のデュ・パルク(マルキーズの夫)が、11月10日には息子のルイが1歳にもならずにこの世を去った。。こうして肉体的にも精神的にも激しいダメージを負ったモリエールは、積極的に劇場で上演を行うよりも、王弟殿下や貴族の私邸で『タルチュフ』を含む自らのこれまでの作品を上演にかけることが多くなった。劇場では11月に『エリード姫』の市民向け公演がパレ・ロワイヤルで始まり、ある程度は成功をおさめたが、その成功もいつまでも続くとは思えなかった。だがモリエールは、こうして足踏みしているわけにもいかなかった。ライバルたちとの競争に敗けるわけにはいかないし、すでに彼は多くの座員を抱える劇団の座長であり、その生活を保証しなければならない重い責任を抱えていたからである。こうして追い詰められたモリエールは、手っ取り早く成功を収めるためにドン・ジュアン伝説に目を付けた。ちょうどパリで流行していたし、おあつらえ向きなことに喜劇的な題材でもある。そして何より、自分を苦しめるキリスト教狂信者たちへの恨みを晴らし、奴らへの激烈な批判をも盛り込むことが容易く出来る話の筋ではないか。これ以上ない題材を見つけたモリエールは、一気呵成に作品を書き上げた。こうして完成したのが『ドン・ジュアン』である。短期間のうちに書き上げられたために、当時戯曲を書く際に守るべき規則(アレクサンドラン、三一致の法則)などを悉く踏みにじっており、形式的な完成度は決して高くない。『ドン・ジュアン』は1665年2月15日に上演が開始された。モリエールの目論み通りに滑り出しから興行成績は絶好調であったが、やはり狂信者たちは黙っていなかった。彼らの批判が早速始まったので、モリエールもこの批判内容の一部を汲んで、作品の場面を一部削除するなどして再び上演にかけたが、批判は止むどころかますます強くなっていった。そのため、観客の反応が良いにも関わらず、わずか15回で上演を取りやめなければならなかった。一時的な上演自粛であればまだよかったものの、この作品はこれ以後、モリエールの生存中には2度と上演・出版されなかった。その内容があまりに過激であったため、1682年に初めてモリエール全集が世に出た時もこの作品は大幅な削除が加えられた形で収録された。徹底して忌避され続けたため、誰の手も加えられていない、モリエールが書いたままの『ドン・ジュアン』は散逸しかけたが、再び1841年に舞台にかけられた。実に200年近くの眠りから覚めての舞台復帰であった。1665年8月4日には、娘・マドレーヌ=エスプリが生まれた。モリエールの子供の中では、唯一この娘だけが成人している。マドレーヌ・ベジャールと、彼女のかつての恋人でモリエールと親交のあったモデーヌ伯爵が名付け親である。余談だが、彼女は子供を作らなかったのでモリエールの血筋はここで途絶えた。その10日後の14日、モリエール劇団は正式に国王ルイ14世庇護下に入った。彼らは王の命令を受けてサン=ジェルマン=アン=レー城に赴き、そこで「王弟殿下の劇団」という称号を返上し、「国王陛下の劇団」と名乗るように申し渡された。劇団に与えられる年金も6000リーヴルに増額された。それまでの額の6倍である。かつて盛名座を起こしたころ、到底その実力、人気、規模で足元にも及ばなかったブルゴーニュ座とモリエール劇団は、ついに対等の地位となったのである。このような強力な支援を受けて、モリエールは同年9月22日に『恋は医者』を発表した。国王の招聘を受けて、ヴェルサイユ宮殿に赴いた時のことである。この作品は第4作目のコメディ=バレエであるが、国王の命令を受けてわずか5日のうちに上演された。パレ・ロワイヤルでも上演され、成功を収めている。1665年12月、モリエールはラシーヌの裏切りに遭った。当時の上演に関する慣習として「台本が出版された時点でどの劇団でもそれを上演することが可能となる」というものがあったが、ラシーヌがこれを破ったのである。以下はこの件の経緯を簡潔にまとめたものである。まだ台本さえも出版されていない新作の上演を12月14日の時点でブルゴーニュ座が上演できるというのは、当時の慣習を破っているだけでなく、ラシーヌが裏切ったことを明確に示していた。モリエール劇団が『アレクサンドル大王』のリハーサルに取り組んでいるときと同じころに、ライバルであるブルゴーニュ座にも台本を与えてリハーサルさせていたということに他ならず、これは劇壇デビューの機会を与えたモリエールに対する前代未聞の忘恩行為であったのである。それだけに留まらず、ラシーヌはモリエール劇団の看板女優であるマルキーズ・デュ・パルクと恋仲となり、最終的には彼女を引き抜いていってしまった。当然モリエールはこの行為に激怒し、ラシーヌとの仲は一気に悪化した。結局、ラシーヌに上演料を払わないまま、喧嘩別れとなってしまったのである。1665年末から、1666年の2月まで、モリエールは病のために床に臥せていた。元々健康体でないのに、ラシーヌの裏切りなどもあって病気が昂進したのである。ちょうど同じころ、母后アンヌ・ドートリッシュが死去したので、喪に服するために劇団も活動停止を余儀なくされた。こうして活動を再開できたのは1666年2月21日のことであったが、特にめぼしい新作上演の予定もなく、目立った上演成績を挙げられることなく4月になり、復活祭の休暇を迎えた。1666年6月4日、新作『人間嫌い』の上演が始まった。モリエールは、笑劇的な要素を極力抑えた作品を制作することで、それまで悲劇と比べて数段劣るとされていた喜劇を、悲劇と同じか、それ以上にまで高めようとしたのである。2回目の公演まではそれなりの成功を収めたが、それ以後の公演では客足が鈍っていった。本作は初演の前にオルレアン公爵夫人のサロンで朗読されて好評を収めたので、市民向けでの公演でも成功を目論んでいたモリエールであったが、期待していたほどの成功は収められなかった。高い教養のある貴族や知識人たちには本作の面白さが理解できたが、普通の一般市民には理解できなかったのである。こうして客足の鈍り方がいよいよ顕著になったとき、モリエールはテコ入れ策として『いやいやながら医者にされ』を書き上げ、『人間嫌い』にくっつけて上演することで何とか急場を凌いだ。1666年12月1日から1667年2月19日まで、モリエール劇団は王の命令を受けて、サン=ジェルマン=アン=レー城に赴いた。詩人の指揮の下に開かれる祭典「詩神の舞踊劇("Ballet des Muses")」に参加するためである。この祭典はバンスラードが13の場面からなるオペラを書くために、モリエール劇団やブルゴーニュ座、イタリア劇団の俳優たち、それにジャン=バティスト・リュリなどの音楽家や舞踊家が協力し、オペラが完成するという体をとっており、舞踊にはルイ14世をはじめとして、ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールやモンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスが参加した。モリエールはこの祭典のために、作品を3つ制作した。『メリセルト』、『パストラル・コミック』、『シチリア人』である。祭典が始まった際、『メリセルト』はまだ第二幕目までしか完成していなかったが、上演するにはそこまでで十分だと国王が判断したため、12月2日に初演を迎えた。「国王がそこまでで良いと仰ったので、モリエールとしてもこれ以上手を加えなかった」と伝わっているように、モリエールの現存する作品中、唯一の未完作品である。この作品と差し替えられる形で、1667年1月5日に初演を迎えた『パストラル・コミック』はジャン=バティスト・リュリの協力を得て、効果的に音楽を用いることで、より一層喜劇的な効果を高めている作品である。この作品については断片的にしか伝わっていない。この祭典のフィナーレを飾ったのは『シチリア人』であった。1667年2月14日に初演を迎えたこの作品がパリの市民たちに披露されたのは、同年6月10日のことであった。モリエールの新作にしては珍しく振るわず、わずか17回で公演は打ち切られている。この祭典の始まる前にミシェル・バロンが劇団に子役として加入した。モリエールは彼を非常に気に入ったようで、彼に準備中であった『メリセルト』の、ミルティルという少年の役を割り当てた。モリエールが非常に熱心にバロンの指導に打ち込んだため、彼の妻アルマンド・ベジャールが嫉妬し、バロンに平手打ちを食らわせたという。バロンも我慢ならず、すぐに退団しようとしたが、『メリセルト』は国王ルイ14世の御前で上演することになっていたため、役をすっぽかすことは出来なかった。そのためミルティルを演じ切ったが、それが終わるとすぐに退団し、地方の劇団へ移ってしまった。サン=ジェルマン=アン=レー城からパリに戻った劇団は、2月25日に公演を再開し、コルネイユの新作悲劇『アティラ』を上演した。この『アティラ』の公演を観た文化人による感想が残っているが、それによれば「悲劇の上演は、それまでブルゴーニュ座にしか出来ないと思っていたが、それは間違いであった。モリエール劇団が悲劇には向かないと、あちこちで言われているが、それは間違っている」とのことである。劇団の名声がますます高まっていたことを裏付ける証言であるが、この公演にはモリエールは出演していなかった。モリエールは劇作家でもあったが、同時に劇団の主要役者でもあり、その彼が公演に出演しないことは異常事態である。この悲劇の公演を終えてからもモリエールの出演ペースは極端に落ちており、巷ではモリエールが重病であるという噂さえ流れた。6月には復帰することが出来たようだが、モリエールの病状が相当深刻であったことが伺える。復帰したモリエールであったが、『シチリア人』の興行成績はモリエールのほかの作品と比べて極めて低い水準であった。期待の新作の成績が振るわず、どうにかしなければならなくなった時、モリエールは大きな賭けに出た。『タルチュフ』を『ペテン師』と改題し、以前国王に注意を受けたような刺激的な部分を削除して、8月5日に上演したのである。目論み通りに成功をおさめ、『シチリア人』10回分の興行収入をたった一度の上演で稼ぎ出した。ところが翌日、それを聞きつけた高等法院長ラモワニョンによって、再び上映禁止命令が下されてしまった。高等法院に請願を繰り返しだすも、相手にもされなかった。その上、運の悪いことに国王ルイ14世はネーデルラント継承戦争で遠征中であった。そのため、モリエールは最後の手段として請願書を書き、ラ・グランジュら劇団員2名にそれを届けさせることにした。この時の旅費として1000リーヴルかかった上に、主要な役者が2名も派遣のためにいなくなったおかげで、ほぼ2か月間に亘って、劇団は上演を停止せざるを得なかった。それほどの犠牲を払ってでも、『タルチュフ』の上演する必要があったことが伺えるが、結局上演許可を取り付けることはできなかった。それどころか8月11日には、パリの大司教ペレフィックスにより、『タルチュフ』の公的、私的を問わず一切の上演を禁じ、違反者には破門を宣告する旨の通告が発せられ、『タルチュフ』を巡る事態はますます悪い方向へ転がっていった。1668年1月13日、『アンフィトリオン』の上演が開始された。待ちに待った1年ぶりの新作である。3月18日まで29回連続公演を行うなど、相当な成功を収めた。初演の3日後、1月16日にテュイルリー宮殿の庭園にて御前公演が催された。モリエールの生存中に53回上演され、1715年までに363回上演されている。この作品が大人気であったことは、その登場人物の名前がフランス語の単語として取り入れられたことからも窺い知ることが出来る。「アンフィトリオン("Amphitryon")」という単語には、現在のフランス語において「主人,饗応役」という意味が、もう1つの登場人物の名前であり、初演の際モリエールが演じた「ソジエ ("Sosie")」には「そっくりさん」という意味が与えられている。この作品に、モリエールは宮廷で話題となっていた情事の諷刺を盛り込んだ。モリエールは、当時のありとあらゆる宮廷の情事について知っており、『アンフィトリオン』中の登場人物であるジュピターにルイ14世を、アンフィトリオンにモンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスを見立てて、その姦通行為を題材に取り上げたのである。この作品が公開された1668年はモンテスパン侯爵夫人がルイ14世の寵姫となったばかりのころであり、その不貞行為を諷刺しているわけである。モリエールがこの国王の不貞行為を知りながら、なぜそれを本作において肯定するような内容に仕上げたか、その理由はわからない。1668年3月4日、モリエール劇団はコンデ大公の私邸に赴き、『タルチュフ』の試演を行った。この試演はもちろん極秘のうちに行われたが、大公の私邸はパリ大司教の教区外にあったので上演禁止命令に触れないものと解釈し、同年の9月20日にはここで『タルチュフ』の公演を行った。モリエールはこの大公の好意に感激し、出版した『アンフィトリオン』を捧げている。『フランシュ=コンテを統治下に収められた国王陛下に捧げるソネ』はこの『アンフィトリオン』に付されて出版されている。1668年5月25日、モリエール劇団はの『アンドロマック批判』を上演し始めた。『アンドロマック』はラシーヌの第3作目の悲劇で、ちょうど半年ほど前に初演が行われ、大評判をとっていた。この時期になってもモリエールは、未だにラシーヌの忘恩行為を忘れられていなかったし、ラシーヌの溢れ出る才能はモリエールを苦しめていたのであった。かつて『女房学校』で華々しい成功をおさめ、それを妬んだ人々によって攻撃されて「喜劇の戦争」が起こったときとは、立場がまったく逆転していたのである。「喜劇の戦争」の時と同じように、『アンドロマック批判』の上演は逆に、『アンドロマック』の成功を助長してしまうという皮肉な結果をもたらした。余談だがラシーヌも、これまたかつてのモリエールと同じように、ただ黙って見ているような男ではなかった。このモリエールの攻撃に対して、ラシーヌは『訴訟狂("Les Plaideurs")』でやり返した。さらにこの作品の出版の際にも、序文にてモリエールを激しく攻撃している。7月10日、モリエール劇団は王の命令を受けてヴェルサイユ宮殿に赴き、18日に『ジョルジュ・ダンダン』を初演にかけた。この作品はアーヘンの和約の成立を祝う祝祭の一環として上演された。本作は第6作目のコメディ=バレエであるが、これまでのそれらと比べても、音楽劇的な要素がかなり強い作品であり、こうした特徴が観客の心を掴んだようである。この作品が公開された1668年はモンテスパン侯爵夫人がルイ14世の寵姫となったばかりのころであった。多くの宮廷人が本作品を見て笑ったが、特にその中でもモンテスパン侯爵はひときわ劇に見入り、大笑いしていたという。彼は、妻フランソワーズ・アテナイスがすでにルイ14世の寵愛を受けていることを知らず、「妻を寝取られた男を主人公に据えた劇」を観て大笑いしていたのであった。その事情を知る人間たちは、大笑いする彼の様子に失笑したという。その後、哀れに思った友人によってそれを知らされた侯爵は激怒し、国王の怒りを買ってしまい、強制的に離婚させられることとなった。8月31日、モリエールの父親は10000リーヴルを年利5%でジャック・ロオーなる人物に借りて、自宅の改修に充てるという書類を作成した。同日のうちに「この10000リーヴルは実はモリエールのものであるから、年利も彼が受け取ることとする」との申請がジャック・ロオーによってなされている。実はこの男はモリエールの友人であることから、父親が死んだ際の遺産相続を巡ってトラブルとなることを避け、モリエールの取り分を確保するために行われたことであると考えられている。9月9日、パレ・ロワイヤルにて『守銭奴』の初演が

出典:wikipedia

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