トラヴィス (Travis) は、スコットランド・グラスゴー出身のロックバンド。デビュー当初はオアシスのフォロワー的な荒々しいサウンドだったが、セカンド・アルバム以降、内省的な歌詞にメランコリックな美メロ・バラードを持ち味とするバンドへと変貌し、レディオヘッドらとともに90年代後半のブリットポップ後のUKシーンの新たな潮流を作った。1998年に渋谷クラブクアトロなどで初来日公演を行い、2001年と2008年にフジロック・フェスティバルに、2003年と2007年はサマーソニックに出演している。グラスゴーのアート・スクールの学生だったフラン(vo,G)は、当時学生のたまり場だったバーで働いていたニール(Dr)と出会い、彼のバンド“グラス・オニオン”からボーカリストとして誘われる。そのバンドには他に、同じアートスクールに在籍していたアンディー(G)と、マーティン兄弟(B,Key)がいた。フランを加えたバンドは、1994年ごろ、1984年のヴィム・ヴェンダース監督作、映画『パリ、テキサス』からインスピレーションを受け、バンド名を映画の主人公からとって「トラヴィス」と改名する。1995年、ラジオで演奏した彼らのセッションがレコード会社の目に留まり、それがきっかけで翌年にソニーと契約するも同年に音楽性の違いからマーティン兄弟が脱退。急遽ベーシストとしてフランの友達で同じアートスクールの学生だったダギー(B)が加入。6月に4人組になったトラヴィスはロンドンへと移り、本格的なバンド活動を開始した。1996年、デビューシングル「オール・アイ・ウォント・トゥ・ドゥ・イズ・ロック」をリリース。オアシスのノエル・ギャラガーがトラヴィスのファンであると告白したことで注目すべき新人バンドのひとつとして話題になる。そして1997年9月、そのオアシスの全英ツアーの前座に抜擢された。この月にリリースされたデビュー・アルバム『グッド・フィーリング』は、オアシス路線ともいえるパワフルなロックを鳴らしてアルバム・チャート初登場9位を獲得。新人バンドとしては上出来な滑り出しをみせる。翌年6月からメンバーはセカンド・アルバムの制作にとりかかった。このアルバムでは新たにナイジェル・ゴッドリッチをプロデューサーに迎えている。そして1999年5月、セカンド・アルバム『ザ・マン・フー』を発表。このアルバムは、前作の荒々しいサウンドから一転して静かなバラードが全体を占め、その内省的なアプローチがシーンに衝撃を与えた。シングル・カットされた「ライティング・トゥ・リーチ・ユー」、「ホワイ・ダズ・イット・オールウェイズ・レイン・オン・ミー?」、「ターン」という3曲連続ヒットもあり、『ザ・マン・フー』はリリースから3ヵ月目にして全英アルバム・チャートの1位に輝き、その後もロングヒットを続けてセールスは全世界で400万枚を記録するに至った。成功の背景には、すでに終焉を迎えつつあったブリットポップへの反動もあったとされる。2000年、世界の優れたソングライターに送られる賞、アイヴァ・ノヴェロ・アウォーズのソングライター・オブ・ザ・イヤーにフランが選ばれ、さらにブリット・アワードでベスト・バンド、ベスト・アルバム両賞を獲得。グラストンベリー・フェスティバルにはヘッドライナーとして出演するなど、名実ともにUKシーンのトップバンドの仲間入りを果たした。2001年6月、サード・アルバム『インヴィジブル・バンド』をリリース。よりアコースティックな色合いを強めたこのアルバムで、全英アルバム・チャートにて堂々の初登場1位を達成。セールスも英国内だけでミリオンを突破し全世界で300万枚を記録した。アルバムは「トップ・オブ・ザ・ポップス」の年間最優秀賞を受賞、さらにシングルの「シング」は、その年の上半期で最も多くラジオで流された曲となり、バンド最大のヒット曲になった。同年7月にはフジロック・フェスティバル出演で2度目の来日。全英アリーナ・ツアーも大成功させるなど、バンドは絶頂期を迎える。そんな状況も束の間の半年後、ニールがフランスにおいて頭部に重傷を負う事故に遭ってしまう。ドラマーとしてこの怪我は深刻であり、ミュージシャン生命も危ぶまれる事態となった。デビュー以来不動のメンバーで苦楽を共にしてきたためドラマー交代などは考えられず、バンドは突然の活動休止を余儀なくされた。メディアではそのまま解散もありうるとの観測が流れ、バンドは絶頂から一転して解散の危機に見舞われてしまった。しかし事故から1年、ニールは見事な回復をみせて復帰を果たし、同時にバンドも解散の危機を乗り越え再始動。中小規模のライブ活動を行いながらセルフ・プロデュースのアルバム制作を進めた。サマー・ソニック出演で3度目の来日を済ませた後の2003年10月、4枚目のアルバム『12メモリーズ』を発表。先行シングルの「リ・オフェンダー」や「ビューティフル・オキュペイション」などでストリングスやピアノを大幅に導入したり、歌詞に社会色・政治色を強く打ち出すなど所々に新たな試みが見受けられるが、全編が暗く陰鬱なトーンで覆われた仕上がりだったためか、全英チャートで3位に入ったもののセールス的には伸び悩んだ(さらにフランが体調を崩したことで来日公演も中止となるなど、バンドにとっては大きな試練の時期であった)。後にフランは「ダークでエッジーな社会性の濃い作品は、僕らには不得手だと痛感したよ。12メモリーズは好きだし否定するつもりもないけど、こういうのはレディオヘッドに任せるべきだったんだよね?」と冗談まじりに語っている。翌2004年にこれまでの歩みを総括したベスト盤『シングルス』を発売し、キャリアに一区切りをつけた。ベスト盤以降長らく沈黙していたバンドが、再びナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎えて製作した5th『ザ・ボーイ・ウィズ・ノー・ネーム』(全英4位)をリリースしたのは前作から4年後の2007年であった。アルバムは、ストイックだった前作から一転して、美しく優しいメロディが全体に溢れた内容となった。このアルバムリリースに伴って同年のサマーソニックにソニックステージのトリにて出演。翌2008年のフジロックで再来日、翌日には韓国に移動し、06年から仁川で毎年開催されているペンタポート・ロック・フェスティバルの2日目メインステージのヘッドライナーを務めた。『ザ・ボーイ~』リリースにともない久々の大規模ツアーを敢行したバンドは、その余勢を生かしライヴテイクを中心としたレコーディングを進めた。そして2008年9月、前作からわずか1年弱という異例のスパンで6th『オード・トゥ・ジェイ・スミス』を発表。今作から、バンドは長らく在籍したインディペンディエンテ・レコードを離れ1996年にデビューEPを発表した自主レーベルからのリリースを開始することとなった。以前のトラヴィスにはなかったヘヴィなロック色が非常に濃い仕上がりとなったためか、アルバムは全英20位と伸び悩み、アルバムからのシングルも全英トップ100入りを逃している。ちなみに、このリリースにともない、1998年以来実に10年ぶりとなる単独来日公演が2009年2月に実現した。『オード~』からおよそ5年後には、新アルバム「ウェア・ユー・スタンド」をリリース。UKチャート3位を記録した。以下の順位は全て全英チャートによる
出典:wikipedia
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