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ドリトル先生航海記

『ドリトル先生航海記』(ドリトルせんせいこうかいき、"The Voyages of Doctor Dolittle")は、ヒュー・ロフティングにより1922年に発表されたイギリス(最初の刊行はアメリカ合衆国)の児童文学作品。ドリトル先生シリーズの第2作。出版順としては2番目であるが、作品内の時系列順では第4作『サーカス』や第6作『キャラバン』よりも後の時代の話となる。著者のロフティングは1923年に、本作で第2回ニューベリー賞を受賞した。冒頭はシリーズ全編の語り手であるトーマス(トミー)・スタビンズが前作『ドリトル先生アフリカゆき』を医学博士ジョン・ドリトルの評伝として執筆した経緯についての説明から始まる。その中で『アフリカゆき』の内容は大半がスタビンズ自身の生前に起きたことで、若い頃の先生を知るパドルビーの人々や250歳を超えてなお健在なオウムのポリネシアからの伝聞を基に執筆したとしている。なお、第2部11章で先生は「1809年4月に北極点へ行き、ホッキョクグマから地下に石炭が埋まっていることを教わったが乱開発を防ぐため秘密にしている」と述べているが、前作『アフリカゆき』でポリネシアが先生に動物の言葉を教えるに当たり自身の年齢を「181か182歳」だとしたうえで皇太子時代のチャールズ2世がクロムウェルの軍勢に敗れてオークの木の洞に隠れているのを目撃したと1651年の故事に言及していることから、逆算すると先生が動物の言葉を習得したのは1820年前後の出来事となり、矛盾が発生する。貧しい靴屋の一人息子であるトミー・スタビンズはある日、鷹に襲われて負傷したリスを保護したことが契機となって動物の言葉を解する医学博士のドリトル先生の話を聞き、先生と出会ってその人柄にすっかり心酔し住み込みの助手となる。スタビンズが助手となってしばらくしたある日、先生のところへアフリカへの最初の航海で生まれ故郷のアフリカに留まったオウムのポリネシア、チンパンジーのチーチーが相次いで舞い戻って来て、スタビンズ自身もポリネシアの指導で先生には及ばないながらも動物の言葉がわかるようになって行く。しかし、ポリネシアとチーチーとの劇的な再会を喜んだのも束の間、毎年8月にアマゾン熱帯雨林から先生を訪ねて来るムラサキ極楽鳥のミランダが、先生の敬愛するインディアンの博物学者ロング・アローが行方不明になったことを知らされる。折しも、先生は次の航海に出る行き先を決める為に、目隠しをして世界地図帳の適当なページに鉛筆を突き立てて行き先を決める恒例行事「運まかせの旅行」をする所であった。その結果、鉛筆が指示した行き先はブラジル近海に浮かぶ、ロング・アローが消息を絶った孤島・クモサル島であった。こうして、先生とスタビンズはポリネシア、ジップ、チーチーと共に航海の準備をするが、手配された船は3人でないと操れなかった。そこで先生とスタビンズは共通の知人で、街外れの一軒家に人目を避けるようにして暮らしている世捨て人のルカを訪ねる。ところが、ルカは15年前にメキシコの金鉱を採掘していた際に仲間を殺害した容疑で逮捕され、巡回裁判が開廷する直前であった。ルカが飼っているブルドッグのボッブが事件の一部始終を目撃していたことを知った先生は自分が通訳をするのでボッブを証言台に立たせて欲しいと求め、検察官は異議を唱えるが、裁判長は自身のプライベートについて愛犬から聞き出す先生の実演に驚き、これを認める。その結果、先生が通訳したボッブの証言によりルカは無罪を勝ち取るが無罪となったルカは時の人としてパドルビー中の人々から祝福され、とても航海への同行を求められそうもないまま出港の日となった。そこに先生と旧知の間柄でオックスフォード大学へ留学しているアフリカ・ジョリギンキ王国のバンポ・カアブウブウ王子が先生を訪ねて来て、ようやく船の操舵に必要な人数を確保しクモサル島への航海が始まった。目的地・クモサル島までの長い航海の途中、度重なる密航者に足を引っ張られたり、スペイン領のカパ・ブランカ島に寄港して闘牛に飛び入り参加したり、人間の言葉を喋る不思議な魚・銀色フィジットの貴重な体験談を記録するなどの出来事が起こるが、目的地のクモサル島を目前にして船は嵐に見舞われ、大破してしまう。こうして、苦難の末にたどり着いたクモサル島は内部が空洞になっていて、海上を浮遊漂流する不思議な島であった。珍種のカブトムシ・ジャビズリーの足にクモの糸で巻き付けられていた絵手紙を頼りに、岩盤の崩落に巻き込まれて洞窟に閉じ込められていたロング・アローを救出した先生はクモサル島が南へ流されて南極に近づき、気温が低下して島の部族が危機に頻していることを知らされる。先生は火の起こし方を知らないポプシペテル族に火を人工的に起こす方法を教え、クジラの群れに協力を仰いで島を元の赤道付近へと押し戻してもらい、ポプシペテル族の崇敬を集める。さらに、ポプシペテル族を襲撃したバグ・ジャグデラグ族をバンポやポリネシアの協力で退け、和平協定を結ばせる。こうした活躍により、先生は二つの部族から推挙されてクモサル島の王に選出されジョング・シンカロット(Jong Thinkalot)王と改名させられてしまう。先生の戴冠式では、島民の大歓声が原因で島の中央にある山頂の大岩が噴火口に落ち、島の空洞を打ち抜いて漂流をついに止めてしまった。こうして、クモサル島の王にされてしまった先生は次第に自由のない生活に嫌気が差して来るが、先生が伝授する近代文明の様々な恩恵を求める島民を見捨ててイギリスに帰る決心がつかないまま2年が経過したある日。ポリネシアは2年前の戴冠式で沈降した島の下敷きになりかけて怪我をし、浜辺で休んでいた大ガラス海カタツムリを発見する。海カタツムリを治療し、ポリネシア達の説得で貝やヒトデの通訳を介して話をつけた先生は、その巨大な殻の中に入って故郷のパドルピーに戻ることが出来たのであった。本作に登場するクモサル島の住民は「インディアン」とされていて、ドリトル先生を「王様」に祭り上げ、戴冠式まで執り行うが、基本的に南北アメリカのインディアンやインディオには「王様」は存在しない。例外はアステカやインカ帝国など、ラテンアメリカのごく一部のインディオのみである。インディアンにしてもインディオにしても(英語では両者は同じものである)、伝統的に共有・平等文化を是としており、このアステカやインカのような非常に特殊な例をのぞいて、その社会には身分制度や王族は存在しない。そもそも彼らの社会には「王様を選ぶ」という文化風習は存在せず、必然的に「王冠」を被るとか「戴冠式」などの習慣も無い。「インディアンは王が君臨する野蛮な民族集団である」というイメージは、白人の誤解から生じた偏見であり、植民地拡大を正当化するフィクションであり、今なおインディアン文化をミスリードさせ続けている重大なステレオタイプである。作中の描写はインディアンおよびインディオの文化を、インカやアステカのような特殊な例と混同させる不正確なものである。児童に鑑賞させる際には注意されたい。また、ポリネシアが黒人のバンポ王子に「ホッテントット」と蔑称を投げかける場面などが問題視されたことから、アメリカで1997年より刊行されている改訂版では該当箇所の記述や一部の挿絵が削除されている。本作は「ドリトル先生」シリーズの代表作と言える扱いになっており、日本で刊行される児童向けの文学全集では第1作『アフリカゆき』でなく本作のみが収録されている場合も少なくない。日本における本作の紹介は『アフリカゆき』よりも早く、大槻憲二が博文館の雑誌『少年世界』1925年1月号から12月号まで『ドーリットル博士の航海』の表題で連載したものが初訳である。この連載では小笠原寛二の挿画が使用されたが、単行本化はされておらず戦後にスタンダードとなった井伏鱒二訳に比べると知名度は低い。石井桃子の薦めで『アフリカゆき』を日本に紹介した井伏鱒二は講談社の雑誌『少年倶楽部』1941年1月号より「ドリトル先生船の旅」の表題で本作を連載したが、井伏はこの連載の中途で陸軍へ徴用されて昭南島(シンガポール)へ赴くことになったため代理の翻訳者が連載を引き継ぎ、1942年12月号で完結した。戦後になってシリーズ全編の翻訳作業が再開された際には雑誌連載時に代理の翻訳者が担当した部分も井伏が翻訳し直し、1952年に『ドリトル先生航海記』の表題で講談社・世界名作全集の一編として刊行されている。2000年代まで唯一、シリーズ全巻の日本語訳を発売していた岩波書店が岩波少年文庫に本作を収録したのは1960年であり、本作が講談社から刊行されたのと同じ1952年刊の3巻『郵便局』や翌1953年刊の6巻『キャラバン』よりも後になってからである。井伏の手になる本作の日本語訳は、1979年に講談社文庫からも刊行された。

出典:wikipedia

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